黄金の月
翌朝、目覚めたときにはやはりカカシはいなかった。
まぶしいばかりの朝の光が、もうしわけ程度に身体へかけられたシーツと、だらしない自分の身体をあらわに見せていた。
ためいきをつきたい心地を、一息呑んでこらえ、イルカはベッドを降りる。
とたんに体が軋み、顔をしかめた。
そして体の奥にのこる、微妙な違和感。
今回は、とくに強く感じる。
なにを思ったかしらないが、ベッドではなく、風呂場で性交を求められるとはおもってもみなかった。しかも風呂桶のなかでなど。湯から上げられてのことだったとはいえ、普段とは違うつながりに、イルカはとても混乱したし、残滓感はより強く感じる。
風呂場へと足を向けたが、昨夜の自分をおもいだしそうで、イルカは乱暴に髪を解いた。
ゆっくり湯に当たろうとおもう。
腰を疼かせるような違和感を、残らず消し去るために。
身なりを整え、家をでたときには、予定していた時間をすこし過ぎていた。これから受付所に行き、今日の任務をもらう。先日の任務は伝令で一両日のものだったから、今度は長めのものがいいなと、歩きながら考えていた。そしてできるなら、ランクの高いものを。
疲労の回復しない体はまだ辛かったが、それは一日寝ればなんとかなる。
どうにもならないのは、時間と経験だ。イルカはその二つがいま欲しかった。
望むべくもないが、できるならば、カカシと並んでも見劣りしないほどの戦功を―――。
考えて自分に失笑が漏れた。
なにを馬鹿げたことを考えているのだろう。
過ぎた望み。
夜の光のもとでなく、昼の光の下でもあの人と共に居る自分。
体だけを求められるのではなく、忍びとしての技能や、イルカ自身の能力を必要としてほしいと―――。
馬鹿な話だ。
自分を愚かだと心底おもった若い日からは、もう幾度も年を重ねているのに、いまだにこんなに愚かだ。
イルカはカカシが最初に告げた言葉を忘れない。
数しれないほど抱き合っても、たとえ二度は聞かなかった言葉だったとしても、忘れられるものではなく、またその言葉は、イルカのこうした態度を形作っているのだから。そう記憶から消えるものではない。
受付でうけとった任務は、派手な内容ではなかった。
だがイルカのような、堅実に忍耐強く任務をこなすものに、優先して振り分けられるような任務だった。必要な事務手続きをしながら、イルカはこんなものだろうと自分を評価する。
自分には、他者から評価され、求められる能力や特性がある。ただそれが、カカシのように華々しくはいかないという話だ。そういえば、と思い出した。先日、アカデミーの教員を配置するにあたって、新しい教員を考えているという話があったそうで、それにイルカの名があがっていた。イルカ自身は驚いていたのだが、どうもイルカのひととなりを評価してのことらしかった。いわく、誰にたいしても媚びることなく、真摯で誠実だ、という。
それはたんに、カカシへの対応を筆頭にして、たんに上というものにたいして無反応を決め込んでいるからじゃないのか、とイルカは自分を笑ったものだった。周りは自分を好意的に見すぎている、と思う。とりあえず、打診以降の進展は、いまのところない。
受付を出れば、陽光が目を焼いた。眩しい。目を眇めつつ通りを行くと、ふと声をかけられた。
よう、と気軽なそれに、イルカは懐かしい記憶にあたる。
「よう、久しぶりだな」
言えば、声をかけてきた男は、イルカと同じように破顔した。
アカデミー時代、一緒のクラスだった。
「久しぶりだな、イルカ。これからか?」
「ああ、お前は? 帰ってきたところか」
支給されている忍服だったが、どこそことなく泥や綻びがみえた。様子からでは、戦地帰りと想像できるような姿。ちりり、と胸のやける想いを隠すイルカに、男はわずかに肩をすくめた。愚痴るような仕草。
