黄金の月







 翌朝、イルカの熱は下がっていた。体調も問題ないとイルカはいったがカカシは出発をやはり昼に決め、やがて冬の柔らかい日差しが高く昇ったころ、部屋に紅が尋ねてきた。
 そのときにはもうイルカは身支度を整え、いつでも出立できるようすでベッドに腰掛けていた。

「あら、カカシは?」
「すこし前から、外にでていらっしゃいます」
「じゃあ出発はもうすこし先ね」
「申し訳ありません、ご迷惑をおかけします」
「いいわ、仕方ないでしょう」

 紅はこだわりなく部屋に入り、窓辺に立った。イルカが腰をあげかけると、手のひらをふって座っていて、と言う。壁によりかかり、いたずらっぽく問うた。

「どう、調子は」
「いただいた薬のおかげさまでもう痛みもひきました」
「それは良かったわ」
「ありがとうございました」

 頭を下げると、取立てはカカシからしとくから気にしないで、と紅は綺麗に笑んだ。イルカもつられて笑った。

「それは恐縮です」
「ふふ」

 イルカは紅の立つ窓のあたりを見、そしてその景色をぼんやりと見る。
 紅と話すべきことはあまりない。もともと面識はないようなもので、今回の任務で知り合ったようなものだ。
 ふと思い出して、言う。

「そういえば、このあたりも水が豊富な地域で、この宿は温泉宿だったそうです」
「そうね。共同の大風呂は広かったわね」
「昨日は遅かったのでいけませんでしたが、朝風呂もできるそうで…紅さんはもう行かれましたか?」
「ええ。なかなか気持ち良いものね、ああいうのも。あなたは?」
「先ほど行ってきました」

 紅が、眉をすこしあげて意外の念を表す。
 イルカは苦笑して、「はたけ上忍には止められました」とだけ言い添える。
 熱も痛みも引いたのに心配性だ、という意味で言ったのだが、紅は考え込んでしまったようだ。

「あの…?」
「ちょっと不躾なこと聞くけどいいかしら」

 すこし怯んだが頷くと、真剣な面持ちで紅は訊いてきた。

「カカシが止めたって、たんに体調を心配して? カカシはあなたに痕があったりするから止めたんじゃないの?」
「え、あ、いえ、そういうことでは…っ」

 汗が、いっきに吹き出るような心地を、このときイルカは味わった。直接的にもほどがある、とさえ思う。顔に血が上り、必死に首を横に振った。カカシから話が通じているだろうとは察していたが、あまりにはっきりと示唆されると心臓が踊る。

「そういう、その、ことは、ありません。はい、全然」
「え? そうなの?」
「はい。全くありません」

 紅はとても不思議そうな表情をしたが、イルカは嘘をついていなかった。今回に限って言えば。おそらく行為の場所が場所だっただけに、カカシも痕を残す間がなかったのだろうとイルカは思う。おかげで気兼ねなく、風呂に入れた。たしかにカカシが止めたように、まだ患部の腫れは完全に引いてはなかったが、熱で出た汗を落としたくて入ったのだった。
 窓の外は、木枯らしが吹いていた。ときおり強く吹いては、窓枠を鳴らしていく。

「あの、はたけ上忍はすぐに帰ってくると仰っていました」

 しきりに窓の外を眺めるようすの紅に、イルカはそういった。じつのところ、紅が黙ってしまったので気詰まりでもあった。
 だが紅は「ふーん」と気の無い返事をしただけで、とくになにもいわなかった。部屋に入ってきたときもカカシを気にしていたから、用事かとおもったがそうでもない様子。
 イルカは言うことがなくなり、なんとなく紅の見る外の景色を眺める。どうということもない、茶色い木の葉と枝がみえる、宿の窓の風景だ。

 寒さは今の時期がいちばん深い。
 あと一月のあいだにぐんと冷え込み、そしてそのあとはゆるゆると三寒四温で春に向かう、そんな時期だった。大滝の周辺が凍る季節を、龍の眠る季節とも言い、やがて氷が溶け始めると春を祝う祭りの準備で、この地方は華やかな雰囲気に包まれる。
 イルカの読んだ雑誌にはそういう風に書いてあった。だから、新たに沸いた温泉にゆっくりと浸かるなら真冬より手前から、祭りを楽しみたいなら寒さの過ぎたあとに、と助言もあった。

