やり切れないこの重さ。








「…イルカさん…ッ!!!」





 大音量が、イルカの耳元で鳴り響いた。
 反射で身体がビクッとなり、瞼が完全に開いた。

「ぇ…、ぁ、れ?」
「起きた? ねえ、起きてる?」

 視界いっぱいに、白いカカシの顔。
 窓からの月光が僅かにあって、眉が逆立っているのが分かる。
 怒っている…のだろうか。
 どうして怒っているのだろう。

 もしかして、友人代表としての挨拶で自分は失敗してしまったのだろうか。
 泣き出してしまったのだろうか。
 目のふちがひりついてなんだか痛いし、ほら、瞬きすると横に涙がいくつも流れていったから、やっぱり自分は泣いて失敗してしまったのだろう。

 だからカカシは怒っているのだ。
 いつまでもしつこい、と。
 別れたことを理解しろ、と。

 あぁ、自分は死ねなかったのだろうか。
 だからこんな風に詰られているのだろうか。
 悲しい。

「―――ちょっと、ねえ、イルカさん? まだ寝ぼけてるんじゃないでしょうね、おい」
「…カカシ、さん…? どうして…」
「どうしてじゃないでしょ。一緒に寝てたでしょうが」

 あれ? と思う。
 どうしてこのカカシは、こんなにイルカに近しいのだろう。
 暗闇のなかで、イルカの腕を掴んで、こんなに、至近距離で怒っている。
 瞬きすると、やっぱり涙が流れていった。
 頬がかさつく。

「ああもう…ッ、なに泣いてるの、どんな夢みたんですか。しかも死にたいなんて何言ってるんですか、許しませんよ俺はっ」

 乱暴なほどの強さで、イルカの瞼がぐいぐいと指の腹で押された。
 涙の膜が押し流されて、カカシの指を濡らした。

「あ………れ?」
「あれ、じゃないですよ。ちょっと。夜中に寝言で俺の心臓、止めないでよ」
「……ゆめ…?」
「そーです。イルカさんがどんな夢みたのか知らないけど、俺はその夢に対して全否定するからね」

 もう瞬いても、涙は流れなかった。
 眠りに半分支配されていた世界が、急速に覚醒していく。
 別れ話。
 結婚。
 祝う会。
 友人代表。
 蹲った額の冷たさと、遣り切れない重み。
 全てが、自分の夢だった。
 覚醒して、改めてその夢の恐ろしさに、背筋が強張った。

「え―――…と、その、すいません…起こしてしまって…」
「それはいいから。どんな夢、見たの」
「…ちょっと…怖い夢、を」
「どんな」
「…………」

 言えない。
 まだ夢の残り香が頭の隅っこに漂っているだけで、恐ろしくなる夢だ。
 現実に近しいからこそ、恐ろしいのだ。
 そんなもの、カカシに言えない。
 だんまりになったイルカに、いつものことだと思ったのか、カカシは問い詰めることをしてこなかった。
 至近距離からの視線を、カカシから外し、ため息を一つ。

「…とにかく、変な寝言、いわないでね。お願いします」
「? 俺、寝言いってましたか」
「言ってたよ。泣いてるのは見てたけど、そんな寝言いうんじゃ、起こすしかないでしょう」
「すいません…、て、カカシさん……見てた…んですか?」

 それは相当恥ずかしい。
 寝言を言ってしまった不覚も手伝って、顔に血が集まり始める。

 頬がかさつくほどの涙を流して寝る自分を見られていたのだ。
 身体が勝手に、寄り添っていた状態から離れようとする。
 室内のひんやりとした夜の空気が、二人とシーツの間に入り込む。

 咄嗟に、もったいない、と思った。
 こんなにカカシの近くに居れるのに、と身体が留まった。
 けれど、逃げ出したいのは同じで、結果、イルカはシーツの中に潜り込むようにカカシから逃げることになった。

 シーツを持ち上げて、追いかけてくるのはカカシ。
 二人とも頭のてっぺんまで潜り込んでの、夜中の内緒話だ。

「見てたよ。なにか悪いかな?」
「悪…いというか、恥ずかしいですよ、俺が。止めてください」
「やだ。俺は悪いことしてない。それより、あなたが見た夢に俺は出てたの?」

