彼岸花





 そろそろ酒も冷やでなく温燗が良いと思い始めた、そんな頃合の夜。
 軽い口調でカカシが告げた。

「明日から暫く来ません」

 唐突な言い様であったし、イルカは「はぁ」と生返事を返しただけだった。イルカがカカシにはっきりと返事をしないのは良くあることだったし、カカシも鈍い返事に気を悪くした風もなく。その夜は、いつもどおり、狭いベッドに二人、抱き合って寝た。

 朝に起きて、隣は冷たく、イルカは寝ぼけた頭でベッドを抜け出した。
 一人で目が覚める朝は、最近、少し寂しいように思うときがある。
 跳ねた毛先をまとめて一つに括って、顔を水で叩き起こす。目を上げれば、先ほどの寝ぼけた顔が、鏡のなかでいくぶんマシに見えた。

 暫く、ってどれぐらいかな。

 今まで音沙汰がなかったときのことを考えれば、軽く二ヶ月は見積もっていたほうがいいのだろうか。
 しかし依頼で里を抜けるという風でもなかった。
 なんとなく、勘、だけれど。
 今はイルカもアカデミー勤務ということで常時里に居るし、自宅にも毎晩帰ってきている。カカシも里から長く離れる任務がないのか、三日をおかずイルカを訪ねてくる。以前のようにすれ違いということでもなければ、もし依頼だったとしても、二ヶ月も空いたりはしないと思うが…。
 寂しいな、と思う心を誤魔化したくて、イルカは出勤の準備をしながらも、会えない間のことを考える。
 カカシなど居なくても、自分の生活には変わりはない、と強がってみせてはいるが、やはり、揺らぐ部分はある。
 それは例えば帰り道にカカシの背中を見かけたときや、自宅の前で待っている影を見つけたときや、それから受付でイルカにだけ小さく笑ってみせてくれたときなど。言えないと思って唇を合わせるけれど、確かに、何かが揺れる。
 カカシには悟られたくないから、そういうときは、ただ曖昧に返事をすることにしていた。

「いつまでだろ…」

 ぼんやりと、一ヶ月を越えると嫌だなと思う。
 カレンダーは昨日、九月へページを捲ったところ。
 別にカカシは意識もしていないだろうし、もとよりいい大人がいちいち騒ぐことも恥ずかしいのだが、やはりふとしたことで知ってしまったカカシの個人情報に、イルカは気を止めてしまう。

 来るなんて決まってないけどさ。

 自分に言い訳をするようにひとり考えながら、イルカはサンダルを履く。
 少ない手荷物と一緒に玄関をでると、空は快晴だった。
 玄関からは、遠くの畦道に彼岸花が明るい赤で並んでいるのが見えて。
 忙しい一日が、今日もまた始まっていた。





 言葉どおり、カカシはその夜から訪ねてこなかった。
 二日目、三日目になると、イルカも気兼ねすることをバカバカしく思って、同僚と久しぶりに飲みに行ったりもした。遠慮なしに飲み食いする時間は楽しく、耳に入ってこなかった同期生の結婚話や、恋人の話、近況の変化がイルカを驚かせ、また喜ばせた。
 最近付き合いが悪かったよな、と笑って詰る同僚に、イルカもまた朗らかに謝って許してもらい、時間はあっというまに過ぎていった。
 そんないつかの日々が戻ったような日常が一週間も続いたころ、そろそろ、寂しさを誤魔化す自分を巧く口封じできるようになったころ。
 カカシを見た。
 正確には、カカシの背中をだ。
 いつものように少し猫背気味で、宵の花街のぼんぼり堤燈のなかを、ゆったりと歩いていた。傍らには、美しい横顔の女が居た。
 思わず、通りを帰る足をとめて、その二人連れを見つめる。

「おい、イルカ? どした?」

 共に居酒屋をでた同僚が、不意に立ち止まったイルカをいぶかしむ。ほろ酔い加減もすすんだ声で、イルカも同じ酒量を飲んでいた。
 もしかしたら見間違いかもしれないと見つめても、やはり変わらない。
 見ているうちに、二人は通りの暖簾をくぐってしまった。

「おーぃ、どうしたんだよ」
「え、あ、あぁ、いや…なんでも…」

 誤魔化して、イルカは無理やり笑顔をつくった。ずいぶん強張った笑顔だっただろうが、酒に酔った同僚は誤魔化されてくれて、イルカは煩わしい思いをせずにすんだ。
 そして頭のなかで、先ほどの光景が蘇る。
 カカシの格好が、いつもの忍服であったことが救いであるような気がしたが(これで女物の内掛けでも羽織っていれば疑う余地もなかったのに)それでも連れ立つ様子はとても任務とは見えなかった。
 やはりごく自然に、そういった仲であると見たほうが無理はない。
 むしろ当然だ。
 カカシほどの色多き男が、いつまでもイルカに関わりあっているほうが変だといってもよかった。
 女と情を交わすことの良さを思い出したのだろう、衝撃はあるが酷いとは思えなかった。

