米坂線の蒸気機関車 撮影者のひとりごと


山形県,米沢市で生まれ育った私にとって,身近な鉄道といえば米坂線でした。子供の頃,父親に連れられて南米沢駅に行き,蒸気機関車に引かれた列車を飽きずに眺めていたことは懐かしい思い出です。入学祝いに買ってもらったYASHICA Electro35G1というバカチョンカメラで米坂線の9600を撮りはじめたのは山形大学工学部に入った1970年からです。ここに展示している写真はすべてこのカメラで撮影したものです。このころから全国的に蒸気機関車が姿を消し始め,米坂線でも宇津峠や赤芝峡などに多くのSLファンが詰めかけるようになりました。しかし私は有名撮影地で他のSLファンと同じアングルの写真を撮ることには興味がなく,子供の頃から親しんだ近所の風景の中を走る9600の姿を記録に残そうと米沢−成島間の約10kmの区間をカメラを持って自転車で走り回りました。幸いにも山形大学工学部キャンパスの裏を米坂線が走っているので,休日ばかりでなく,授業の間の休み時間にカメラを持って9600の写真を撮りに出ることもできました。有名撮影地でもないので廃止直前までカメラを構えているSLファンに会うことは全くといってありませんでした。
このホ−ムペ−ジに展示してある写真の主な撮影場所を簡単に説明します。

米坂線


米坂線は奥羽本線(現在の山形新幹線)の米沢駅と羽越本線の坂町駅を結ぶ90.7kmのロ−カル線ですが,1970年当時、9600が牽引する列車が走る路線は本州では米坂線だけということで多くのSLファンの注目を集めていました。 この画像をクリックすると大きな写真を見る事が出来ます
ここに1971年3月(9600引退1年前)時点での米坂線の列車ダイヤを示します。赤い線が9600牽引の旅客列車、紫の線が9600牽引の客貨混合列車、青い線が貨物列車、黒い線はディ−ゼルカ−を表しています。ロ−カル線とはいえ、一日に旅客列車4往復、貨物列車5往復の合計18本の9600牽引列車が走っていた事がわかります。9600は1972年3月のお別れ重連列車を最後に引退しましたが,1972年12月と1973年3月に米沢−羽前小松間にC11204が引く貨物列車が一時的に復活しました。

米沢−南米沢間


米沢駅を出るとすぐに下り列車は国道13号線の陸橋の下をくぐり,半径300mの急カ−ブで奥羽本線と分かれると東部小学校のそばを通り,築堤を松川橋梁まで登っていきます。この1.5kmほどの区間は16.7パ−ミルの登り勾配が続き,9600は黒い煙を噴き上げ,雑木林を背景に市街地の一角とは思えない光景を見せてくれました。勾配区間を登りきると長さ180mの松川橋梁を渡ります。ここも電柱や家屋が近くになく,晴れれば吾妻連峰の美しい山並みが背景になるので,何度も撮影に行きました。

南米沢−西米沢間


米坂線は米沢駅(地元では東駅と呼んでいた)から南米沢,西米沢と米沢市の市街地を半周する形で作られています。南米沢駅はホ−ムが1本だけの小さな駅。このあたりで線路の築堤をスロ−プにしてスキ−を楽しむ少年たちの写真を撮りましたが,今は線路端でスキ−をする子はいないでしょうねえ。ここを過ぎると山形大学工学部の裏で大きくカ−ブし、笹野山を背景に西米沢までほぼ平坦な田園風景の中を進みます。

西米沢−成島間


西米沢駅は駅裏が田圃とリンゴ園の典型的なロ−カル線の駅で,当時はこの駅で1日5回9600同士の列車交換がありました。一方の列車が臨時に9600重連になると3台の9600が小さな駅で交換する姿を見ることができました。西米沢を出ると映画「スイングガールズ」のロケ地としても有名になった長さ169mの鬼面川鉄橋を越え,S字カ−ブで成島の部落を抜け,成島駅まで2kmほど10〜17パ−ミルの下りが続きます。上り列車は田園風景の中を煙を噴き上げながらゆっくりと登ってきます。特に国道287号線の陸橋の上からは中郡の駅を出て,無人駅の成島を通過し,陸橋をくぐるまで5分以上もの間,力行する9600の姿をずっと眺めることができ,何度も撮影に通いました。しかし,持っているのはYASHICA Electro35の交換できない焦点距離45mmのレンズだけで,望遠レンズはなく,列車が近づくまではただ眺めているだけでした。


長井線(現山形鉄道(株)フラワ−長井線)


長井線は奥羽本線の赤湯(南陽市)から長井市を通り,荒砥(白鷹町)までの30.6kmのロ−カル線で,途中の今泉−白川信号所間は米坂線と線路を共用するという特徴を持っています。あまり知られてはいませんでしたが,ここには1日1往復,9600の引く貨物列車が走っていました。下に長井線のダイヤを示しましたが、1日かけて赤湯から荒砥まで9600牽引の貨物列車が1往復していることが分かります。また、今泉-白川信号所間は長井線と米坂線が線路を共用しているために、多くの列車が行きかっています。米坂線から9600が消えた半年後の1972年10月1日を最後に,長井線の貨物列車は寂しく消えましたが,ディーゼル機関車DE10の運用や検査の関係で72年12月と73年3月に一時的に59634が引く貨物列車が復活しました。9600型蒸気機関車にとって本州最後の営業運転でした。長井線は1988年10月に山形鉄道フラワー長井線に変わり、映画「スイングガールズ」で有名になりました。

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奥羽本線

長井線の1日1往復の貨物列車は米沢発着なので奥羽本線米沢−赤湯間の架線の下を煙を吐きながら走りました。特に米沢−置賜間は上り列車にとって10パ−ミル程度の登り勾配が続き,羽黒川橋梁や俯瞰できる国道13号線の陸橋もあるので何度か撮影に通いました。本線上を9600は長い貨物列車を引き,意外な速度で走り抜けて行きました。半世紀あまり前まで蒸気機関車が走った路線を,今は新幹線(山形新幹線「つばさ」)が走っている所は全国でもここと秋田新幹線ぐらいでしょう。


米沢機関区


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 米沢駅の東南側にレンガ作りの米沢機関庫があり,多くの9600やC11がおりました。当時は、機関区事務所で見学者名簿に名前を書けば、機関区内や駅構内で自由に写真を撮ることができました。転車台や大きなガントリークレ−ンもあり,典型的な機関庫の風景を撮るには最高の場所でした。米坂線から9600が消えた後は何台もの9600が連結されて解体されるの待っており、一時代が終わったという気持ちになったことを覚えています。
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山形新幹線の工事に伴い,機関庫付近の線路やクレ−ンが解体撤去され、レンガ造りの機関庫はJR職員の駐車場として使われていました。米沢駅東側広場の整備に伴い、残ったレンガ造りの機関庫や転車台を撤去するのか?鉄道遺産として保存するのか?という問題が地元米沢で議論になっていましたが、残念ながら転車台は2000年10月に撤去され、機関庫は大雪のため2001年2月12日に倒壊し、その後、解体されてしまいました。このホームページの背景は倒壊前に撮影した米沢機関庫の煤けたレンガ積みの写真から作成したものです。


撮影者:鈴木 道隆(1973年3月撮影)


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