 寝起きに、カカシを論破することはできない。
 はっきりしてる頭でだって出来る気はしないけれど。

 抗議することは早々に諦めるとしても、カカシの再度の問いに、ぐっとイルカは黙った。
 カカシの柔らかな唇と穏やかな指が、イルカの頬と額とこめかみと唇に、触れていく。

 考えるよりも先に、心が和らいで、色めいた。
 恐ろしい夢のせいもあるのだろうか。
 泣きたいほどに幸せだと感じた。
 実際、少し、涙腺が弱くなっていたのか、涙が滲んできた。
 カカシの指がそれに気づく。

「…泣かない」
「……すいません」
「あやまってほしいわけじゃないよ。…なんで? あんなこと、言ったの」

 唇が、促すように、あやすように軽く啄ばんでくる。
 口元を緩めると、ちゃんと唇を合わせるキスをくれた。
 眠りが連れてきた恐怖が少し薄れ、安心する。

 夢のなかであれほど苦しかった痛みが、遠ざかる。
 カカシのための痛みが、カカシのキスで治るのは当たり前なのだろうと少し可笑しく思った。

「俺、どんな寝言いってましたか…?」
「……言いたくないけど、…死にたい、って」
「…そう…ですか」

 起こされる寸前に、強烈に念じたことだ。
 それは寝言でいうだろうと納得だ。

 けれどカカシはやっぱり気になるらしい。
 もういいよ、とは言わない。
 イルカはしばらくの間、カカシが時間や眠気を理由に諦めてくれることを期待して黙ったままでいたが、充分な沈黙のあとでもカカシが気配を緩めないことで、先に諦めることにした。

 といっても、全てを話すことはできなかったので、一部だけ話そう。
 それもいつものことだと、カカシが追求の手を緩めてくれることを期待して。

「えぇと…、夢で、すごく辛くて…それから逃げたくて…」
「辛いって俺が出てたんでしょ?」
「…俺、そんなこと言いましたか」
「さっき、俺が出てた?って訊いたら黙ったでしょ。出てなかったら、出てないって言うはずだし。―――で? 俺があなたをそんな目にあわせてる夢を、あなたは、こんな日の夜に見た、と」

 こんな日、というのは、二人で眠る夜、ということだ。
 加えて、イルカの誕生日でもあったが、こんな日だったからこそ見た、ともいえる。

 今日は夕方に仕事が終って、カカシも夕刻には終る任務を請負っていて、先に終ったからと迎えにきてくれた。
 一緒に連れ立って帰り、普段と代わりのない食事のあと、カカシがあらかじめ買っていたという酒と酌み交わした。
 珍しいという酒は美味かったし、カカシの機嫌も良かった。
 腹も気分も満ち足りて、風呂に入って、カカシが優しいけれどイルカを煽るようなキスをしてきたから、抱き合って、二人で寄り添って寝た。

 あえて逐一思い出さなくても、素晴らしいひと時だったといえる。
 カカシは、今日がイルカの誕生日だということなど知らないようで、祝う言葉などなかったが、そんなものがなくても、カカシが共に居てくれる夜というだけでイルカにとっては素晴らしい誕生日だった。
 カカシが今夜も隣に居ることを確かめて眠る贅沢な夜。

 でも、だからこそ。
 怖くなった。

 ひとつ歳を取って、周りはもう結婚したものや子どもが生まれたものも居る。
 それなのに、カカシの時間を浪費するばかりの自分はどうだ、と思った。
 後ろ向きだとは思うが、いくらカカシと睦みあったとしても子を成せない己の性は、カカシに申し訳なくなる。
 だから、子どもを成してほしいと願う。
 こんなにもカカシが恋しいと欲しながらも。

 その相反する想いの結論が、あの夢か。

 自分が辛いとばかり叫んでいた、利己的な夢を思い出し、イルカは自嘲した。
 情けなかった。
 カカシに言えるわけがない。
 怖い。
 現実になりそうだから。

「俺が…―――俺が、馬鹿で、あなたに…えぇと、その、悲しくなってしまって、でもどうしようもなくて、だから、どうしようもないなら死ねば良いんじゃないか、その、助かるんじゃないか…というような夢をみた…気がします」

 夢の尻尾はあやふやだ。
 ついさきほどまで、あれほど強烈なイメージを持ってイルカを支配していたのに、シーツにもぐりこんで、暖かな体温とカカシの匂いにくるまっているうちに、仔細を忘れ始めていることに気づいた。