「なんだ…」

 ぽつりと呟く。
 酔った同僚は、千鳥足で違う方向へ帰っていった。
 夜道で呆然と先日の言葉を思い出していた。

 暫く来ません。

「暫くなんて誤魔化して…ずっとって言やぁ良かったのに」

 胸の内にしまいこむには冷たすぎて、イルカは声に出して呟いた。
 秋口の風は涼しく、酔いの程よく回った体には心地よい。
 ひやりと頬を掠めていく夜風を感じながら、ふとイルカは頬に手をやった。

「…なんだこれ」

 指先に伝ったのは、ごく少量の滴。
 知らぬうちに涙が出ていたらしい。
 これが心の内からの発露であるならいいものを、今はただ衝撃に体が単純反応を返しただけのように思えた。
 イルカは腕で目尻を拭って、いつのまにか立ち止まっていた足を、ゆっくりと動かして家路を辿る。
 ぼんやりと思うのは、もう来ないのかな、ということ。
 先ほど自分で零した言葉で肯定したようなものなのに、繰言に似た間隔で頭に浮かんでくる。
 会えないのかな。
 思うが、それはきっと受付や日常ですれ違うことはあると考えた。だが、これからは二人で歩くことも、笑うことも、話すことも、肌を重ねることもない。もちろん、カカシに求められることも。
 抱いて良いですか、
 そう言われることは、実は嫌いじゃなかった。
 イルカを求めていることを率直に、柔らかささえ交えて告げてくるあの唇が、笑みが嫌いではなかった。
 それが、

「もう無いのかぁ…」

 嘆息に掠れた呟きは、誰に聞かれることもなく消えていった。
 それを寂しいとも可笑しいとも思えず、ただイルカは足を動かす。
 家までがやけに遠く感じられた。
 独りの家。
 いまさら、当たり前の事実がぽつんと胸に落ちてきた。

 …もともと、あの人があんなに来るのも…変だったんだし。

 天邪鬼の自分が反論する。
 カカシほどの男が、イルカを頻繁に訪れること。
 それが可笑しかったのだ。
 たしかに始めのうちは、他に行くところがないのだろうかと思いもした。けれどなんの含みも無しにニコニコとイルカを訪ねてくる男へ、疑いを抱くことが面倒臭くなった。だから考えないようにして、ただカカシが訪ねてくることを受け入れていた。…本当は、面倒臭くて考えなかったのではなく、どうして、とか何故とか、そんな風に考え、無闇に答えを得ようとする自分が嫌だったから、かもしれなかった。
 そんな自分が嫌で。
 ただカカシが居る今だけでいいのだ、と。

「……」

 乾いてひきつれたように感じる涙の痕を、イルカは無理に手の甲で擦った。
 温い肌の感触は心地よいものではなかったが、流れた痕は消してくれた。
 力なく、目の前にいつのまにか来ていた鉄製の階段を上る。
 重い体をひきずって廊下を行き、自宅の扉をあけた。
 ガランとした室内。
 暗い。
 そのまま電気をつける気もおきず、しばらく玄関口に立ちすくんでしまう。
 窓からの月明かりだけが光といえるもので、何の気配もない、部屋。
 ふと、イルカの視線が、月明かりを辿った。
 その先には、壁にかかったカレンダーがぽつりと浮かび上がっていた。





 翌日の目覚めは最悪だった。
 頭は重く、喉はひりつき、体はだるかった。
 食欲は無く、つめこむように食パンを牛乳を流し込み、新聞は広げずにテーブルに置きっぱなしにした。何かを読む気にはならなかったし、コンロに火をつける作業が面倒臭くて。
 窓からみえる空は今日も秋晴れで、洗面台の蛇口からの水はひんやりしていた。力なく顔を洗って、髪をしばると、少しだけ気が引き締まる。
 だが、それで全てが改善するというわけではもちろん無く、イルカは、洗面台の鏡に向かって、渋面を見せた。ともすると、悪態が唇から零れそうだった。ぎゅっと唇を引き締めていないと、と思う。
 手荷物をおざなりに持って玄関をでれば、一週間前と変わりないように、遠目の彼岸花が、あぜ道に赤く並んでいた。





