黄金の月







 凍えるような夜空にすっきりと月が浮かんでいた。
 結局、夕刻近くになって密書を運ぶ任務が回ってきたために、カカシは夜更けにイルカの家を訪れるはめになっていた。
 これまでなら、もう寝ているだろうと諦めるところだが、いまは合鍵もある。
 それに紅からの話がたしかなら明日から、数日ほど里からでることになる。だから、今夜は会いたかった。カカシにすれば連日といっていいほどの感覚で、イルカと会っている気がするので、数日会えないと分かっていると、とたんにイルカの傍が気になりだす。

 恋しい、というには曖昧で、気に病む、というには甘さを含んだ想い。
 冴え冴えとした月のもと、夜道を急ぎながら、イルカとともに寝床に入る暖かさを想う。

 見上げれば、いかにも冷たそうな色の月が、晧々とカカシを照らして、いつかのことをおもいだした。
 月の光にてらされたカカシの髪が、好きなわけじゃないといいながら、まっすぐに光とカカシを見ていたあの人の瞳を。
 眼差しの熱を。

 息を吐けば、白くけぶる色。
 それさえ黄金色に染まり、カカシは目を眇める。
 イルカの家まで、あともう少しだった。





 合鍵をつかうことにじつをいえばいまだ戸惑いがあり、すこしだけの気がかりとなっていたが、それもイルカの家の窓が明るかったことで消えた。まだ、合鍵をつかってイルカの家に入ることに慣れていない。
 音の響く鉄製の階段をのぼり、細い通路にならぶ扉のひとつを、控えめに叩く。
 しばらく待つと「どうぞ」と声があり、ようやくカカシは扉を押す。軋む扉からもれ出でた蛍光灯の光は明るく、カカシは「お邪魔します」といいながら扉を閉めた。夜の世界が遠ざかる。体をつつんだ室内の暖かさが、カカシの体を緩めた。
 イルカは食卓に巻物を広げて、なにかを読んでいる途中だった。
 傍にいくと、それは変化の術についての初歩的な解説書だとわかる。イルカの髪がしっとりと黒く見え、石鹸の匂いとともに、もう風呂に入っていたことが知れた。

「外は冷えたでしょう?」

 顔をあげたイルカが言い、席をたって鍋を出しながら、「風呂、まだ冷めてないと思うんですが」と言った。
 小さなストーブだけのこの室内はたいして暖かくなく、底冷えも酷いが、さきほど外の寒風にさらされていたカカシには、充分な暖かさに思えた。だがイルカの心遣いが嬉しく、カカシは立つイルカの背後へぴったりとくっ付きながら、「ありがとうございます」と言った。
 肩口のくすぐったさにか、イルカが肩を竦めたが、カカシは耳朶のうしろへ鼻先を埋めて洗い立ての匂いを楽しむ。体温で柔らかな匂いに変わる石鹸の匂いは、この歳になってだんだん好きになってきた。肌から立ちのぼるような香りが良い。

「…お風呂、入られないんですか?」
「うん、もうちょっと。それ、俺のお茶ですか」
「はい、そのつもりです」
「ありがとう」

 言って背に張りついたままのカカシに、イルカがすこし眉をさげた。

「カカシさん…、その、後ろにある急須を取りたいんですが…」
「あ、はい、ごめんなさい。はい、これ」

 テーブルのうえの急須を、体をひねってすぐに取って渡すと、イルカがさらに言う。

「あの、お茶の葉が…」
「えーと、どこにあったかな」
「そこの戸棚のなかですが、いえ、俺、取ります」
「いいよ、俺が取るから」

 言ったとおり、イルカが動くよりもさきにカカシは腕をのばして、斜めむこうの戸棚から器用に茶筒をとりだしてイルカの前に置いた。それらがイルカの背にぴたりと寄り添ったままで行われたので、イルカがカカシの腕のなかで半身を捩る。見えた横顔が、すこし困ったようになっていた。

「あの、動きにくいです」
「ん、そうだね」
「あの…」

 動かないカカシへと、溜息になりかける手前の吐息をひとつ。その口元に苦笑が浮かんだ。
 その表情はまるで穏やかで、カカシは昼間のイルカと比べてしまう。ほんとうに笑うときには、口を大きくあけて、なにも裏がないように笑って声を弾ませる人だ。昼間にそういうふうに、思った。
 いつもはなにも引っかからないはずのイルカの穏やかな表情。凪ぎに似た雰囲気をまとうイルカを心地よいと感じていたはずなのに、いま、どうしようもなくその表情が我慢できなかった。
 網膜に焼きついた、一瞬の、苦い笑い。諦めたような。なにかを誤魔化すような。なにかを―――隠すような。
 力任せに、イルカの体を向き直らせて、カカシは乱暴なキスをした。

「…ッ、カ、カカシさん…ッ?」

 驚いてパッと身を離そうとしたイルカを、腕の力だけで引き寄せる。痛そうにしかめられたイルカの唇に、もういちどキスを被せる。舌をからめて、言葉にできない想いを伝えるように、激しいキスをする。
 その合間の切れ切れに、戸惑ったイルカの静止が聞こえたが止めなかった。唾液が交わって、舌の先が痛くなるまで繰り返して、服の裾から掌を滑らせる。
 しゅんしゅんと鍋のなかが沸き立って音をたてたが、気にしたイルカが身を離そうとするのが苛ついて、腕をのばして火を消した。
 そうするともう室内でおこる物音は、イルカとカカシが身動きする音だけで、言葉も無く、粘着質な音が息遣いにまじって聞こえるようになれば、あとはもうイルカはなにも言わなかった。


 ―――なにも、言わなかった。




2004.07.20