 カカシが結婚して子どもを成すだろう、という部分だけが鮮明だ。
 他にも、もっと色々なことが辛くて仕方なかったはずなのに、なぜか記憶にこびりついているのはそんな思いだった。

「助かる、ってなにが?」
「その…辛いことから」

 知恵のない子どものような返答だったろうか。
 カカシがゆっくりとため息をついたのが分かった。
 腕が、イルカを巻き込んで、ぎゅっと抱き寄せる。

「よく分かんないけど、要するにやっぱり、俺がイルカさんを悲しませてたってことだね」

 ため息交じりの言葉に、イルカは思わず身じろぎして、違います、と言っていた。

「カカシさん、それは…だって、俺が勝手に」
「あー、まあまあ、それはいいから。大人しく俺の中に居てね」

 抱きしめた腕の強さは変わらず、大人しくもなにも、いま抜け出すことは無理だろう。
 あのね、とカカシが話し出す。

「良く分かんないよ? イルカさんが見た夢のことは、やっぱり良く分かんないけどさ、俺ね、今日とか、…今までも思うことはあったけど」
「…?」
「…ずっとさ、居ると、人って考え方とか似てくるらしいよね。だからさ」

 一を聞いて十を知るように、カカシの話しを理解することは難しい。
 言葉の続きを待った。

「俺がさ、今まで考えてたことが、今日のイルカさんにうつったのかも…しれないね」
「―――まさか」
「どうして?」

 咄嗟に否定したが、反対に訊き返されてしまった。
 どうして、といわれても、ありえないだろう。
 カカシがイルカとの離別を想像して悲しむ、などと。
 重ねて否定しようとすると、カカシが言った。

「だからさ、イルカさんが見た夢、自分に置き換えてみて。そしてさ、俺が泣かないですむような言葉を、……俺に、ちょうだい?」

 反対しようとした口が閉じた。
 イルカの夢の内容が、カカシと同じだとは到底思えない。

 けれど、目が覚めたあとも残る、現実の怯えに対して、カカシの提案は有効に思えた。
 自分はカカシにどういってほしいのか。
 たとえばカカシなら、イルカにどういってほしいのだろうか。

 キスを三回するほどの間だけ考えて、理性は答えを出してくれなかった。
 唇が、勝手に答えを言っていた。

「…あなただけ…俺にはカカシさんだけ居れば、良いです」

 結婚などなくても。
 子どもも要らない。
 継承するものが欲しいことと、血のつながりは関係がない。
 男同士で子に恵まれないのであれば、同じように、親に恵まれなかった子と手を繋ぐことができるだろう。
 人は、血でなく、絆で繋がる。
 だから、カカシだけ、居れば良い。

 自分に置き換えればあっさりと出た結論に、イルカは自分ながら呆れた。
 まだ寝ぼけているのかもしれない。
 そもそも、夢の中で、カカシは自らイルカから離れていった。
 イルカが子を成すことに拘っていることを取り置いても、現実的に、カカシの心がイルカから離れることは当然、あるだろう。

 であれば、カカシが同じ場面であっても同じように思うわけがなく、むしろ、鬱陶しく思われる。
 きっとカカシも呆れる。
 夢の中の自分は唇を噛み締め、必死で我慢をしていたが、あれはやはり、そうあるべき対応だった。
 心の離れたカカシに、自分が役に立つ存在でありたいなら、仕方がない。
 改めて考えて、得心する。
 だから、やっぱりさっきのは取り消そう。
 カカシにきっと迷惑だ。

「―――あの、さっきのは……、…ッん」

 己を取り繕う言葉は、カカシの唇で不意に塞がれた。
 いきなりのキス。
 身を捩ると、ふっと一瞬だけ唇が離れ、再びきつく抱きしめられ舌がイルカを翻弄する。

「カカシ、さん…ッ?」
「びっくりした」
「ぇ」
「―――本当に、同じ夢をみてたのかもしれないね」

 ふふ、とカカシが笑う声が聞こえた。

「そうじゃなくても、イルカさんからのそんな熱烈なの、滅多にないからびっくりしたけど」
「…すいません」
「謝ることじゃないんだけど」

 まだ笑いを含んだ声が、イルカのこめかみや瞼を掠めて、唇が触れてくる。
 夢の中の己は、どれほどこのささやかな温もりを求めていただろう。
 狂おしいほどの恋しさを思い出せば、先ほどの言葉など、軽いものだ。
 その軽いものさえ自分は言葉にしていなかったのかと、イルカの方が驚きだ。
 けれど。