  「イルカ? おい、大丈夫か?」
「え?」

 気が付くと手のひらが、目の前でひらひらとひらめいていた。
 それが同僚の手だと分かるまでさらに一秒。
 目を瞬かせる。

「なんか今日はぼーっとしてんなー」
「あ、あぁ、悪ぃ…」
「また昨日、飲みすぎたんだろ」
「…まぁな、ちょっとな」

 決まり悪くて目尻を指で押さえながら、イルカは仕事に意識を戻す。
 かといって先ほどまでどんな考えに耽っていたのかと問われれば答えられないのだが、強いて言えば、同僚の言葉どおりに「ぼーっと」していた、としか言い様がない。思い返しても、頭の中には何の言葉も残っていないから。
 引きつったような笑みばかり浮かべているから、今日のイルカの顔は強張ってしまった。一目で作り笑いとわかるんだろうな、と思いながらも強張った頬を元に戻す方法は、思いつかなかった。
 明日になれば。
 これまで二十数年生きてきた経験が、仄暗い意識の底で呟く。
 明日になれば何だというのか。
 一日が終わり、夕食を食べ、風呂に入り、皿を洗い、ベッドにもぐり、夢も見ない疲れた眠りをむさぼる。翌日になれば、時計を確認し、朝食を詰め込み、忘れ物はないかと考え、家に鍵をかけ、通りを走る。
 きっと明日もあぜ道の彼岸花は美しいだろうし、空は秋を映して高く澄んでいるだろう。
 だから、明日になればなんだというのか。
 苛つく心と、同じように己の心の底で、しかし、明日になれば、と願う思いがある。
 それは今までの経験からの慰め。
 どんなに衝撃があっても、酷く鬱々とした状態が続いたとしても、日がたつごとに薄まっていくものはあるのだ。

 風化ではない、受け入れていくということ。

 物を食むあいだでさえ心に浮かび、眉を顰めるほど痛い思い出でも、いつかはそれを「過去のこと」だと、飯とともに飲み込んでしまうこともできるようになる。
 今は無理でも。
 痛みに心が白く、何も浮かばないほどの衝撃で、今すぐにはとても無理でも、時間がたてばと願うことは無駄ではない。
 イルカはミスのないように書類にペンを走らせながら、もう一度、目尻に指をやった。誤魔化すように擦りながら、張り付いたような眉間のしわも一緒に擦った。





 カレンダーの日付けは、一日、一日と減っていった。
 朝に始まり、授業をこなし、受付も重い気を引きずりながらこなし、家に帰る。ただそれだけのローテーションが酷くゆっくりと回っている気がした。
 そんな日が三日ほど回ったころ、廊下からカカシを見かけた。
 びくっと足が竦んだ。
 ここ数日、同僚たちから心配されるほど顔色が悪かったのだが、それがいっそう白く青ざめていく。  カカシは中庭でアスマと話していた。
 ちょうど顔の見えるような位置で、気づかれてはいけないとイルカは視線を外す。
 だが、あいにくと中庭を囲むように伸びる廊下のため、イルカが回れ右でもしないかぎり、カカシたちとイルカの距離は縮まっていく。
 秋の透ける光で、カカシの銀の髪が淡く見える。
 間近で見ることができれば大層に綺麗だろうと思いつつも、視線は意地になったように窓から外へは向けないようにした。

 まさか声をかけられると思ってるのか。

 それに、自嘲した。
 カカシのほうは何とも思っていないだろうに。
 自意識過剰もほどほどにしろ、と己に笑う。
 そうして硬く早い歩みで廊下を歩き去ったイルカには、中庭の上忍が二人して、難しげな顔で廊下を見上げていたことなど、気づくはずもなかった。





 その夜。
 長い一日が終り、イルカが自宅で食欲のないまま夕食を摂っていたとき、コトリと玄関扉の向こうで音がした。誰かが叩いたというわけでもない。気配を探ってみても、動くものが居る様子も無い。

 なんだ?

 期待したわけではないが、イルカは夕食を中断して玄関へ向かう。
 軋む扉をあけ、辺りを見回したが、誰も居ない。

「……?」

 気のせいだったか、と閉めようとして、外開きの扉の影になにかが隠れているのに気がついた。
 きっと扉の真前に置かれていて、イルカが開けたときに扉と一緒にズレていったのだろう。
 小さな小瓶だった。
 茶色のガラスで、暗く透けて見える中には数粒の丸薬らしきもの。
 それから、瓶の下敷きになって、数行のメモが書かれた紙片。
 拾いあげて、目を通してから、イルカは眉をしかめた。
 片方に歪んでいる癖字、見覚えのある―――。



