8ミリムービー(小型映画)   



(小型映画の登場)
19世紀末に誕生した映画は、たちまち大衆の興味を引く娯楽の王となり技術の発展とともに
映画産業は一大産業に発展した。以来映像記録の主役はフィルムでした。
誕生当初から現在に至るまで映画の主役は35mmフィルムを使用する劇場用商業映画です。
劇場用商業映画が世間に定着するにつれて、それより幅の狭いフィルムで一般にも手軽に
扱えるようなサイズの映画を開発しアマチュア対象に普及させようとする動きが1920年代に
なると出てきた。
標準の35mm以外の幅のフィルムを総称して小型映画といいますが、この小型映画の
草創期には28mm、20mm、17.5mm、16mm、9.5mm、8mm と世界各国で30種類以上の
タイプのフィルムが開発されては消えるという試行錯誤が繰り返されました。
中でもフランスのパテー社が提唱したパテベビー方式(9.5mm)と、コダック社が
提唱した方式(16mm、8mm)が生き残りました。
コダック社の16mm、8mm方式はその後世界の小型映画市場を掌握し現在に至っています。
パテベビー方式(9.5mm)は日本にも輸入され1926年にはパテベビー愛好会も誕生して
一時はかなりの人気を博したようです。しかし第二次世界大戦はこれら贅沢な趣味の世界を
一変させ、戦後は日本ではパテベビー愛好者もいなくなり、現在ではヨーロッパ中心に
愛用されているようです。
当初一般用として登場した16mmもアマチュアが手軽に映像を楽しむには大きすぎて、
コストもかかりすぎるとのことで、さらにその半分のサイズの8mmフィルムをコダックは
1932年(S7)に発表しました。以後同年に日本にも渡来、世界各国で各種の撮影機や映写機が
製造され日本にも輸入された。日本では1935年(S7)に8ミリ映写機がエルモ社から発売されたが、
一部上級階級の道楽程度にしか普及されないまま第二次大戦に突入し一時中断されました。

 

戦後は生活が安定してきた1954年(S29)頃より8ミリ映画(ムービー)が普及し始め、
翌1955年には国産8ミリ撮影機の第一号が同じエルモ社から誕生しわずか2〜3年の間に
各社から売り出され、スプリング駆動に始まった撮影機は電動式となり、さらに一眼レフ式、
ズームレンズも採用されて本格的な普及がなされた。この間フィルムは白黒からカラーが
主力となり、磁気録音再生、光学トーキー再生の出来る映写機も登場するに及んで、
単にアマチュアのみならず視聴覚教育、学術研究、PRにとさの使用範囲は広がっていった。

1964年(S39)、コダック社は新しいスーパー8方式を提唱しました。これは従来の16mmフィルムの
パーフォレーションの間隔を2倍に増やし、さらに半裁して8mm幅のフィルムにするといった
方式とは全く別の8mm幅のフィルムを用いるもので、コダックは世界のフィルムメーカーや
機材メーカーの協力を求めた。
これに対して富士フィルムはこのシステムにのっとったシングル8方式を1965年(S40)に発表した。
このスーパー8とシングル8に対して従来からある8ミリはダブル8またはレギュラー8
と呼ばれるようになった。

ダブル8と新方式の主な相違点は
1.ダブル8は16コマ/秒 → スーパー、シングル8は18コマ/秒。
2.撮影画面サイズが1.5倍に拡大された。それにより画面が明るくなった。
3.新システムはフィルムがマガジン型式になりカメラへの装填が非常に簡単になった。

スーパー8とシングル8の共通点・相違点
1.フィルムサイズ(画面面積、パーフォレーションの大きさ及びピッチ)は両者とも全く同じ、
  従って映写機は共通で使用可能。
2.フィルムベース:スーパー8は従来のレギュラー8と同じアセテートベースを採用、
  一方シングル8はポリエステルを採用(ベースの厚みが約2/3となった)。
  このため双方を繋ぐと、映写機側でピントのズレを起こしたので、混在編集は出来ない。
3.フィルムのマガジン型式が全く異なり、カメラが共通化できない。
4.スーパー8はフィルムの逆転が出来ないが、シングル8は可能。従ってシングル8は二重撮影、
  三重撮影等の技法が使えたが、スーパー8は使えない。(注:スーパー8でも特殊な
  器具を使えば出来たが、撮影時間はせいぜい10〜15秒程度でほかにも、
  フィルムの最初10ftと最後10ftを除くという制約のもとでのみ可能であった。)