「まあな。置いてけぼりをくらって、そそくさ帰ってきたとこだ」
「置いてけぼり? ってなんだ?」
「いやさ。あ〜、つまり、俺たちの指揮してる人がさ、最後の最後で入れ替わっちまってな」
ぼやくように男は言うが、それは良くあることじゃないのかとイルカは不思議に思った。服がくたびれるほどの任務なら日数もかかるだろうし、それほどの任務を率いる忍びなら、途中で召集がかかり引継ぎをすることもままある。イルカは体験したことはないが、話にはきいていた。
「引継ぎの人が居たんだろ? それでじゃないのか」
「ああ、まあそうだがそれだけでもなかったっつーかさ、なんつーかよ」
言いにくそうな様子で、男は後頭部をがりがりと掻いた。やりきれない、といった風だろうか。
渋い声音だった。こぼさずにはいられなかったように、ぽつりと言った。
「…犠牲がな、出ちまったんだけど」
「―――あぁ…」
どうりで言いにくそうなのかと納得しかけたが、しかし男が渋い声なのは、また別のようで、言葉が続いた。
「それを自分のせいだっつって…隊長が、あぁ、最初のな、隊長が先に里に報告しちまったんだ。―――俺、今回、副を張ってたんだけどよ、けど、言い訳もなんも一切なし。させてもくんねーのよ。自分の采配ミスだって、よ。俺ぁなんか、申し訳なくてよ。俺のミスもあったんだよ、もっと用心して気を使ってりゃ良かった。けど隊長は、俺が隊長だから、って言ってな」
「へぇ…よくは言えんが責任感の強い人なんじゃないか、それ。…場合にもよるだろうけどさ、立派だろ」
「そうなんだけどよ。俺もそれなりに副だって気ぃ張ってたし、足ひっぱんねぇようにって気合入れてよ、けどなんか…頼んねぇって思われてたんだろうかって今んなって思ってよ。先に帰るからって、認識票持って、お疲れっつってあっさり帰るし。ちょっとな、―――落ち込んでたわけだ」
悪ぃな、愚痴きかせちまって。
誤魔化すように笑った顔は、アカデミー時代の思い出と重なってみえた。イルカは同じように笑って、男の腕を数度、軽く叩いた。
仲間を亡くした引責の念は、すぐにぬぐえるものでもないだろう。軽く笑っていても、イルカに男の全てを量ることは不可能だ。だから、叩いた力同様、軽く言った。
「いいよ、別に。俺のを今度聞いてくれりゃ」
「へえ、お前が愚痴なんかあるのかよ。お気楽極楽イルカが」
「ばーか、言ってろよ」
アカデミーのころの馬鹿騒ぎを思い出す。考えるまでもなく、騒ぎの中心はたいていイルカだった。内面の孤独を埋めるように、人の笑い声を聞いていたかった年頃だったのだ。
ふ、と男が苦笑を溜息に紛らわした。
「まあでもさすがだったよ、二つ名があるだけあるわ、あの人」
「二つ名持ちの忍びだったのか、凄いな」
素直に驚く。特別上忍か、上忍。それでも二つ名が通るのは多くない。
すると男は、ここだけの話だけどな、と口を緩めたのだった。
「それがさ、写輪眼のカカシ、だったんだよ! すっげーだろ! 俺が気合入れるのも分かんだろ!?」
「え…ッ、あ、そう、だったのか。そう、か、写輪眼の…」
「一緒に仕事できただけでも光栄、なのかもな。考えてみりゃ」
「そうか、写輪眼の…」
イルカの驚いたわけを男は、すこしばかり、真っ当に捉えたようだった。イルカが、昨晩共に寝た男のことで、改めて考え込んでいるとは、まさか思い至るはずもなく。
「あー。また仕事してーよ。でっかいの。できりゃまた上に付いて欲しいぜ。あんなの見ると、忍びの醍醐味味わうなぁ」
男は伸びをしつつ、独り言を空に放つ。大きい任務が終わった後の解放感が、それには充分に溢れていて、羨ましかった。押しこんだはずの羨望がまた、胸を焼きそうで。