 顔色が悪く見えました。
 中身は暑気あたり用のものですが良かったら使って下さい。
 三日分、朝と夜に一粒です。        はたけカカシ




 指が震えて、無意識に握りつぶそうとした紙片がカサリと鳴った。
 顰めた眉のまま、イルカは「最悪」と呟く。
 瓶は丁寧に蝋で封がしてあり、メモの最後には署名のようなカカシの名。忍犬が置いていったのか、一言もなしに経口薬を置いていく不躾さと、蝋やメモの名書きなど忍びをたしかに思わせる用心深さとが、一斉にイルカの内で弾けて。
 最悪、と思った。
 そこにはっきりと示されている、否定しがたいカカシの気遣いが、不躾さや用心深さへの苛立ちのあとにゆっくりとイルカに沁み、思い知らせ、確認させてきた。
 見当違いといえるカカシの気遣いが、嬉しいと感じる自分を。
 だから、最悪だと思うほか無く。

「諦めろよ」

 呟いたが、震える指は痺れたように、もう紙片を握りつぶしてはくれなかった。





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 ん、とアスマが視線を動かした。
 訝しく思う前に、男は言った。

「おい、イルカだぜ」

 アスマはイルカのことを知っている。カカシが折に触れて話題にだすためだろう、カカシにとってのイルカをいうものをやけに気にしている。最近は、いや、今はそれで随分と迷惑しているのだが。
 カカシはアスマの視線の先に引力でもあるかのように引きつけられる気持ちを、無理やりに目の前のむさくるしい男へ戻す。不機嫌を口にだした。

「そのイルカさんに会えなくなってんのは誰のせいだよ」
「へへっ、たまにゃー良いじゃねぇか」
「冗談じゃないよ、一緒に居るときのほうがまだ全然少ないよ」

 今回の任務について、他には漏らさないもののカカシは不満たらたらだった。
 秋も深まろうとするこの季節、早咲きの彼岸花を求め、里を北へ南へ、西へ東へ駆けずり回ってきた。野宿までしてその茎と球根部分を求め、家に帰る間もなく、もちろんイルカと会う間もそうそう無く、それが終わったかと思えば、半ば監禁状態で調合作業の始まりときた。作る薬が、忍びの特別調合の避妊薬というから、それなりの機密保持策なのだろうが、カカシにしてみれば良い迷惑だった。
 しかも、薬が出来上がれば出来上がったで、なぜか薬を発注先に届ける役目を負わされた。
 届け先は、医院や薬局、花宿で、まずいことに最後の花宿が一番のお得意さまというのだ。
 おかげで昔馴染みに会うわ、白粉の匂いは擦り付けられるわ、からかわれるわで、面白くない。
 朝から晩までの根を詰めての作業が続く中、イルカにも会えない。
 目と鼻の先に居て、会おうと思えば同じ里の中にいるのに。
   不満が溜まってつい先日それを詰ってやれば、この熊男はこういったのだ。

「白粉の匂いなんかさせちまってたら、そうそう会いにゃぁ行けんよなぁ、カカシ」

 楽しげに笑って見せた男へ、カカシは思わず技をかけてやろうかと思ったぐらいだ。
 誰のせいだ、といいたくなる。
 もともと、アスマがカカシをこの任務へ推薦しなければ、今の状況は生まれていないのだ。
 そのことも一緒に言えば、

「幸せボケしねぇようにと思ってよ」

 だと飄々とのたまう。
 勘弁してよ、とカカシが力なく呟き返したのも無理のないことで。
 それが一週間ほど前。
 今のカカシは、限界もそろそろ臨界を見せ始めていた。もういい加減に家に帰りたい。イルカの家に帰りたい。イルカを抱きしめて、キスをして、肌に触って、一緒に寝たい。イルカの声が聴きたい。温もりと共に眠りたい。
 長期任務に出ているときは、顔もみないほどに遠いからまだ思考の切り離しができる。だが、里にいるとなれば、ただアカデミーに居るだけでも、今イルカはどこにいるのだろうかと考えてしまう。
 そう、ちょうど、こうやって中庭と廊下ですれ違ってしまうことだって、あるのだ。

「おい、イルカのやつ気づかないで行っちまうぜ、声かけなくていいのかよ」
「いーんだよ、…我慢できなくなるでしょ」
「そういうもんかね」
「散々邪魔しといてよく言うね」

 不貞腐れて、カカシは廊下とは違う方向へ視線をやった。
 一目でも見てしまえば、会いに行きたくなってしまう。
 だが、次のアスマの台詞でカカシは飛ばそうとしていた視線を止めた。