 任務の主も、きっと春の祝祭に間に合わせたいのだろう。
 そんなことをぼんやりと思い、やはり申し訳なかったと自戒していれば、紅がふと「寒そうねぇ」と零した。

「そうですね、あと少しすればここ一番の寒さになるのではないでしょうか」
「そうねぇ」

 言ったきり、ぼんやりと外を眺める姿勢。日は高いがまだ昼に小一時間ほど猶予を残していて、手持ち無沙汰といった風情だ。

「ねぇ」
「はい、なんでしょう」

 手待ちの隙間を埋めるような呼びかけ。なんでもないような言い方で、紅は言う。

「昨日ね、思ったんだけど」
「はい」
「カカシって、あなたのことすごく大切にしてるのね」

 一瞬、なにをいわれたのか分からずに、小首を傾げた。なんの世間話の続きだろうかと考えてしまったほどだ。

「…大切、ですか? よく分かりませんが、紅さんがそう仰るのなら、そうなのでしょうか」

 とりあえずイルカはそう答える。意味がわからなくても、紅がそう思っているのなら肯定しても差し支えないと判断したからだ。実質的にそうであるかと考える必要はない。
 ましてや、実質的にそうである必要もなく。
 すると、紅が肩をすくめた。

「まぁいいわ―――そういうことにしといて」
「はぁ」
「けっきょく、ほんとうに似たもの同士なのね、あなたたちって」

 黒い視線がイルカに向けられた。おもわずイルカも見返す。とても意外なことを言われた気がした。

「似ていますか」
「私からすれば。頑固、でもないし、底まで見せないとか、そうね、なんていったらいいのかしら」

 思案げに指が唇にあてられ、すぐに離された。

「駄目だわ、うまく言えないね。やっぱり、秘密の多そうな感じ、かしら」
「秘密…」
「人に見せる部分と見せない部分を分けてる気がするのかもね、忍びなんだから当たり前なんだろうけどね」
「それは心理分析ですか?」
「あら違うわ。図星だったらごめんなさい」

 素晴らしく良いかたちに唇をゆがめて、紅は笑って見せた。ごめんなさいと謝りながらも、はっきりと口にだす強さにイルカはかなわない気がして、苦笑する。強かさでは勝てる気がしない。だから正直に言った。

「昨日、カカシさんからも同じように言われました」
「…あぁ、やっぱりそう呼ぶのね」
「?」
「カカシ、さん」

 すこしだけ俯き、イルカは「はい」と肯定した。紅の口調には悪意はなかったが、気恥ずかしさが沸き起こった。失礼のないようにと気を張っていたが、話すうちに緩んでしまったようだ。

「…すみません」
「いいわよ、知らない相手でもないし。でもそう、カカシさん、か。さすがに、はたけ上忍、はないだろうなぁって思ってたけどね」
「あ、いえ、その…」
「ふふ。そう、カカシに言われたの。秘密が多いって?」
「いえ、嘘をつかないで欲しいと―――付いているわけではないんですが、カカシさんはそう思われたようで…不調を隠していたことを怒ってらっしゃったのだと思います」

 昨日のカカシの様子を思いだした。いつもよりもずっと口数の多かったカカシが、イルカに願ったこと。
 隠さないで、と嘘をつかないで、という願いは似ているようでまったく別なのに、と一夜あけて思った。
 カカシに隠そうとしていることは多くあるが、嘘をつこうとおもったことはないと思う。知り合ってからの長いあいだで、カカシがどう思って昨夜のことを言ったのかは想像つかないが、カカシはイルカに真実を求めているのだろうか?
 カカシに惹かれ、どうしようもなく恋焦がれていることを表に出せ、と?
 それはとても無理なことのように思えた。
 不安と長年の習性が邪魔をする。
 せめて不安さえ、いつかカカシに厭きがきて居なくなるのではないかと怯える不安がなくなれば、と思うが、それはカカシに何かを求めていることに違いなく、イルカはやっぱり諦めを覚える。
 それに、何を言ったとしても疑われるのだろうと思ってしまった今では、カカシに言葉を尽くすこともまた、無理におもえて諦めてしまった。

「うーん、カカシは普段、あんまり怒ったりとかしないけどね、不機嫌になることはあるみたいだけど、笑ったりもしないし。あ、でもあいつがガイみたいに笑ってたらそれはそれで面白いかもね」

 ガイはイルカも知っている。後輩の指導に熱心に取り組んでくれる、頼りがいのある上忍だ。けれどその熱血ぶりも上忍並で、歯を輝かせて微笑む姿は印象的だ。その姿をカカシで想像して、ついイルカも笑ってしまった。笑いの発作が、腹から起きてきて、喉で笑う。

「それはちょっと、怖いですね」
「あんまりね、周りにも私たちにも感情を見せたりしないのよ。忍びの鑑かもしれないけど、人間なんだからもっと喜怒哀楽があって悩みがあったりしていいとおもうのよね。誰にでもあっさりしすぎてて」
「そうかもしれませんね」

 無難に相槌を打った。

「でも最近、やけに"人間っぽく"なったな、って思って」
「そうなんですか」
「あなたのせいじゃないかと私は思ってたけど?」

 言われ、意味ありげな視線を投げられて、イルカは急に落ち着かなくなる。いまさら気づくまでもないことだが、紅は幻術だけでなく美形でも名を通している。紅く塗られた唇や魅惑的な瞳もくのいちとしての武器になっているのだろう。こうやって面とむかって話していると落ちつかない気分にさせた。さすが、魅力も実力のうちか、と思いゆっくりと答えた。

