それは単純な幸せの瞬間だ。
週末をひかえたある晩にイルカの家へ行った。
夜になると気温がぐっと落ち込み、いかにも秋の風情を思わせていて、カカシは僅かに背を丸め気味に扉を叩いたのだった。
いつもなら「どうぞ」と声がして、カギが中から開くのに、その晩にかぎって、待っていても開かない。
居ないのかな、と思ったが、部屋の廊下に面した窓からは晧々と明かりが漏れている。
耳を澄ますと部屋のなかからはテレビの音らしきものが聞こえていた。
ためしにノブを回してみる。
と、するりと回って、扉が開いた。
「こんばんわ〜…」
頭を覗かせて夜分の挨拶をすれば、部屋のなかにイルカの背が見えた。
やはり居たのだ。
「入ってもいいですか?」
訊くと、「はい」とだけ返事が返ってきた。
だが顔がカカシのほうへ向くことはなく、視線はどうもテレビの方へ釘付けのようだ。
とりあえずは許可をもらったことに得心して、カカシは後ろ手に玄関扉を閉めたものの、さて上がりこんでもイルカはカカシに興味を示すでもなく背中を見せている。
よほど気になるテレビがあるのだろうか。
イルカとそんな会話をした覚えのないカカシは、何をみているんだろうと、その畳に座っている背中の隣へ立つ。
テレビはどうも映画を流しているようで、画面のなかで男が二人、暗い部屋のなかを懐中電灯で照らしていた。雰囲気からしてサスペンスかホラーかアクションか。
映画にさほど詳しいというわけではないが、主役らしい髭面の男はカカシにも見覚えがあった。
「面白いですか?」
イルカの気をひきたくて、イルカが現在夢中になっていることへの無意味な質問を投げかけてみる。
そうすると、イルカは唇に人差し指をあてて、真剣な面持ちで「しーっ」とたしなめてきた。
真剣な場面らしい。
一瞬だけカカシに向いた視線は、すぐにテレビ画面へと戻ってしまった。
「……」
暗い画面のなか、懐中電灯だけがちかちかと動き回り、ふいに男たちは死体をみつけ、そして何者かが走り去る。急激な場面展開に、立ち回り、追跡劇。イルカは真剣に画面を見ている。
カカシはとりあえず額当てと覆面を外すと、お茶でもいれようかと台所へ移った。
テレビの音は台所まで聞こえてくるから、それをBGMにカカシは手際よく緑茶を入れていく。急須や茶葉、湯飲みの位置は、さすがに何年も通っていると覚える。勝手知ったるなんとやら、だ。
ふたつの湯飲みをもち、カカシは再度、イルカの傍らに座った。
「熱いですよ」
「ありがとうございます」
渡すときに僅かに触れたイルカの指は冷たく、カカシは驚いた。
そういえば、まだ秋口だからと暖房器具もない室内は、外気とほぼ同じ気温で、すこし寒々しいほどだ。首をめぐらすと、開けっ放しの窓がみえた。それをとりあえず閉めたが、急に温度が上がるでもない。
コマーシャルの入ったテレビの音が、閉じた室内に響く。
イルカは特に何も言っていないが、よくみると胡坐をかいたその足先は太腿の下やらに収まっていて、冷えを感じていなかったというわけではないよう。
カカシは、テレビをみつつ茶をすするイルカの横に同じように胡坐をかいた。
ふーふー、と茶をさましながら飲む音が近くにある。
ちらりと横目でみると、両手で湯飲みを抱えていて、いかにも温かそうだった。
カカシは目を細めて笑む。
可愛いなぁ。
ふと思いついて、カカシはイルカの後ろへ回った。
その動作へイルカが身を捩る前に、その背にぴったりとくっ付いて、カカシは座るイルカを抱きこんでしまう。
一番、暖かい位置。
「え、カカシさん…」
「ほら、テレビ、コマーシャル終わりましたよ」
「あ」
言われて、また戻る興味。
カカシのほうへイルカが向いていた瞬間はほんの一握りだった。
だが、カカシは福々とひとり笑う。
隙間無く詰めたイルカの背とカカシの胸が、ほんとうに温かい。
秋の夜の冷ややかさが入る隙間などなく、ぴったりとくっ付きあっている。
足を収まり良いように前へのばし、胡坐をかいていたイルカももぞもぞと体勢をかえた。アカデミーでよくやっていた体操座りという形だ。大人になるとそうそうすることもなくなったが、こういう場合にはちょうど良い。
カカシは、目の前にあるイルカの首筋にちかい肩へ、顎をちょこんと乗せた。
ぴく、とイルカが反応する。
テレビでは追跡劇が終り、男たちは雪山に向かっていた。
真剣な目でそれをみる様子のイルカは変わりないが、ほんの少し、心音が早くなっている。
カカシの胸に、僅かに伝わってくるその音。
そういえばこの間も、雑誌のグラビアを口実にくっ付けば、心音を早くさせていた。
もっとちゃんとくっ付いたこともあるのに、…照れてるのかな。
思って、カカシは機嫌よく首筋へ鼻先を寄せる。
風呂に入ったあとの匂いがした。
くすぐったそうにイルカが肩を竦めて、身じろぎをする。
「…カカシさん」
「あったかいでしょ」
「でも…」
「爪先も、ほら、もっと寄せて」
言ってイルカの前方に投げ出されていた足先を、ぐっと身体にひきよせて、カカシは自分の足先でくるんでしまった。
想像するよりずっと冷たかった爪先を、カカシはぎゅぅっと暖かい己の足先で押し温める。
「ん…」
「あったかい?」
うなじが、微かに頷いた。
斜め後ろからみえる頬が、染まっている。
ふふ、と笑ってカカシはいっそう確かにイルカを抱きしめた。
「…なに笑ってるんですかっ」
「いえいえ」
「やらしいです」
「そりゃあ、まぁ」
笑って、視線を投げたさきで、男たちも笑って犬が嫌いになった理由を話していた。
2003.9.20