やり切れないこの重さ。





 カカシとは二十代の終わりごろに別れた。
 正しく、別れた、と思う。

 いつだったか覚えはないが、カカシのイルカ宅に居る時間が減ったことに気づいたころには、もうカカシと彼女の付き合いは始まっていたのだろう。
 急激にでなく、徐々にイルカと過す夜は減り、あまりに緩やかなそれになんとなく問う機会を逸した。
 イルカでない人物とすごしている証拠のように、たまにカカシは、二人で行ったことのない場所のことを話すようになった。
 嬉しげに話すカカシに強張った笑顔しか返せずに、自分が情けなかったが、これはいつか来ることだったのだと嗜める自分が内に存在した。

 そして、イルカがカカシの体温を忘れるほどの期間をおいて、やっとカカシは穏やかに切り出してくれた。
 別れてほしい、と。
 イルカはそれに笑って頷けたと思う。

 気づいていましたよ、と同じように穏やかに話し、過ごす時間とともに減っていったカカシの私物の残りを、その場で揃えて渡した。
 いつ言われても良いようにと準備していたのだった。
 カカシは手間が省けてよかったと言い、やっぱりイルカさんは長い間付き合ってたからオレのことよく分かってくれてて嬉しい、と笑った。
 そりゃあそうですよ、とイルカは笑って返答したはずだったが、ちゃんと笑えていたのかどうかは分からない。

 カカシが去っていった部屋で一人、台所の床に蹲り、ひやりとした床に額を擦りつけ、唇を噛み締めて頭を抱えて、泣いた。
 泣き声を堪えて、胸と背中が痛んだことははっきりと覚えている。

 別れてから、急速に里のなかで、カカシと、その長身に連れ添う女性の姿を見かけるようになった。
 イルカと形上でも付き合っていたあいだは噂もなかったのだから、さすがカカシだと思った。
 気を使ってくれていたのだろう。

 最初は、見かけるたびにトイレに駆け込み、気持ちが落ち着いて不意に涙が出なくなるまで立てこもっていた。
 だが、それも度重なると、同僚などに不審におもわれ始め、イルカは場所を変えた。
 少しばかり遠いが、慰霊碑の近くまで行くことにしたのだ。

 もうその頃には、結婚式や新婚旅行の噂を聞いただけではうろたえずにすむようになっていたし、慰霊碑の近くであれば泣いていても誰も咎めないだろう。
 泣くまでもいかなくても、ただ佇んで、誰にも声をかけられずにすむ場所はありがたかった。

 やはりカカシも三十を数える年齢になり、子どもが、家庭が欲しかったのだ。
 思うのは、そんな諦め交じりの理解だ。
 真面目なだけしかとりえのない、見栄えもぱっとしない自分などと、両手を超える年数付き合ってくれていたのが不思議であって、今のカカシのほうが自然なのだ。

   いつも、そう思って、涙を堪えようとしたが、失敗に終った。

 仕方がないと思えば思うほど、カカシが恋しかった。
 カカシがどんなに優しかったか。
 どんな風に触ってくれたか。
 寄り添ったときの体温がどんなに心地よかったか。

 怒鳴りあったこともあったけれど、最後には穏やかになる人だった。
 イルカの趣味に付き合って、そんなに風呂が好きでもないのに、温泉へ連れて行ってくれた。
 あなたに似合うからと結い紐もくれたこともあった。
 眠れなければ、綺羅々とした蒼い硝子のグラスをくれ、薬を飲ませてくれた。
 優しかった。
 カカシはいつだって、優しい人だった。


 だから、こんなにも恋しい。


 それでも、涙はいつかは引いて、仕事に戻ることができた。
 事情を知る受付の同僚などが、フォローしてくれていることに気づきつつも、会釈でしか感謝を表せない状態だったが、なんとか仕事はできていた。
 煩雑な日常で頭をいっぱいにして、なんとか自分のなかの大きなうねりを平坦な凪いだ海にしようと必死だったのだ。
 だから、ある日、とあるアカデミーの同僚から、

「よぉ。イルカさ、たしかはたけ上忍と仲良かったろ? 今度、あの人、結婚するしさ、卒業生もお世話になってるし、なんか贈ろうぜって話してるんだ。でさ、まとめ役してくれないか?」
「まとめ、役…」
「そそ。あ、出来たら祝う会とか出来たらいいなあとかも話しててさ。いや俺はどっちでもいいと思うんだけど、ほら、やっぱ人気あるしさ、はたけ上忍。アカデミーの女性陣がもう、目の色変えて、最後の思い出とかって言っててさ」
「あ、あぁ…」
「結婚すんのに、まだまだすげぇ人気だよな。もー、嫉妬もできねえよな、あの人のレベル!」

 言って笑った同僚に、上の空でどんな返事をしたのか分からないが、引き受ける返事はしなかったと思う。
 けれど、最後には、

「じゃあ頼むよ、イルカ! また詳細決まったら教えてくれな!」

 といいながら去っていく同僚の背中を見送っていた。
 頭にあったのは、とりあえず『祝う会』とやらの旨をカカシに伝えにいかなくてはいけないということで、気づいたらカカシが目の前に居た。
 どこをどう歩いてきたのか、受付所の近くでカカシを捕まえられたらしい。

