それは単純な幸せの瞬間だ。





 後ろからぎゅぅっと抱きつかれたままで、けっきょく映画は終わってしまった。
 衣服を着たままでの触れ合いに、なぜか動揺して途中から話の筋がわからなかった。
 イルカは自分の手足に触れている上忍に、そっと声をかける。

「あの…もう終わりましたから、その…」
「え、もうちょっと、いいでしょ?」

 肩口からの美声に、イルカの首筋が小さく竦められる。
 カカシの喉の振動さえ、肩を伝って震えて、それに反応してしまうのに、これ以上、くっ付いていたり話していたりはしたくなかった。
 すでにカカシには、この鼓動の早さはバレているだろうけれど、どうにも勘弁してほしい。
 心臓が苦しい。
 どうせなら暗闇で全裸のほうがまだ冷静になれる。
 こんな近しく触れ合って、寒々しい秋の夜に暖めあうなど、イルカの中では在り得ないことで、一時もはやく解放してほしかった。

「いえ…でも…―――」
「あったかくない?」

 また響く声。
 吐息が微かに耳朶にかかって、くすぐったい。
 ともすれば、腰のあたりにくるような、感覚さえ。

「そういうわけでは…」
「映画、好き?」
「え」
「ホラーとか、コメディとか、アクションとか、どんなのが好き?」

 問われて戸惑った。
 今日のカカシはずいぶんと問いが多いなぁという見当違いなことを思いつつ、身体を捻って真後ろのカカシを見ようとする。カカシの唇が、半ば振り返ったイルカの頬にキスを落とす。
 指が、いつのまにか腰のあたりを探り、見えたカカシの唇が笑っていた。

「夢中になってたね、どんな映画が好き? 俺、詳しくないから」

 いいながらも掌が、忍服のアンダーを捲り上げて、肌を滑り始める。
 ふるっ、とイルカの体が震える。
 掌は冷たく感じられて、いつもよりもその存在が確かだった。

「別に…今日はたまたまテレビをつけたら、やっていて…」
「そう? じゃあ特に好きっていうのは?」
「いえ、特には」
「へぇ」

 それよりも離れてください、といおうとした唇は、柔らかく塞がれた。
 イルカの声がくぐもる。
 胸の突起を、カカシの指が擦り上げて体が跳ねた。

「カ、カカシさん…っ」
「今日はちょっと寒いぐらいだね」

 なんでもないような声でカカシは言い、無駄の無い動きでイルカの身体を組敷いていく。
 けして強引ではない力に、イルカの抗う気持ちも流れていってしまう。
 太腿の内側を、カカシの膝頭が押さえつけて、熱が伝わる。
 イルカの瞼の裏が熱を帯び、ぎゅっと目を閉じた。
 囁きが、吐息とともに唇に流れ込んできた。

「一緒にあったまろうよ、ね?」






 翌日、夕食を過ぎた頃にカカシが訊ねてきた。
 昨夜とは違い、今日は食卓に座って持ち帰りの仕事をしていたから、イルカは玄関扉を開けに向かった。カギのかけていない扉は、ただノブを回すだけで開く。だがカカシはそうそう自ら扉を開けようとしない。
 その態度が、カカシと自分が明らかに「他人」だと知らせているようで、イルカはときおり苛立ちを覚える。
 このときも、そんな苛立ちの芽を隠しながら、扉をあけた。
 そうするとカカシが立っていて、こんばんわ、という。

「どうぞ」
「お邪魔します」

 いつものやりとり。
 昨夜はしなかったやりとりが、またいつもに戻った。
 ここで本当にいつもの通りなら、イルカはやりかけの仕事をやり終えてしまい、それをカカシは本でも読みながら待っている。そして風呂に入り、一緒に寝る。抱き合うこともあったり、たまには無かったりするが、たいてい狭いベッドに共に寝る。
 さて、少しは早めに仕事を終わらせるか、とイルカが椅子に座ろうとすると、「あ」と声がかかった。なんだろうとカカシを振り返る。
 見返ると、カカシが青いビデオケースをひとつ、取り出していた。

「これ、見ませんか」
「…ビデオ、ですか。映画、ですか?」
「ええ、面白いって聞いたのを借りてきたんです。あなたが見てないのだといいんですが」

 その青いケースは見覚えがあった。
 里で一番大きいレンタルビデオ屋だ。里人も多く利用する店で、この上忍がビデオを見ていたのかと想像すると、違和感があってなんとなく可笑しい。

「そうですね…あぁ、すいません、見たことがありますね」

 ケースの蓋を開くと、見覚えのある映画タイトル。
 二年ほど前に見た記憶がある。
 特に大きく話題にはならなかったものの、少なくない人々に絶賛を受け、木の葉の里の小さな劇場で長いあいだ上映されていた。騒がれないのに評価が良いようで、気になっていた映画だった。
 わざわざ借りてきたカカシに申し訳なく思って、残念な顔をするが、実のところ、どうしてこの映画をカカシがえらんだのか、イルカは首を捻った。
 この映画は。

「そうですか、うーん」
「…カカシさん」
「はい」
「…これ、どうしてこれにしたんですか?」
「あれ、ダメでした?」
「え、いいえ、そういうわけじゃないんですが…」

 カカシが不思議そうに小首を傾げた。
 形の良い指先が、ビデオのタイトルをこつこつと突付いた。
 『DANCER IN THE DARK』装飾の無い文字が並んでいる。

「それ、アンコがね、世紀のコメディ映画で絶対お勧めだ、っていうもんだからそれにしたんですけど。俺、映画は今まで見たことがなくて、どんなのが良いか知らなくて。どうしたの? 難しそうな顔してますね」

 カカシが傍らに寄ってきて、イルカの頬を撫でた。柔らかな感触に、ふと夜の記憶が甦りそうになり、イルカは慌てて顔を上げて取り繕った。

「い、いえ、なんでも…っ、でもこれはコメディではありませんよ、むしろ―――」
「あれ、そうなんですか」
「これを見て俺は一週間ぐらい気分が落ち込みましたけどね」
「ありゃ」

 ありゃ、となんとも可愛らしい困り方で、カカシが頭を掻いた。
 イルカはそれに頬を緩ませる。

「きっとアンコさんにとっては面白かったんでしょうね」
「あなたには面白くない?」
「…面白いといえば面白いんですが…どちらかといえば、泣ける映画、ですね」

 ふぅん、とカカシが相槌を打つ。
 残念そうだ。
 イルカが見蕩れる綺麗な目元が伏せられて、気まずそうに色がくすんでいる。例えれば犬の毛が項垂れてしょぼくれているような様子に、イルカは少し慌てた。

「ぇ、えと、…折角だし、見ましょうか」
「いいんですか?」
「何がです?」
「イルカさん、見たら一週間は落ち込むんでしょう?」

 本気で申し訳なさそうな言い方に、イルカは苦笑した。

「…ビデオを借りて、これ、一人で見たんです」
「ええ」
「多分、一人でみたからだと思うんです。―――…だから、一緒に見ましょうか」

 言った途端、ふいに抱きしめられて、驚く。
 ぐぐもった声が、笑みを微かに含んでイルカに囁いた。

「借りてきたかいがありました。良かった」
「そうですか」
「泣いていいですよ」
「みっともないから我慢します」

 言いながら身体を離せば、そうですか、とカカシが言い、なぜか瞼にキスをくれた。



2003.9.26