黄金の月
あの時、正直、性別を見ていなかった。
見ていたのは、自分の血塗れの手を流れていく心地よい清水ばかりで、それがずいぶんと流れ落ちてしまってから、それからようやく、目の前の人が黒髪だと気がついた。
だから、本当に性別など気づいていなかった。
ぼんやりと、代わりになってくれるだろうかと思っただけで。
いや、黒髪に気づいて、代わりにできそうだ、と最初に思ったのだったか。
とにかく、まったく考慮に入れてなかった。
カカシがそれに気づいたのは、素晴らしくも、少年の胸板に掌を這わせたときで。
ただ透明な清水の軌跡が、脳裏に鮮やかだった。
――――――あれ?
ぱち、と音がしそうな勢いでカカシは瞼をあけた。
とたんに眩しい初夏の陽光が、瞳孔にまっすぐ差し込んできて、カカシはまたすぐに瞼を閉じてしまう。瞼裏の柔らかい闇に、白く丸い残光がちらついた。
そうしてカカシの身体は、いまだ水面に浮かんでいた。
森の中。
巨大な木々がうっそうと繁るなかにぽっかりと出来た、大きくはない水場。沼のように泥深くなく、湖よりも小さい、カカシには有り難いといっていい池だった。
もう一度、ゆるゆるとカカシは瞼をあけた。
目を閉じていれば、さっきの夢のなかにまた引き戻されそうだったからだ。
数年前の、馬鹿な自分を思い知らされる夢。
明るい日差しに狭くなる視界。目の端に、それでも覆い繁る緑の梳ける光が、美しくちらついた。
カカシは肺に溜まった古い酸素を、ゆっくりと吐き出していく。
水面にゆったりと浮かんでいる長身が、それに合わせてか、ゆらゆらと小さく揺らめき、水の波紋が広がっていく。
先ほどまでカカシの身体は水底にあった。浮かんできたのは先ほどで、その潜水に最初から付き合っているものなら、水中でカカシが溺れたに違いないと慌てふためくほどの時間、潜っていた。
暗部に在籍してからもう幾年も経ったが、その間に、カカシに身についたものといえば幾つもの技と人好きのする態度と、この癖だった。
水中に潜る、という。
水底は安定していた。
暗く、仄かに優しく、静けさに満ちていた。
心が昂ぶり、胃の腑から心臓から何かを取り出したいと願うほど狂おしい思いを戦場で味わったとき、その静けさは何よりカカシを和らげた。「死」というものがその存在の全てを覆い尽くして、後に何も残らないと知ったときでさえ、その静寂は、カカシに同じ痛みを与え、恐怖を仄めかし、無音によってそれら全てを包み込んだ。苦しみによって欠けた胸の一部は、確かに暗い水底に漂っているのだと確信せざるをえない優しさで、静寂がもたらす安定は、カカシにとって必要なものとなった。
ここ数年でずいぶんと肺活量が大きくなったと、自嘲するほどには、カカシにとってこの癖は無くてはならないものになっていた。
浮かんでいた身体をたてなおし、カカシはゆるりと水をかいた。
暗部の衣装を放っていた淵へ泳いでいく。
淵に近づくにつれて、手足に柔らかな藻が触れてきた。それを心地よいと思いながらカカシは身体を、水中から地上へと引き上げた。鮮やかな新緑の下草も、柔らかにカカシの濡れた身体に触れる。
犬がするようにカカシは頭を振って水気をきった。
まだ裸でいれば少し涼しすぎる風に肌を晒しながら、カカシは木立のなかへ顔を向けた。そして口を開く。
「もしかしてもう時間? 俺、遅刻してるの?」
いえば、うっそりとした新緑のなかで影が動いた。ゆっくりと陽光のなかへ姿を晒す。
「ううん、迎えに来ただけ。邪魔だったかしら」
その長く美しい赤毛が、眩しいほどの初夏の光で金色にも見えて、カカシはつかのま目を細めた。その髪の色をみるたび、戦場での豪火を思い出してしまうからだった。
「そんなことないよ。もう行こうと思ってたし」
「良かった」
