てのひらのきおく




「と、ともかく! 俺は大変迷惑した訳です。わかりましたか」
「はい、分かりました。それで俺はなにをすればいいんですか?」

 腕のなかで暴れるとまではいかないが、カカシから離れようともがいていたイルカは、きょとんとカカシを見上げた。
 まるで、詐欺が賠償にあっさり応じたから驚いています、みたいな顔だ。まるでも何も、イルカからすればそのまんまだろうが。

「どうしたの、イルカ先生。俺は何をすればいいの。同じぐらい痛い思いを俺にさせたい? それでもいいよ。イルカ先生の気のすむようにして―――」
「え、あの、そんなあっさり良いんですかっ?」

 イルカのなかではカカシはもっと性悪だったのだろうか。あんまりあっさりカカシが償うといったから、オロオロしている。

「うん、良いですよ、もちろん」
「だって」
「俺、イルカ先生のこと、好きだから」
「―――…ぎゃーッ!」

 さすがに、いきなり至近で叫ばれたからびっくりした。イルカは腕のなかで器用に頭を抱えている。覗き込むと、真っ赤な耳朶が見えた。

「どうしたの、俺いったよね? 覚えてませんか? イルカ先生のことが好きだから、無理やりだって分かってたけど抱いたし、イルカ先生が欲しか…」

 ばふっと口が掌で塞がれた。真っ赤な顔のイルカが、カカシを睨みつけている。カカシはにっこりと眼を細めた。
 イルカを抱きしめている腕を解いて、口を塞いでいるイルカの掌をとった。

「あんたが好きです」

 口布を外し、掌の内にキスをした。
 イルカはカカシを凝視して固まっている。

「俺を拾ってくれた、あったかい掌の人。あんたがくれた居場所は俺を生かしたよ。それだけでも、俺はあんたに何をあげても、足りないくらい、たくさんのものをもらったんだよ」

 キスを何度も掌にして、愛しくて堪らなくなる。
 この掌にいろんなことを感じた。
 いろんなことを覚えている。
 それらの記憶が、温もりの穏やかさとともに蘇る。

「だから、慰謝料じゃなくても、俺はあんたにたくさんのものをあげたいんです。受け取ってくれる?」

 凝固したイルカからの返事はなく、カカシは真っ赤なイルカが可愛らしくぷっと吹き出した。
 唇に触れるだけのキスをして、鼻の傷をがぶりと一噛み。

「―――ひゃぁ!?」
「そんな隙だらけで、また俺を誘惑してるんですか?」
「そそそそんなわけないです!」
「俺にはそう見えるけど」

 茶化すようにいいながら、カカシはイルカの赤い頬を撫でた。それから額宛を指先でなぞってから、鼻筋、鼻の傷、唇、そして頬に戻る。
 指先を追うようにしてカカシを見たイルカの唇に、今度は長くキスをした。

「…んッ、んー、んーッ!」

 イルカがぼんやりから立ち戻って、カカシの背中を叩くまで、思う存分、カカシはイルカの咥内を堪能した。

「な…、なにするんですか!」
「キスです。気持ちよかった?」
「な、良か…ッ、よか…ないです!」

 唇を離した一瞬、ぼんやりとしていたのを見ていたが、わざと首を傾げて、カカシはイルカの顎をとる。

「そう? じゃあもう一回。覚えるまで」
「し、しなくて良いです! 良いです! おぼっ、覚えました!」
「そう」

 ニコッと笑うと、イルカの癇癪が怯んだ。ハリネズミのような短い癇癪の針は、カカシが撫でるとちょっと柔らかくなる。
 あのときとは違うが、これもイルカの一面だとおもうと、知ることが楽しいものだ。

「と! ともかく! 俺は! あなたから慰謝料もらうことに決めたんです!」
「うん、いいよ」
「だ、だから! えーと、」
「何をすればいいんですか?」
「えーと」

 言いあぐねて悩み始めたイルカを、カカシはまた抱きしめて、嬉しくなった。またイルカの体温を身近に感じられる。

「うん、ずっと悩んでていいですよ。俺はイルカ先生に恩返しするから、その間、悩んでて」

 恩返し。
 イルカからもらったかけがえのない熱や記憶を、カカシなりにイルカに返していこう。
 たとえば、キスをしたり。

「え、ちょッ、…んーッ! ぅんん…ッ」

 とろんとしたイルカに囁いた。

「ね、俺んち来て。いろんなもの、あげる」

 あのときは痛いしかあげられなかったが、今は時間がある。
 イルカが望む慰謝料とは違うだろうが、イルカ自身も何にしていいか悩んでいるようだ。それに、いま腕のなかで力の抜けているイルカを見ていると、まあいいかという気になる。
 カカシがもらった温もりを、イルカに。

「俺を忘れられないように、覚えてもらいますね」
「えぇッ、いやちょっと待って、カカシさん! なに一人で話しすすめて…!」

 抗議の声も通り抜け、カカシはイルカを担いで、自宅へと一目散に駆けたのだった。
 いろんなことを、二人で覚えていくために。
 掌だけでない、熱をイルカに。
 覚えていてほしいから。
 手にした温もりの記憶を、もう離さないと、カカシはイルカをぎゅっと抱きしめ、イルカの

「俺はぜったい、ぜーったいそんなの覚えたりなんかしません! カカシさん、聞いてるんですか!」

 という墓穴を掘るような抗議の声が、里の冬空に響いて消えていった。




2007