「気のせいかもしれんが、顔色悪ぃな、あいつ…」
「え」

 聞き逃せないその言葉に、カカシは素早く視線を上方へ飛ばす。
 一瞬だけ、たしかにいつもより随分白い顔色が見えた。
 普段はもっと、健康的な肌色をしている。
 あんなに病的に白く見えるのは、血の気が引いているからだろうが…。
 足早に廊下を歩き去ったイルカの背は、もう廊下の角向こうへ消えてしまったが、カカシの心配が同じように消えるわけも無く、反対に胸のうちがもやもやと曇ってくる。
 夏の盛りを過ぎて、会わないうちにもしや暑気あたりでも起こしたのだろうか。
 最後に会ったときにはいつもどおりだったが、急に体調を崩したのか。
 大病を持つとも聞いていないが、小さなことでも寝込む人間は居る。例に漏れずイルカもそうであったなら、無理をして仕事にでてきているのだろうか。

「あー! もう、なんでこんな思いしなきゃいけないんだよ! 里に居るのに!」
「お、なんだなんだ、いきなり切れやがって」
「うるさい、アスマのせいだろうが。もういい、文句いっても始まんないし、仕事に戻る。さっさと終わらせて会いに行くんだ」
「へっ、せいぜい頑張れよ」
「あんたもさっさと恋人、見つければ」
「うるせー」

 ほんと、人の恋路を邪魔すると祟られるよ。
 カカシは風にそれだけを残して、その場から消えた。


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 カレンダーの日めくりを千切ろうとした手が止まった。
 ぼんやりと日付けを確認してしまう。
 テーブルに置きっぱなしの茶色の小瓶が目の端に映って、イルカは俯き、そして日付けを千切った。
 14の日付け。
 もう気にしても仕方がないと思いながらも気にしてしまう自分が嫌だ。
 カカシの優しさに期待をしそうなるのも嫌だ。
 関係ない、と切り捨ててしまえればいいのだが、そう簡単に忘れられるものでもなく。
 日々にまぎれるように、記憶も紛れ、心の奥へと仕舞い込めればいいのだが。



 その日の夕刻。
 疲れた身体を引きずり、イルカはアカデミーを出た。
 風がほんの少し、涼しくなっている。
 空は夕暮れに染まりつつあった。
 通りは夕食の準備であふれる人と、騒々しい商店のために賑やかで。
 そのなかをゆっくりと帰る。
 ふと思いついて、一つの総菜屋で立ち止まり、夕食を買った。
 そういえば朝に炊いてこなかったから、今夜は米飯が家には無い。総菜屋を出て、二軒隣にあったお握り屋で、梅干入りの握り飯を二つ買う。いつもならもったいないと家で作りすますのだが、今日はそんな気になれなかった。
 商品を指差し、金を出し、商品をもらい、釣りを受け取る。
 そんな動作がぽっかり空いたような脳裏に、すんなりと心地よく溶けていく。
 ありがとう、と店をでて、今度こそ家路を辿る。
 下げた二つのビニール袋が、がさごそ音をたてていた。ゆっくりと夕暮れ色にそまりつつある秋空を見ながら、家に帰る。
 帰っても一人だと、ふいに思い出してしまって、イルカは唇を噛んだ。
 これまでどおりに戻るだけだ。
 言い聞かせる強さで思って、イルカは家が見える最後の角を曲がった。古ぼけたアパート。階段は鉄製で、上るたびに音がする。扉は蝶番が緩んでいるから軋むし、電灯のカバーも古くて煤けている。  だから一度、カカシが待っていたときなど、あまりにぼんやりとしか照らされていなくて、階段を上ってからその姿が分かったときもあった。
 思い出しながら、階段を上る。

 引越してもいいな。

 このアパートは忍び用の社宅のようなもので、他の忍びにも位置がわかりやすく便利なのだが、いかんせん思い出す事柄が多い。朝の物思いが引きずられるように、イルカの思考に割り込もうとしてきて、ふるっと頭を振って、考えを払う。
もう、悩まされたくないから、この際、一軒家でも借りようか…
 そうぼんやりと考えていた。
 俯き加減に階段を上っていた。
 それにアパートの明かりは薄暗く、はっきりと分からないのだ。
 だから、階段を上がりきるまで気が付かなかった。
 イルカの部屋の前でまつ人影に。

「お疲れ様です、イルカさん」

 久しぶりにその姿を見たような気がした。
 銀色の髪が、鈍い光にでも透けて美しく見えた。

「良かった、そろそろ帰ってくるころかなって待ってたんです」

 にこりと笑う仕草。
 なにも言葉がでてこずに、イルカの足は階段を上りきったところで、止まってしまった。
 表情さえ動かすこともできずに立ち尽くす。
 カカシはイルカの様子には気づく様子もなく、穏やかに微笑んでいる。