「…でも、やっぱり、その、さっきのは取り消そうかと―――」
「えっ、なんで?」

 驚いたような声音。
 カカシの手のひらがイルカの頬を包んで、固定される。
 ただでさえシーツの下に二人とも潜り込んで話しているのだ、少し窮屈だったがカカシの指の力は強く、逃がすまいとしているようだった。
 首も横に振れないような強さだ。

「も、申し訳なくて…カカシさんに。その、カカシさんだけ、なんて、ちょっと気持ち悪く聴こえるじゃないですか、思いつめてるというか」
「なにそれ。なんでそこで、俺もイルカさんにそう思ってる、とか思わないかな」
「え? まさか」

 咄嗟に言った言葉に、カカシは吹き出したようだった。
 暖かいシーツの暗闇のなか、吐息が頬にかかる。
 戒めのような頬の手のひらが外された。
 変わりに、カカシの体温がイルカの背中や体全体をくるんだ。

「―――なにそれ」

 抱きしめた体勢のまましばらくして、耳元で聴こえた声音は、僅かに苦笑する色が含まれていた。
 それを聞くに至って、イルカはやっと、自分がカカシを傷つけたのかもしれないと気づく。
 己が相当カカシに対して惚れ込んでいて、ある種妄信的であることも知っているから、カカシがまさかそんなわけがないと思ったのだが、何がカカシの気に障ったらしい。

「カカシさん、その―――」
「あー、いいから。あなたが思わないなら、俺が言ってもしょうがないし。…でも、もし」
「…もし?」
「……もし、俺が思ってたことと同じことを、イルカさんが夢に見てて…そんで、泣くんならさ」

 夢の中の一場面が脳裏に蘇ってきた。
 蹲り、惨めさに身体を縮めて感じた床の冷たさは、現実そのものだった。
 いまイルカを包んでいる体温を、夢の中でどれほど請い願っただろう。
 イルカのものでなくなったと確信してた夢の世界の己に謝りたいほど、満ち足りた温度だった。

「ちゃんと、闘ってね。そんで取り返してね、俺を。俺はそう―――するから」

 穏やかに囁かれた言葉は、温かな二人の暗闇のあいだで消える。
 返事はできずに、涙が溢れてきた。
 穏やかな優しさが続ける。

「迷惑、かけてもいいよ、俺もきっとかけると思う。それでも、お願いね」


 きっと、俺を離さないで。


 イルカにばかり優しく聴こえる言葉を囁いた唇は、イルカの涙も汲んでくれた。
 恐ろしく甘い言葉が、夢の世界と同じように怖かった。
 けれど。
 離さないで、とカカシがいうのなら、イルカはきっと、そうしよう。
 イルカができる事が有るのなら、それしかないのだろうと思われた。

 涙をすくう唇に、堪えきれずに自分の唇を差しだし、キスを強請れば、カカシは温もりをくれた。
 舌を絡めて、再び抱き合う。
 シーツをしわくちゃにして、カカシの匂いや声や指の太さや唇の甘さ、カカシの身体の温度を確かめた。

 疲れ果てて、二度目の浅い眠りが訪れたとき、ただ泣き伏すだけの夢は訪れることはなく、一度目の夢と同じアカデミーの校舎や里のなかの風景が出てきたが、なぜか夢のなかでイルカはカカシ相手にナゾナゾを出していて、何かを賭けていた。

 何を賭けていたのかはよく覚えていない。
 しょせん夢だ。
 けれど、なぜか勝つと確信していた。

 そしてカカシは負けるのが分かっていて、ニコニコと穏やかに微笑んでいた。
 イルカも、カカシの微笑みを見て、同じように笑っていた。
 不思議と、幸せな夢だった。

 目が覚めたとき、薄く上り始めた日の光がカーテンを淡く照らし、目の前にあったカカシの寝顔がよく見えた。

 泣いてないよな。

 寝ぼけながら、それだけを確認して、出勤前までの僅かな残り時間、イルカはカカシに寄り添って瞼を閉じたのだった。



2009.05.26