と、以上のような相違点があったが、一番の問題はフィルムメーカーの違いによる発色の相違であった。
スーパー8:コダックのコダクロームU、コダクローム40、エクタークローム160、サクラ、Agfa、・・・・等
であるが、発色の良さから圧倒的にコダクローム系が優位であった。
シングル8:フジクローム25、フジクローム200、一時期白黒(ASA50)が存在した。

8ミリカメラ買う場合の選択肢は、発色の良いコダクロームが使えるスーパー8にするか、
または二重撮影技法等が使えるシングル8にするかであった。


以下私見であるが、
私が初めてシングル8を買った1966年(S41)頃は、フィルム代は現像料込みであったが
コダクロームの方が高かった。
そのためランニングコストのことを考えてシングル8を買ったが、使ってみて初めて
分かったことだが、これが大失敗であった。最初のうちは自分一人で眺めて悦に入っていたが、
飽きたらなくなって街の8ミリ映画クラブに通うようになって、スーパー8の映像を見て、
コダクロームUのあまりの美しさに比較して、自分のシングル8の発色の悪さに愕然とした。
私のシングル8で撮ったSLは黒ではなく、青味がかった黒で蒸気機関車の黒色が出なかった。
この当時のシングル8は全体に青みが強いようで、空や海の色は自然な青ではなく、インクを
流したような青であった。私がSLを撮影し始めたのは1970年(S45)10月からであったが、
SL撮影行脚をするようになってからは、旅費、フィルム代に出費が嵩んでとても撮影機まで
手が廻らなかった。
こうしてS45〜S47頃までは残念ながらシングル8で撮影する他なかった。スーパー8
(CANON 814 autozoom)をやっとの思い出買ったのはS48年半ばであったように記憶している。
シングル8の色の悪さに辟易したが、スーパー8は買えない。窮余の一策として当時8ミリの
専門誌「小型映画」に、コダクロームUをシングル8のマガジンに詰め替えて撮影し、
撮影済みのフィルムはまたもとのコダックのカセットに戻して現像に出すという記事が紹介され、
早速この技法でシングル8カメラでコダクロームUを撮影した。コダクロームはフィルムベース
が厚いので、シングル8マガジンには50feetのうち40feetしか入らなかった。
このような撮影をおよそ半年以上(本数にして60本位)続けたように思う。最後には東洋現像所
から断られたのを契機にスーパー8撮影機を購入しシングル8からやうやく脱却出来た。
しかしこの時期は各地のSLが次から次へと消えて行った時期なので、SLの撮影本数が少なく
当時としてはやむを得なかったとはいえ遅きに失して残念であった。
たしかS48年頃コダクロームUからコダクローム40へ乳剤が変更された。高温現像方式採用による
効率化のためと記憶しているが、これによってコダクロームUの安定した発色の美しさが
少し損なわれたようである。
コダクロームUの時には同一日に撮影したフィルムを、撮影残量の都合によって別の日に現像に
出しても発色の違いはなかった。しかしコダクローム40になってからは、このようなことをすると、
発色の違いが生じて困るのでまとめて現像に出すようになった。一方シングル8も乳剤の改良がなされて、
発色も良くなりかなり黒色が出るようになってきた。その後ホームビデオの増加とともに8ミリフィルムの
使用量が減少していくことになるが、これに伴ってコダクローム40の現像ムラによる
発色のバラツキが目立ってきたように思う。
日本国内での東洋現像所のコダクローム40現像中止により、フィルムからホームビデオ化はさらに拍車
がかかり、大方のスーパー8愛好者はビデオへ転向していった。


以上のように35mmは劇場映画用、16mmは業務用および一部ハイ・アマチュア用、8mmは
一般アマチュア用として使われる時代が長く続きました。

以前は8ミリといえば、8ミリムービーを指していましたが、1984年(S59)に「8ミリビデオ」、
「VHSコンパクト」が発売されるに及んで、一部メーカーを除き撮影機、映写機の製造を中止した。
8ミリビデオ、さらに近年登場したデジタルDVビデオが広く普及した昨今は8ミリといえば、
8ミリビデオを指し8ミリムービーは忘れられたも同然の状態です。
大学の映画研究会やほんの一部の愛好家によって8ミリフィルムによる8ミリ映画作りが
ほそぼそと行われている状態になってしまいました。時代の流れといってはそれまでですが、
現実に8ミリムービーは存在し8ミリフィルムも販売されていますし、
”8ミリムービーって何? ”、 ”そんなのあったの? ”という世代の人々に8ミリムービー
とはどんなものであるのか、どんな風にして編集し、どのようにして録音するのか、
というようなことを少しでも紹介したいと思います。


参考資料:小学館「日本大百科全書」、平凡社「大百科事典」より



8ミリムービーとビデオ