雪窓
「イルカ先生」
カカシがイルカに追いついたとき、すでにイルカは教室中の窓を閉めたあとで、使ったモップとバケツをもって教室の真ん中にたたずんでいた。
察するにしまおうとしていたところか。
声をかけると、イルカはなんともいえない顔でカカシを見た。
怒るべきか逃げるべきか迷って、けっきょくどちらも出来なかった、曖昧な表情。
カカシが以前とまったく変わらない穏やかな口調でイルカに話す。
「それ、しまうの? 洗いにいくの?」
「…洗いに行ってからしまいます」
カカシは手を差し伸べてイルカに近づいた。
イルカは少しだけ後退ったが、カカシがモップをとる動作をじっとみていた。バケツのほうには汚れた水がなみなみと入っていて、カカシはそれも受け取った。
「イルカ先生、俺のこと、年明けから避けてたでしょう」
「当たり前です」
弱々しい口調でイルカはいった。
いっそ怒鳴ることができればいいが、なにやら先ほどの汁粉でも胸につかえているのか、怒りまでイルカの胸のうちでわだかまってしまった。
自分でもよくわからない胸の塞ぎに、やっぱり変な表情になっていたのだろう、カカシの頬が緩んだ。
冬の陽だまりのような微笑で、イルカは悔しい。
なまじ顔が良いから、ちょっと笑ったぐらいで、とても暖かい人に思える。
「…あのときは命令だから必死でしたけど、そんなに器用じゃないんですよ俺は」
今でも、ふとした拍子にあの夜のことを思い出すと、辺りかまわず叫びだしたくなる。
「だからあなたの顔をみたくなかったんです」
「酷いなあ」
「あなたを見ると、穴を掘って埋もれたくなります」
くつくつとカカシが喉を鳴らし、イルカを廊下の外へと促した。汚れたモップとバケツをもって行くところといえば、このばあい一つしかない。
廊下をしばらく、一歩分の距離をあけて歩いた。
「でも教室じゃあ穴掘れないしねえ。廊下もだけど」
「だから、あなたの顔をみたくなかったんです」
「酷いなあ」
同じ言葉を繰り返して、またカカシは可笑しげに喉を鳴らした。カカシから半歩遅れていたイルカは足をとめ、カカシをまじまじとみた。
「…どうしてそんなに楽しそうなんですか? 俺をからかって、そんなに楽しいですか。俺は…堪りません」
カカシが振り返って、はっきりと言った。
「楽しいよ」
「…」
「イルカ先生をからかうのは楽しいし、俺をみて顔を赤くしたり青くしたり。そうそう、逃げ回ってるイルカ先生をみてるのも楽しかったよ」
酷いのはどっちだろう。
カカシは目を細めると、とりあえずコレ洗おうよ、となんでもない続きのようにイルカを促す。
イルカといえば、もう怒りを通り越して物悲しくなってきた。こんな人だとは思わなかった、もっと人として好感の持てる人だと思っていたのに。
だからこそ、あの晩の求めにも、自分でよければとさえ思ったのに。
裏切られた気持ちでカカシの背を付いて歩く。
手近の水のみ場の脇で、カカシがバケツの水を捨て、新しい水をいれた。手持ち無沙汰で、イルカはモップをもって新しい水で洗い、カカシがうっすらと汚れのとけた水をすて、作業はおわった。
カカシがいったん空のバケツを脇において、手甲を外して手を洗った。
それをぼんやりと見る。
手の色の白さが、強引なカカシに不釣合いに思えて、けれどカカシの整った顔にとても似合っているようにも思えた。
「じゃあ、これからも俺は逃げ回ります。知らないふりをしてくださるかと思ったのに、してくださらないし」
アスマも同僚もいるから、と安心できていたのはつかの間だった。
「俺はこのとおり不器用ですので」
「教室に穴も掘れないしね」
「…そうです」
「アッチもあんまり巧くないし」
「すいません」
「ふふ」
最初、すごく緊張してたでしょう、と軽く言われた。昼間にする話ではないのに、世間話のようだ。
手を洗い終わったカカシは、手甲を腰のポーチにしまう。指先が冷たさに真っ赤になっていた。
「でもそれにしては、イルカ先生は落ち着いてるよね、いま。どうして?」
指先をみていたイルカは、虚をつかれてカカシの面をみた。
「それは…、…あなたが傍に居るからだと思いますが」
こんなにカカシが近くにいれば、思い出して悶絶したりする暇もない。思い出よりも、現実のカカシに振り回されて目が回りそうだ。
「もうすこし離れれば、またあなたから逃げたくなるでしょうね」
「じゃあ離れなければいいんだ」