「あぁ、イルカさん。久しぶり」

 穏やかに笑うカカシを、はっきりとは見れなかった。
 努めて口布のあたりを見ながら口を開く。

「お久しぶり…です。カカシさん」
「うん。それで、どうしたの?」

 微笑みながら訊く様子は、至って自然だった。
 気負いもなく。
 それを喜べばいいのか悲しめばいいのか、全く分からず、イルカの内心は泥を塗ったようになったが、あえてそれに蓋をして、続けた。

「…あの、アカデミーの教員連中があなたのご結婚をぜひ祝いたいと言ってるんです。祝う会、といいますか…それで、俺があなたの希望と、良ければ予定を訊きにきたんですが」

 でも無理にとは言いませんが、と続けようとした言葉は、カカシの、

「うわぁ、ホント? 嬉しいなあ、ありがとう」

 という満面の笑顔のカカシに遮られた。

「なんか恥ずかしいけど、嬉しいな。いいよ、俺は。いつにする? あ、でも俺だけじゃなくて彼女の予定も聞かなくちゃいけないんだよね。…って、俺、勝手に彼女連れてく算段してるけど、一緒でもいいよね?」

 矢継ぎ早の言葉に、ただただ頷いた。

「え、えぇ、もちろんです。ご一緒に来てくださらないとみんながっかりしますよ。それでは、祝う会は開催しても」
「ええ、喜んで」
「…では、みんなにそう伝えておきます。日取りはじゃあ、…お相手のご予定が決まったら、ということで」
「そうだね、よろしくお願いします」

 もう頭のなかに入っている言葉は、ただそれだけの音で、意味を成していなかった。
 確かに会話をしているはずなのに何かが麻痺している。
 今はもう、早くカカシの前から去って、慰霊碑の傍に蹲りたかった。
 では、と頭を下げ、背を向けたイルカを、カカシが呼び止める。

「あ、イルカさん、ちょっと待って」
「…。はい、なんでしょう?」

 振り返る一瞬、自分の顔が歪んでいなかったか心配だ。
 あのね、とカカシが微笑んでいる。

「今度、正式にお願いしに行こうと思ってたんだけど、イルカさん、俺の式で友人代表の挨拶、してくれないかな? ほら、俺の友だちなんてみーんなクセの強いやつばっかだからさ、俺のこと良く知ってて、マトモな挨拶できそうなのってイルカさんぐらいしか思いつかなくて。イルカさん、忙しいから悪いかなって思ったんだけど、本当に思いつかなくて…どう、かな?」

 僅かに不安げに小首を傾げているカカシを、しっかりと見れている気がしなかった。
 あくまで、『友人』代表を頼むときの、友人らしい態度だろう。
 ただ、頼むだけの。
 イルカの内に、どれほどの遣る瀬無さがあふれていようと。

「わかり、ました…俺でよければ」
「そうっ? うわー! 良かった! ありがとう!」

 明らかにホッとしたカカシへ、頭を下げた。
 自分たちは、別れたのだ。
 本当に正しく、別れたのだった。

 だからカカシはイルカへ友人代表挨拶を頼むし、彼女の予定を目の前で気にするし、嬉しそうにするし、笑うのだ。
 可笑しいのはイルカのほうだ。
 正しく、別れたのだから。
 可笑しいのはイルカのほうだった。

「―――…失礼します…っ」

 それだけをいうのが精一杯。
 瞬身で消え、向かったのは慰霊碑だった。
 蹲って、切なさを乗り切れる場所に逃げ込むことを、イルカは自分に許した。









「――――――…ぅ、うぅ〜…ッ、ッく、うー…っ」

 夕方の慰霊碑に先客は居なかった。
 裏側に蹲り、唇を噛んだ。
 それでも声は出た。
 切ない。
 やるせない。
 悲しい。
 遣り切れない。
 苦しい。
 辛い。
 ―――恋しい。


 どれほど思っても、もう、イルカの元にカカシが戻ってくることはない。
 分かりきっている現実が重過ぎて、蹲ることしかできなかった。


 あの人の指や唇や体温や吐息や髪の毛やつま先や、優しい声音と微笑みが。


 もう、イルカのものではない。


 現実の痛みに耐えるしかないと分かっている。
 このやりきれない痛みに。
 重さに。
 けれども涙は流れる。
 イルカがどんなに泣きたくないと思っていても、恋しいという気持ちが消えない。
 だから涙が出る。
 だから、しょうがないのだ。

「…っひ、く、…ふ…ッ…、ッく、うぅー…ッ」

 おそらく、そんなに時間はたっていない。
 イルカの蹲る傍らに、誰かが立っていた。
 気配は薄かったが、紅だと分かった。
 憂い顔をしていることは、見なくても分かる。
 カカシと別れたことを、一方ならぬ世話になったから、けじめのつもりで告げたときから、ずっと彼女は憂い顔でイルカを見ていた。

「イルカ…」

 紅の声に応える余裕はなかった。
 泣き声とも唸り声ともつかない己の愁嘆を見て欲しくはなく、頭をさらに抱えて、縮こまった。
 悲しみがあたりを覆う。
 紅は、ため息のように、イルカに何かを言ってくれたようだったが、イルカに意味の有る言葉になって届きはしなかった。
 今は、なにも聞きたくなかった。

 どんな叡智も今の己には役に立たない。
 この痛みをやり過ごす術など、どこにもない。
 逃げることしかできないだろう。
 悲しみを感じることのない世界に行くしか。
 だから。

 だから、いっそ。




「――――――…死にたい」



2009.05.26