きっと、遠い光









 いきなり、気配も前触れもなく、
 ガラッ、スパン!
 と宿直室の扉が開けて閉められた。
 スパン、のンあたりが、夜中の廊下にしばらくこだまする。

 入ってきた人物と、イルカは見詰め合った。
 なんとなく、過ぎた日のことを思い出したが、いましも夜食を啜ろうとしているイルカはともかく、入ってきたカカシのほうは疲労困憊、という風ではなかった。
 なぜかしら肩が怒っているようにみえる。

「こ、こんばんは」

 カカシからの気配に押されながらも、とりあえずイルカは言ってみた。
 すると、こんばんは、と返事だけは返ってくる。

「え、と、まあ座りませんか」
「どうも」
「茶はどうですか」
「いただきます」
「座布団ひいてください」
「遠慮なく」

 返事だけは矢継ぎ早に返ってくるのだが、どうも会話をしている気がしない。
 それというのも、カカシがイルカの顔をじっと睨みつけて、言いたいことを堪えている子供のようにしているからだ。
 だがカカシは子供というわけではない。
 イルカは入れ替えたばかりの茶葉に湯を注ぎ、ちょっと色の薄くなった茶を出した。
 カカシは文句をいうでもなく、湯飲みを掴み、口布を下ろして茶を啜る。
 啜るだけでなにも言わないから、イルカは再び麺を啜ろうとすると、

「酷いです」

 と言われた。

「…食います?」
「分けてくれなくて酷いって話じゃないです」
「そうですか」

 あんぐりと口を開けたままだったから、イルカは麺に食いついた。
 ちょっと伸びてしまっている。

「それでなにが酷いんですか?」

 訊いてから、そういえばこのあいだの夜はけっきょく、カカシは来なかったらしいことを思いだした。

「このあいだ」

 ちろっとイルカはカカシを上目遣いに見た。

「ここに来たら、イルカ先生だとおもったのに、イルカ先生じゃない人がいて、なんでか待ち受けられてました」

 ぶは、と啜ったばかりの麺を吹きそうになったが我慢した。
 口を押さえて、ぷるぷる震えた。
 待ち受けられていた、が拗ねている響きで、鼻まで麺が入りそうだ。
 かなり可愛くて、かなり可笑しい。

「イルカ先生? 訊いてます?」
「え、きいて、ますよ?」
「声変ですよ。腹抱えて、笑ってるんですか?」
「―――え、や、んー、ゴホッ、いや、まさか!」
「…変な咳ですね」
「いやーマジでラーメンが鼻に入るかと…いやいや」

 じっとりと見られて、居住まいを正した。
 どうやらカカシには不本意な夜だったらしい。

「イルカ先生は承知だったんですね?」
「やー…すいません。どうしても、っていわれて…それにしてもよく分かりましたね、俺じゃないって」

 まがりなりにもアカデミー教員だけあって、イルカもくの一も気配を気取られないぐらいは当然できる。
 カカシは渋そうな顔で茶を啜ってから言った。

「外まで声、聞こえてたんですよ。カカシさんたら遅いんだからも〜う、とか」

 上手いぐあいに声音を使うものだから、また腹を抱えそうになったが、咳払いで誤魔化した。

「あー、独り言でかいですねえ」
「ほんとでかい独り言でしたよ。しばらく聞いてたら、暇だったんでしょうけど独り芝居も聞かせてもらいました。愉快な人ですね」
「あはは、言っときます。でも好みじゃないですか」
「残念ですが」

 残念そうでない顔でカカシは言う。

「宿直の当番表と違う人なんて詐欺ですよ」
「そんな大げさな。第一、見回りはちゃんとしてましたよ? あの晩、俺」
「……」

 カカシが黙ってしまったので、イルカもとりあえずラーメンを啜った。
 冷めて伸びたラーメンはいかなラーメン好きでも処理に困る。
 あの夜、カカシが来なかったことで、イルカは今夜ここに居ることができている。
 けっきょく食されなかった冷凍食品は大半が捨てられてしまったが、残していったレトルトのカレーなどは棚にしまわれて、イルカたちのいざというときの非常食になっている。
 そういうことを話題にしてもよかったが、カカシが渋そうな顔のまま茶を啜っているから、なんとなく言い出しにくい。

「あー、ええと、腹、減ってませんか」
「減ってません。来る前に軽く食ってきましたし」
「そうですか…」

 カカシがイルカを見る。

「いえ、もし腹減ってたら、どうかなーと思って」

 カカシのために用意したであろうレトルト食品もまだ残っていることだし、と心のなかで付け足した。

「そんなにいつも腹減らしてるわけじゃないですよ、俺」
「ですよねえ」
「イルカ先生が食ってるの見ると、美味そうだなあとはやっぱり思いますけど」

 腹は減っていないと言っているのに強請っているようなことを言うから、イルカは何も返事をせずに麺を啜った。
 不機嫌なカカシはよく分からない。

「あと」
「―――はい?」

 丼から顔を上げると、カカシは他所の壁のほうを見ていた。

「あと、廊下が真っ暗で、ここだけ明かり付いてるのを見ると、なにか、なんていうか、嬉しい気がします」

 見回りから戻ってきたときのことを、イルカは思いおこす。
 暗い教室のなかを、眩い光でかき回して、星明りは静かな夜を際立たせる。
 自分ひとりだけの息遣いと声は、息苦しいときもある。
 その夜の間に、幾度か目に映る、ぼんやりとした明かりは心地よいものだ。
 先日の夜などは特にそう思った。
 宿直室の扉や窓ガラスは古く、曇って日光もよくは通さない。けれど、中からの明かりは、とても暖かく暗闇に灯るのだ。
 イルカの頬が綻んだ。