イルカのため息まじりの語尾に重なるようにカカシがいい、イルカは眉をひそめた。
「…あなたは俺が逃げ回っているのを見るのがお好きなんでしょう」
「好きとは言ってないよ。楽しかっただけ」
「同じじゃないですか」
「全然違うよ?」
カカシがバケツを持ち、廊下を戻り始める。イルカも倣うようにモップをもち後に付く。
「イルカ先生が不器用だったのはみてれば分かるし」
「は?」
「きっと忘れないでくれるだろうと思って、それがその通りになったから面白くて」
ますます違いがわからない。
それはイルカをいたぶるのが好きだという意味とどう違うのだろう。そうおもって、疑惑にみちた目をカカシの背中に向けていると、ふとカカシが見返った。
イルカを見る目が柔らかく弓なりに笑った。
それにねえ、と美声が続ける。
「長期任務の帰りにわざわざ、忘年会なんて行かないよ? 普通。目当ての人が居るってわかってるなら話は別だけど?」
「あのとき、ひとりで部屋に帰るよりはって…」
「ひとりの部屋より忘年会。忘年会より、忍び用の温泉宿、って思わない?」
確かに忍び用につくられた温泉宿なら、飯と酒、暖かい寝床に、金を払えば女の肌もついてくる。カカシほどの忍びなら、むしろ温泉宿を利用するだろうと、いまさらおかしさに気づいた。
「けど」
「あの晩、俺は賭けをひとつだけしました」
「…」
「最初にあなたが声をかけてくれば俺の勝ち。そうでなければ、俺の負け。一年最後の、運試しでした」
カカシの表情は冗談なのか本気なのか、イルカには判別がつかなかった。返答もできず視線が泳ぐ。
「…そんな賭け、勝っても得、しなかったでしょう」
かろうじて言った言葉に、カカシは喉を鳴らして「そう思う?」と返してきた。
余裕たっぷりにイルカをみている視線が悔しい。
廊下は冷たく、カカシの指先はいまだにうっすらと朱い。
「イルカ先生は得したかなあ。俺、途中から頭に血が上っちゃってさ、サービスし過ぎちゃったんじゃない? イルカ先生にしてもらうより、俺、イルカ先生のやってる顔みてるほうが悦くて。頑張りすぎちゃった。気持ちよすぎて癖になったらどうしよう、とか思ったり」
「な、なななに言ってるんですか、なりませんっ」
「そう? 俺とだと癖になっても良いよ」
悔しい。悔しい、悔しい。
カカシは余裕綽々で、イルカはいっぱいいっぱい。
たった一年だ。一歳しか違わないというのに、その差が追いつけないほど大きく、イルカは悔し紛れにカカシの朱い指先とその手のひらを掴んだ。
「ん? イルカ先生?」
「あなたは…っ、肝心なことはいわないで、俺をからかうばっかりだから、俺も逃げたくなるんじゃないですか…!」
見た目どおり、カカシの手のひらはとても冷たく、イルカの手のひらの熱がじんわりと伝わっていく。
ぐいぐいと引っ張って廊下を急いだ。
「どこいくのイルカ先生」
急にカカシを先導しだしたイルカに、カカシは不思議そうに訊いてきたがそれには返事せず、
「今晩、みんなに飯、奢ってくださいよ、はたけ上忍」
はたけ上忍、とわざと言って、カカシを引っ張った。カカシは苦笑した声で「はい」と返してきた。
イルカはカカシの指の冷たさに、喉のあたりが苦しくなる。
寒いときに人肌が恋しくなるのは、なにもカカシばかりでもなく。得る温もりは、好いた相手であればと願うのも、カカシばかりでもないだろう。
「それから、もう一度賭けをしてください」
「どんな?」
「雪が降るかどうか」
日暮れたかどうかもわからない、どっしりとした冬灰色の空からは、雪の気配。
それでも、いやなおさら、賭けを持ち出した。
「降ったらイルカ先生の勝ち? 賞品はなに?」
教室まで引っ張りこんで、イルカは勢いをつけてカカシの手のひらを離した。
早足のせいだけでなく心臓がうるさい。
ガラン、とモップを放り出した。
「降れば、あなたの勝ちです、カカシ先生。賞品は」
顔もきっと、薄闇にもわかるほどに紅いだろう。カカシの指先にも負けないほど。
「賞品は、あの夜と同じですよ」
言って俯いたイルカを、カカシが「りょーかい」と囁いて抱きしめた。バケツがカカシの手からおちて、騒がしい音で転がった。
耳元できこえたのは、あの夜と同じように、弾んだ声。
ベスト越しの暖かさを抱き返し、イルカは窓へと視線をむけた。
教室の大きな窓から見える空から、ふわりと雪片が見えた気がした。
2006.2.5