それは単純な幸せの瞬間だ。
吃驚したのは、イルカがいつのまにか泣いていたことだった。
昨日のように背中を包んでカカシは映画を見ていた。こんな体勢は嫌だとイルカは渋ったが、なんとかうまく丸め込んでの鑑賞スタイルに、カカシは機嫌よく映画をみていたのだが、その体勢で気づくのが遅れたのだろう。
頬を滑り落ちる、はっきりとした涙の滴に、内心でカカシは慌てふためいていた。
映画の筋は見ていたから知っている。
始まってから一時間ほど経っていて、テレビの中では、主人公である女が銃を手にして放心していた。今まで苦労をして貯めた金を、近所の男に盗まれ、それを返してもらおうと訊ねたところ、もみあいになりわざと男は女に銃を発砲させた。
そして男は死体となり、女は殺人者となった。
男が金を盗んだ理由は、よりよい生活をしたいという願いのためであり、女が金を貯めていたのは息子のためだった。
男が銃を発砲させたのは、女を強者にしたてるためであり、自身を弱者にし残される肉親を思いやったためだった。
カカシが思うのは、男はよくやった、ということだ。
そして女は不運だっただけで。
もしかしてイルカは女に同情して泣いているのだろうか。
なんて可哀想な女だ、と嘆いて?
そうならば、奇特な人だと認識を改めるだろう。
忍びで在り続けるためには、馬鹿げた弱さだ。
それを持ち得ているのなら、それは随分と奇特な弱さで、酷く残酷な弱さであるはずだ。
「…イルカさん?」
囁き声よりも小さくカカシは言って、頬へ唇を近づけた。
舌で涙をすくおうとすると、イルカは身を捩って逃げる。そして恥じるように二の腕で乱暴に拭ってしまった。
「なんで泣くの」
「……」
画面の中で、女が歌っている。
目を閉じ、ただただ歌っている。
己の身の内を晒し、昇華し、恍惚と歌っている。
酷く幸せそうだった。
実際、幸せなのだろう。その瞬間は。映画のなかで、女が持ち得る幸せという基準は「歌う」という点に左右されているようで、カカシはその姿を美しいと思う。
女は、幸せだ。
「―――…俺、これを見るの二回目です」
「うん」
ぐす、とイルカが鼻を啜り上げる。
涙は止まる様子なく、また、滑り落ちた。
頬についた跡を滴るそれを、カカシは今度こそ唇ですくいとった。
無味無臭だった。
イルカが、俯いて、考え考え話す。
「俺が泣くのは、俺の考える幸せと、この女の人が考えている幸せが違っていて、それを俺が認めたくないと思ってしまうことが、そういうのが、悔しくて嫌で、どうしようもなくて泣くんだと思うんです。…みっともない感傷でしょうが、でも泣けるんです。……すいません」
「どうして謝るの」
たくさんイルカが喋ってくれた。
一緒に見よう、といってくれた瞬間よりも、嬉しかった。
それに、イルカの言ったことはとても分かりやすかった。それならカカシにも分かる。他人のことを理解できないことへの悔しさと、自分の感傷を持て余すもどかしさと。自分の価値基準が先走って、泣けてしまうこともあるだろう。
甘いことは甘い。
だが、自分で甘いと分かっているなら、それでいい。
カカシは安心できる。
すくなくとも任務で死ぬ確率はぐんと減る。任務での生死をわける境界線は、実力と、甘さだから、イルカが自分をちゃんと自己分析できているのなら、自己犠牲で殉職、などという報を聞かずにすむはずだ。
「この女は美人じゃないけど、美人ですね」
まるで、光る水のようだ、とカカシは思って言った。
刑務所に入った女は、まだ歌っていた。
独房に流れてくる旋律を耳を澄まして聞いている表情は、どんな表情よりも純粋に美しかった。
イルカが目を細めて涙を零し、苦笑する。
「…そうですね、矛盾してますけど、俺もそう思います」
聞こえてからは、しばらくどちらも無言でテレビを見つめた。
背中ごしの鼓動は、今夜はいつもの脈動音でカカシに温もりを伝える。
本当は泣き顔をもっと見てみたいが、今になって覗き込んだりすると気分を悪くされそうで躊躇いがある。
無味無臭の、綺麗な味の滴をもっと欲しいのだけれど。
画面のなかの女の顔をみていると、余計にそんな気持ちになる。
女はとても単純で、純粋で、強い。
澱みのない清水のような、と思う。
まるでイルカのようだ、と。
これを世紀のコメディだと言っていたアンコの気持ちも分からなくはないが、カカシにとってはどうも少し違う感想になりそうだ。泣ける、というわけでもなく、ただカカシには必要の無い物語だったということになりそうで。
イルカがここに居るのだから。
「―――この女は幸せだね」
「……ええ、そうですね」
画面の中で、女は歌い、そして殺された。
最後まで歌って死んだ。
イルカの涙は結局最後まで止まることはなかった。頬を滑って服に沁みこんでいく様を、勿体ないように思いながらも、カカシはそれを邪魔しようとはしなかった。
ビデオが終り、何も映らなくなった画面を前に、イルカを抱きしめて首筋にキスを幾度も降らす。
欲の匂いを漂わすものではなく、体温を伝えるように、口付けていく。
涙が完全に乾くまで、繰り返した。
イルカが、一緒に見ようと言ってくれた、その言葉を守ろうとしていたのかもしれない、とずいぶん後になってカカシは思ったが、そのときはただ、映画のように全てが終息してしまうのではなく、イルカがここに居ると言うことを確かめたかった。
それだけだったように思う。
2003.9.28