 ああ、カカシさんが居る。

 何故だろう、その微笑を確かにこの目でみたと感じた瞬間、両目から涙が溢れた。
 ぼんやりとした明かりの下。
 カカシが待っていた。
 もう見ることはないと思っていた姿を、もう一度見ることができた。
 嬉しい、とか、良かった、とかそんな言葉は無かった。
 ただ、事実に体が反射を返しただけ。
 イルカは慌てて腕で涙を拭った。
 自分でも驚くほど、簡単に涙がでて、場違いにも感心さえした。

「イルカさん?」

 怪訝な顔で、カカシが近づき、乱暴に拭った目尻に触れてきた。
 指先は冷たく、相変わらず綺麗な形をしていた。

「どうしたんですか、なにかあったんですか」

 覗きこんできた目は真剣で、なにも嘘や隠し事はないように見えた。
 イルカは黙って首を横にふる。
 涙は一瞬で止まっていた。
 もともと心が何かに揺れて溢れるのでなければ、唾液や汗と同じだ、だからなんでもない、そう感じながら、イルカはカカシをすり抜けて、扉の鍵を開けた。
 心配げなカカシへ、中を示す。

「どうぞ」

 まだ電気も灯していない家の中は暗く、その中へどうぞというのは実際、変な話ではあったが、カカシは怪訝そうにしながらも先に入っていった。すぐにパチリと電気のつく音がして、明るくなった。
 なんの心配も無い健康的な明るい、蛍光灯の光。
 無意識にイルカは肩の力を抜いた。
 その光の中でも、カカシの姿が見えたから。
 傍らのテーブルの上で、茶色の光りがきらりと反射した。







「で、どうして泣いたんですか」

 思い出したように訊いたのが、夕食も風呂も済み、ベッドの中でだというのが恐れ入る。
 イルカは不意をつかれて、カカシを見返した。
 今夜はイルカが先に風呂に入っていて、カカシは後だった。そのために先にベッドで本を眺めていたのだが、髪を湿らせたままのカカシが一直線にベッドにやってきて訊くから、本当に一瞬、何を訊かれているのか分からなかったのだ。

「帰ってきたとき、泣きましたよね」

 至近で、真剣な目に見つめられれば、誰でも口篭もる。
 イルカも例外ではなく、普段でさえ重い口が、ますます重くなってぴたりと閉じてしまった。
 息苦しいような視線を外したいと俯こうとすると、顎が指に取られた。

「誤魔化さないで。泣くなんて初めてでしょ、俺のこと?」

 問い詰める口調が、いつもより随分と硬く、イルカは眉を潜めた。
 どうして詰問されなければならないのか、と感じたからだ。
 それに気づいたのか、カカシはふっと目を和ませて苦笑した。


「気になるんですよ」
「……別に、あなたが気にされることじゃ」
「俺を見て泣いたのに?」
「……………」

 不本意と感じる言い方だったが、間違ってはいなかったので、イルカは言い返せなかった。
 別に、気が緩んでとか、体の調子がおかしくてとか、そもそも見間違いだったとか、言い様はいくらでもあったはずだが、それらを口に出すのはなにか躊躇われた。そんなありきたりの嘘にはカカシは騙されてくれないだろうというのもあったし、なにより、億劫だった。自分のために偽ることが。
 かといって、事実を話すことも嫌だった。
 女と歩いていたのがショックで、もう来ないかと思っていました、などと。
 きっと笑われるようなことだ。

「イルカさん?」
「……」

 カカシの溜息に似た吐息が、かすかに聞こえた。

「具合はもう良さそうだけど、それは?」
「…ありがとうございました」
「役にたったのなら」

 だが、目の聡いカカシのこと。
 小瓶のなかの丸薬がいっかな減っていないことなど、とっくに気づいているだろうに、そんなことをいう。
 読んでいた本は取り上げられてしまい、イルカにはもう見るものは目の前の秀麗な面しかなく。
 だがそれでも、噤もうと決めた唇が開くわけでもなく。
 黙りこんだイルカに、ついに折れたのはカカシが先。
 先ほどとは違う、あからさまな大きな溜息をひとつ。
 そして、目を合わせたままイルカに言った。

「―――俺のこの一週間の行動、知りたくない?」
「……」

 カカシの言葉に、ふ、とイルカの視線が泳いだ。
 いかにも、そうだと証明するように。
 はっとイルカが己の失態に気づいたときには既に遅く、カカシはにっこりと笑っていた。
 よく出来ましたとでもいいたげな笑み。
 イルカは臍を噛んで、カカシを睨みつけたが、当人は気にした様子もない。
 だんまりのヒントを得たことで、カカシは機嫌よさげに続けた。