それを自覚しながら、あいまいな笑みで男を見つつ、イルカは「あんなのって何だよ」と訊いた。
すると男は一転、空から目を戻し、はしゃいだ風に任務でのカカシの勇姿を勢い語り始めたのだった。冷静に指示を出すだの、戦局を広い視野で判断しているだの、無理を強いない部下を大切にする姿勢だの、はては幻術を使って水竜を作りだし、美人くの一で名高い紅と並んでいた姿など、まるで絵のようにはまっていて見惚れてしまっただの、話がどんどん逸れていき、イルカは慌てた。
適当に相槌などうった日には、どこまでも話が続きそうな勢いだ。
「ちょ、待っ、それは分かったから、俺、これから任務なんだよ。もう行かんと」
「あ、そうなのか。そりゃ悪かったな。まぁまた聞きたかったら言ってくれ。俺の目にあの光景が焼きついてるぜ」
「あ、あぁ、そりゃ良かったな。じゃあな、またな」
「ああ、またな。―――あ、おい、イルカ!」
「ん?」
落ち込んでいるといっていた男の、今までにないようなはしゃぎっぷりに、内心「元気じゃないか」と苦笑していたイルカだったが、身体を返しかけたところへの一声。
「武運を祈る」
きっとそれは、命の危険をくぐるような任務についた者だからこその、当たり前の言葉。
だがそんな当たり前の言葉から遠ざかっている自分を、イルカは改めて実感し、そして、そんな自分を恥じた。どんな任務にでも、命の危険がある。忍びである以上、それこそが当たり前で、危険のない任務などないのに。
武運をと祈られることがないことに甘んじていた。
堅実であることを求められて辟易していた己を、恥じる。
カカシが高みに居ることにばかり囚われて、―――自身の足元を見失っていた。
「―――ああ、ありがとう」
答えて、イルカは今度こそ背を返した。
不思議と身体に力が戻る。さきほどまでの眩しい太陽も、今はもうそれほどでもない。目が慣れただけだとも思えたが、少なくとも顔を真直ぐに上げることが易しくなった。軋む背筋を伸ばして、鈍く重い脚をしっかりと動かしていく。
そういえば、もしかするとそのうちアカデミー勤務になるかもしれない、と言い忘れたことに気づく。
教員には、選抜をうけての登用が常であるので、名が挙がったときにはおおよそ決まったものといえる。あとは本人次第といってもいい。それを、つい先ほどまでには後ろ向きに、まだ決まったわけじゃないと考えてたのに、現金なものだ。
もしかすると、カカシを褒められて、一気にふっきれたところがあるのかもしれない。
カカシにはカカシの道が。イルカの知らない場所で戦い、評価され、そして里に帰りイルカを抱く。なんの言い訳も睦言もこぼすことなく。
そしてイルカにもイルカの道がある。里で生き、地味だと思いながら任務をこなし、評価を受け、信頼に足ると教師に選抜される。
大きく優劣を感じていた二つの道。
けれど、高みと地を這う区別などではなかった。あったのは、卑屈感。
命を危険に晒すことを尊いとした、自分の愚かな価値観。
二つの道は上下に分かれてなどなく、別々にただ存在してただけ。
カカシにはカカシの道が。
イルカにはイルカの。
評価をするのは他人であり、上下を決めるのも他人だった。
それを己が誇ることとは、全く別のことだった。
己の道を誇る。
危険のない任務を回される自分を僻むのではなく、「忍」であることを誇る自分。
ありがとう。
懐かしい同輩へ、もう一度、感謝を口中で呟いた。
僻む自分などやはり嫌いだった。
それから抜け出る糸口を与えてくれた言葉に、彼に、感謝を。
あと、遠くはあるが、間接的に関係してきたあの人にも。
さらに惚れました、などと―――口が裂けても言うつもりはないけれど。
2004.5.7