女は言葉どおりにホッと肩を下ろし、カカシに歩み寄った。くるりとした鳶色の目がカカシをみる。
「身体を拭くのだったら布を持ってるけど、要る?」
「いいよ、お上品な申し出、ありがと」
カカシは足元に放りだしたままだった黒衣を拾いあげ、ついで女の唇にキスをおとした。女は楽しげに笑った。濡れた肌にその黒衣をまといながらカカシは訊く。
「そういえばココ、誰に訊いたの。知ってる奴、少ないと思うんだけど」
「えぇと、髭を生やした人に聞いたわ。あなたに早く会いたくて、ちょっと早めに召集場所に行ったんだけど居ないから…そこに居た人に訊いてみたの。もしかして訊いちゃいけなかった?」
「いいって。そんな大層なことじゃないよ、行こう」
カカシは苦笑した。
女とは前々回の戦場で肌を重ねた。その、目に留まる髪の色と、少し気弱そうな表情がなんとなく可笑しくて好ましかった。こうして迎えにきたのなら、今度の任務召集でも頭数に入っているのだろう。
濡れた銀髪をかきあげて、カカシは背に手を置いて女を促した。そうすれば女の心配げな眉が和らぐ。髪色の激しさと、その気弱さはまったく変わっていないようだった。
「それ、多分アスマだよ。煙草、吸ってなかった?」
「吸ってたわ。そう、あの人がアスマさんなの、有名な人ね」
「はは、そうだね。口癖、言ってたでしょ」
「面倒くせぇ、っていうの?」
「そう、それ」
カカシが笑えば、女も可笑しげに笑った。
ごつごつとした岩の多い地面を蹴り、二人は里へと戻りはじめる。柔らかな下草と眩しい陽光、透ける新緑の色が心地よく、また頬を掠める風も気持ち良い。より効率よく移動をするために、無意識に太い梢を掴み、それをバネにして森を駆ける。女も、そのカカシの脚に遅れをとることなく、ぴたりと付いてきていた。
さわさわと葉が風に躍り、その風のように瞬く間に移動していくカカシの目には、光が透ける緑が美しく映る。
―――――――――ふ、と。
恐怖に囚われるのは、こうした何気ない瞬間だった。
カカシは眉をひそめる。
女はカカシの斜め後ろをひたりとついている、けしてその表情は知れなかった。だからこそ、煩うことなく顔を顰めて、いっそう移動のスピードを早くした。
睡眠む水底からつい先ほど帰ってきたばかりだというのに、カカシは自身の弱さに舌打さえしたくなる。
生の喜びに恐れを抱くのは、弱い証拠だ。
戦場で恐怖に支配されれば待つのは、真闇の淵、死だけだというのに。
「ごめん、ちょっと先に行っててくれる」
「え、どうしたの」
「ちょっと慰霊碑に寄ってから行くよ」
カカシは平素と変わりない声で告げた。
女の返事を待たずに、枝から身体を躍らせた。
死は怖い。
生という連続性がなくなって、その先にあるのは無だ。
その深淵の闇にカカシは恐怖を覚える。
生からの断絶を味わいたくなくて、これまで生きてきた。
それは随分と単純で、そしてきっと、カカシがこれまで殺してきた人間もそんな単純な法則に従っていたはずだった。彼らの連続性を絶ったのは自分だ。
反対に、そうして彼らの法則に侵されて、闇に沈んだのが、慰霊碑になっている。
きっと敵にも咎は無く、そして自分たちにもない。
忍びとはそういうものだ。
死への恐怖を抱えて生きていく。
「そうだろ?」
冷たい石の前に佇み、カカシは呟いた。
これまで生きてきた二十年にもなる月日の間、知り合った人間、愛した人間、大切な仲間が、この石になった。
悲しみはない。
ただ、いつ自分がここに名を刻まれるのか、それを考えれば、いかにも故人が慕わしく思え、己がどうしようもないほど愚かに、卑小に思えるだけだ。
「先に逝っちまいやがって…」
親友、と呼べ得る名を、胸中で呼んだ。
―――俺はいつ、そっちに逝けるんだろうな。
愚かなばかりの自分が辛いよ、と弱音を呟いて、カカシは項垂れた。
2003.6.11