「明日受付で見れば分かると思いますけど、俺、ずーっと、球根と睨めっこだったんですよ」

 は? といいたいのを堪えて、カカシの言葉の続きを聞く。

「避妊薬の材料、しってます?」
「―――…? 、ぁ」
「この時期でしょ、なんでか俺にもお鉢が回ってきちゃって」

 聞いたことがある。
 経口薬や器具を挿入しておくのではなく、錠剤の形をとり、実際に交わる際に膣のなかに入れれば、精子を殺し避妊を助ける薬があるという。挿入したのちには内部で解け、発熱し、催淫剤としても働く。効率の良い、忍び秘蔵の薬丸。
 その原料のなかに、そう、彼岸花の球根が必要だと聞いたことがあった。

「一日中、成長した球根かどうか花と睨めっこしたあと、掘った球根を今度は大量に摩り下ろして、ほかの材料と混ぜて、干して、丸めて。もう大変でした」

 言う様子が、常らしくもなく本当に疲れているように言うから、イルカはまじまじとカカシの顔をみる。そうするとカカシが苦笑した。

「届け先は、まぁ、いろいろと目に嬉しいようなとこが多かったですけど、役得っていえばそれだけで、実際、俺みたいな若いのがそういう任務につくのって珍しいんですよ。だから俺も驚いてたんですけど…まぁ、それがけっこう面白いというか、迷惑というか」
「?」
「俺ね、推薦されて任務についたんですよ」
「…そうだったんですか」
「でね」
「?」
「俺を推薦したやつって誰だと思います?」

 先ほどまでと違い、本当に可笑しそうにカカシは笑った。
 少年のような邪気のない笑み。
 悪戯をしかけるときのような笑い方だった。
 だがなぜそんな笑みをカカシがするのか分からず、イルカは首を捻る。
 カカシが言った。

「アスマなんですけど」
「へぇ…」
「あの任務ってね、内容が内容だし、担当するのは大抵、家庭持ちに子供持ち、もしくは恋人がいて落ち着いてる忍び、って決まってるんですよ。あいつ、俺がちょうどいいだろうって言ってね。自分が一人身だからって嫌がらせしてね、ヤな奴でしょ」
「……」
「でも俺、そんなに老成しちゃってます?」

 言って、カカシがおどけたふりで笑うから、イルカは暫く分からずにぼうっとしてしまった。
 色んなことが頭のなかを横切っていって、最後に横切っていったのは

「良かった…」

 ぽつりと零して、イルカはベッドに体を沈めた。
 シーツがひんやりとして頬に触った。

「イルカさん? それで、俺って若年寄? それより泣いた理由は?」

 カカシが少し焦った様子で、仰向けになったイルカに覆い被さるように訊いてきた。
 可笑しくて、目が和んだ。
 硬い色だった瞳が、黒く潤んでカカシを見る。

「そんなことはありませんよ。―――…泣いた理由、知りたいですか?」
「―――…えぇ、俺があなたを不安にさせたのなら」

 イルカはまた、涙が滲んでくるような感覚を味わっていた。
 けれど、今は体の反射ではなく。
 カカシの言葉で、溢れそうになったもので。

「あなたは優しすぎる。だから、泣けたんですよ」

 偽りでもなく、真でもなく。
 口にできたのはそんな言葉だった。
 瞬きをすれば、目尻から滴が一粒、落ちていった。
 流れたそれを、カカシの指先がすくう。
 覆い被さるようにイルカの間近にあるカカシの顔は、イルカの言葉に眉を潜めていた。
 納得できない、と書いてあるような、顔。
 強張っていたイルカの表情が緩み、笑うように目が細められる。

「―――…それって、理由なんですか」
「ええ」

 嘘ではない。
 今、涙が流れた理由も、つきつめればカカシゆえの涙。
 彼が居なければ、自分が涙を流す理由など、どこにもない。
 だから嘘ではない、真でもないけれど。
 カカシが訝しむのは分かる。
 イルカ自身でなければ理解できないのは当然だと思う。
 だが、真を言おうとして、己の全てを曝け出すのは全く御免だった。
 あんな下らない、誰にも知られたくない己を、物思いを、話し聞かせる気などなかった。
 そのイルカの思いを、濡れた瞳にみたのか、カカシはがっくりと頭を項垂れた。
 大きな溜息を、落とす。