「心当たりはありませんが…」
「そうね、そういうものかもね」
「はぁ…」

 紅になにか買い被られている気がしたが、あえて反論するのも気が引けて、返事ともつかない返事をもらす。紅が可笑しそうに肩をゆらした。

「イルカって媚びないところがいいね、淡々としてて。そういうところがカカシを惹きつけるのかしら」
「あの…」
「ん、なあに?」

 本当に、先ほどからどうも座りのわるい心地を味わうと思っていたが、やっぱり紅は自分とカカシを誤解している、とイルカは思う。
 イルカはそんなに媚びないわけでも隠し事が多いわけでもない。見え透いたお世辞を言うには器用さが足りないだけで、隠し事が多いのはカカシに対してだけだ。カカシが人間味を増したというのならカカシ自身の原因だろうし、イルカには自分が何かをしたという心当たりはない。
 カカシにしても、ずいぶんと認識が違うようだ。
 けっして、紅のいうようなことは無い。

「あの、カカシさんは、その、俺のことについて、おそらくそんな風には思っていらっしゃらないと思いますが」

 慇懃無礼さの一歩手前で、イルカは言った。われながら言いまわしが変だと思うが、このさい気にしない。とにかく、異議を唱えておかなければと思った。大切だ、といわれるのはまだ解釈の違いかと思えるが、カカシがイルカに惹かれている、というのは言いすぎだ。事実と大きく違う。
 けれど、紅はそんなイルカに目を見開いてみせて、驚いたような声で言ったのだ。

「なに言ってるの、もしかして惚気てるの?」
「いえっ、そういうことでは…」
「見てればわかるわよ、カカシのやつ、分かりやすいんだから。それとも私の見間違いかしら」

 はいともいいえとも言えない間が空いた。イルカは答えられない狭間で顔を紅くして、口篭もってしまう。紅の見間違いというには遠慮が立ちふさがり、紅の言を肯定するには否定の感情が先に立った。

「じゃああなたって、いったいどうしてカカシがあなたにべったりなのかを考えたこと、ないの?」

 手厳しい質問だった。カカシがイルカに"べったり"かどうかはイルカには分からない。紅にはそう見えるだけだと反論したかったが、それよりも、カカシがイルカと共に居ることについての問いのほうがイルカにとっても重要だった。

「それは…」
「まさか考えたことないとか」
「いいえ、そうではありませんが、―――考えないようにはしていましたが」

 ああ、そうなの、と紅は相槌をうった。先を促すような軽い相槌で、イルカも背中を押されたように言葉を繋いだ。

「ただ―――…ただ、性欲処理のためだと思っていましたので」

 紅が絶句したのが分かった。
 ああやっぱり言わないほうが良かっただろうかと、イルカは後悔し始める。あまりに惨めな告白だった。

「その、あの方はとても優しいので、きっと周りからはそう見えるだけなのだと思います。俺にもとても気を使ってくださいますし、丁寧に接してくださいますから、誤解されるのは無理もないと思いますが…」

 言い募るうちに、自分の言葉に自分で落ち込みそうになった。
 カカシがイルカのことをどう思っているのか、など。
 そんなこと分かりきっている。
 ―――なんとも思ってない、だ。
 簡潔明瞭に答えが出すぎて、可笑しくなるほど。

「カカシさんが俺にかまっているって見られるなんて恐縮です。ですがあの方の名誉のために言わせていただければ、俺なんか、目の端にもかかってないと思いますよ」

 にっこりと笑うと、なぜか紅はまた言葉を失ったようにイルカを見つめてきた。
 驚いた表情で、紅の唇が恐る恐るなにかを言おうとしたとき、扉が叩かれた。はっとした顔で紅は扉のほうを見、イルカは「はい」と返事をした。
 扉が開き、銀の髪が見えた。

「イルカさん、体の調子は?」
「はい。大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」
「じゃあそろそろ飯くって行こうか」

 カカシの視線が紅に移った。

「…二人でなに話してたのかな」

 ひそめた声ではなかったので、イルカにもそれはよく聞こえた。紅が肩をすくめて、「あんたに言うことじゃないから、秘密よ」と言った。直後、カカシの周りの空気がすこしばかり不穏になり、イルカは内心慌てた。
 昨夜、カカシがしきりと言っていたように、秘密という言葉はたぶんカカシの苛立ちのもとになる。それを紅も分かっていないはずはないだろうに。先ほどまでの会話の内容でもあったことだ。わざと、カカシを怒らせてからかっているのかもしれないな、と嫌な空気を感じながら思った。

「じゃあ荷物を取ってくるわね」

 窓際の壁から背を離して、去り際に「雪が降りそうな空だね」と紅は言った。




2004.08.5