「…不安は―――、…いえ、もう泣くことは?」
「さぁ」
「―――…素直にいうつもりは?」
「別に」

 にこりと、自然とイルカは微笑んでいた。
 反対に、次第と渋面になっていくのはカカシ。
 二度目の大きな溜息のあと、カカシはイルカを抱きこんできた。
 温もりが肌を伝って、秋の肌寒さを緩める。
 腕が腰に回され、くるりと体が入れ替わった。
 今度は、イルカがカカシを見下ろす格好になった。
 カカシが苦笑する。

「まいりました。俺が不安になってきた」
「あなたが不安になることなんて、なにもありませんよ」
「―――…嘘つき」

 言って合わせた唇は柔らかく、己を支えるためにカカシの頭の横に腕をつけば、銀色の濡れた髪が肌をくすぐった。

「ねぇ…」

 掠れる低い声が、口付けの合間に滑り込んだ。
 イルカは間近の青い瞳を見る。
 唇が歪むように笑っている。

「俺に質問したいこと、あなたはいくつあるの」
「………」

 イルカの眸は揺るがなかった。
 ひそりと答える。

「あなたが心底酷い人だったなら、いくらでも」

 その答えは、満足できるものだったのだろうか。
 イルカには判別し難かった。
 心のなかにあることを、言葉にしただけで、カカシの意に沿うようにと答えたわけではなかったし、もとより、自分の態度が一から果てまでカカシの望むように出来ているとは、はなから考えていない。イルカは、ただ、カカシと共にいる事実が重要なのであって。
 だから、実のところ、カカシが緩やかに微笑んだ意味は、良く分からなかった。
 透明な笑みで。
 それは、泣きそうな表情に似ていると、ふと感じた。

「イルカさんは、酷い人だね」

 カカシはそう言って、笑った。

「どうしてですか」
「――――――…俺を信じるふりをして、何にも俺にくれない」
「………」

 酷い誤解だ、と思う。
 思ったが、言い換えようとはしなかった。
 かわりに訊いた。

「欲しいものはありますか」

 カカシの目が驚いたように開かれて、ぱちぱちと瞬きをした。
 子供の仕草に、そんなに驚いたのかなとイルカのほうが驚いてしまった。

「どうしたの」
「何がですか」
「そんなこと言うなんて」

 イルカは苦笑した。
 そんなに変な質問だっただろうか。
 少なくとも会話の流れは外れていないと思ったのだが。
 カカシが、何にもくれない、といったから訊いたのに。
 そういえば、もうすぐ日付けが変わる。
 思えば、明日という日にいかにも真っ当な質問のように思えて、イルカは面白くなった。

「別に何もありません。欲しいもの、ありませんか?」
「ぇえと、―――…どういったもので?」

 戸惑ったカカシの質問に、イルカは笑った。
 涙の痕がわずかに引き攣れたが、気にならなかった。

「俺に用意できるものならなんでもいいですよ」
「…ホントにどうしたの? イルカさん。俺、なにかした?」
「そんなんじゃありませんよ…無いなら別にいいんですけど」
「ちょ、ちょっと待って」

 ぎゅっとカカシがイルカを抱きしめた。
 体温が首筋や腕や唇を伝って温かく、イルカもカカシを抱きしめた。

「えぇと…」

 カカシは悩んでいる。
 滅多にみれるものではないその様子に、イルカは可笑しくて笑ってしまう。
 くすくすと抱きしめあった距離で笑っていると、困ったような声。

「イルカさん、どうしたんですか…」
「いえ、無いならいんですよ」
「ちょっと待ってくださいよ、いきなり言われても…」

 そうしてまた悩みはじめる。
 イルカはベッドから見える時計をみた。
 あともう少し。
 おめでとうやありがとうも無いけれど、カカシもそんなものを望んではいないだろうけど、欲しいものを訊くことぐらいは出来た。
 忍びであれば祝いなどしない生誕の日。
 一ヶ月も前から悩んでいた当日の結末が、こんなことかと愉快で。
 その間の、自分の思い患いさえバカバカしく、可笑しく思えてきた。

「ホント、変ですよ、なんか違う意味で不安になってきましたよ俺…」
「違いますよ」
「気になります」
「あなたが気にすることじゃありません」

 はっきりと笑んだイルカに言われ、むしろ呆れたような顔でカカシが黙る。
 カカシはきっと自分の誕生日など気にしたこともないだろうから、イルカの訊く意味が分からないのも無理はなく、だからこそイルカもはっきりと訊いているのであって。
 カカシが思うよりもずっと、イルカはずるい。
 カカシが言葉にするよりもずっと。
 酷いのだから。
 何もくれない、と言った優しいカカシよりも、ずっと。

「ただ、訊きたかっただけです」

 結局、答えを聞く前に、降参の旗をあげたカカシと、イルカはキスを交わしたのだった。    



2003.9.15