「ああ、分かります。それ」
「……」
「俺も見回り終わったあとに、ここに戻ってくるとき、つけっぱなしにして出て行くんですけど、やっぱ明るいところに戻ってくるのって良いですよね。嬉しくなるっていうか」

 しかし意外だった。
 カカシもそんなことを思うのか。

「まあ戻ってきても、誰も居ないんですけど」
「イルカ先生が居るじゃない」
「あはは、そりゃ当番ですから部屋には居ますけど、俺が見回りにいって帰ってきたらって話ですよ」

 変なこと言うなあ、やっぱり今日のカカシ先生は変だなあとイルカは笑ったが、そのカカシの顔がやけに真面目で、笑いが引っ込んでしまった。
 そんなに真面目な話をしていただろうかと、思案し始めるイルカを前に、カカシが、それだ、と呟いた。

「え、なにがですか?」

「それですよ」
「どれですか」
「どうして自分でもこうショックを受けてるのか分からなかったんです」
「はあ」
「ラーメン食べてるのはイルカ先生でなくても良いし、中で待ってるのもイルカ先生でなくてもいいんですけど」
「はい」

 それはそうだ。
 当たり前だ。
 宿直室でラーメンを食べているのがイルカ一人であるわけがないし、イルカだけが宿直室を利用しているわけではない。
 当たり前のことなのだが、カカシは一大発見というように湯飲みを置いて身を乗り出した。

「イルカ先生が居て、イルカ先生と食うってのが重要だったんですね」
「……、えぇと?」

 よく分からない。

「だから、セットじゃないと駄目ってことが分かったんです」

 はあ、とイルカは気の抜けた返事をした。
 返事はしたが、気の抜けている通り、やっぱりよく分からなかった。
 カカシは一人で合点したようで、先ほどまでとは違い、晴ればれとしているが、イルカは反対に腑に落ちない。
 要するに。

「つまり、ラーメンと餃子を単品で頼むよりラーメンセットで頼んだほうが得ってのと同じようなもんなんですね」
「え? それはラーメンには餃子を頼まなきゃいけないって話ですか?」
「違いますよ。別にラーメンにはビールでも炒飯でもいいですけど」
「良かった」
「良くない…ていうかよく分かりません」

 あはは、と今度はカカシが笑った。
 声を上げて笑うなど初めて見て、驚いた。
 明るい子供めいた声で、しばらく耳に残ったほどだ。

「うーん、イルカ先生に伝わるように言うのは難しいけど、つまりさ、この間の夜は、俺はイルカ先生にここに居て欲しかったなって思ってたってことです」
「そうだったんですか、それはすいませんでした」
「俺って鬱陶しがられて避けられたのかなとか思ったりもしました」
「そんな馬鹿な」

 思わず言ってしまった。
 だってあのくの一の意気込みようを見たならそんなことは思わないだろうに。
 イルカが避けるより先に、くの一がイルカを押しのけていきそうだ。

「てか、俺より女の人のほうがよかないですか。どっちかっていったら俺のほうがカカシ先生に鬱陶しがられて避けられるほうだと思いますけど」
「なにいってるんですか」
「いや、なに言ってって、普通はそうなんですが…」

 おそらく大多数の人の意見もイルカと同じだろう。
 カカシとイルカがともに食事をするなら、熱心で好意的であるべきなのはイルカで、カカシは上忍の嗜みでもって軽くあしらっているのが、落ち着く図だ。
 そしてイルカのポジションが女性の姿に代わっているなら、よりいっそう多くの肯定的な視線を受けることができるだろう。簡単な想像だ。

「イルカ先生が女の人だったら、すごい俺の好みだったのにね」
「そうそう、俺が女の人だったら…っていやいやいや?」

 なにか変なことを聞いたな、とイルカは目を丸くしたが、カカシは飲み干した湯飲みをちゃぶ台と手のひらの間で遊ばせている。

「そしたら俺も逃げなかったのに」

 手元のラーメンは二割ほど残っていて、すっかり冷めてしまった。
 でろんと麺がのびている。

「…麺、のびてしまいました」
「すいません」
「カカシ先生って物好きっていわれませんか」

 いいえ、とカカシが答える。

「真夜中にこんなとこ来て、食べるのはラーメンだし、女の人けって俺とが良いっていうし、絶対物好きですよ」
「そうかなあ、普通ですよ」
「俺の普通とカカシ先生の普通には大きな差がありそうですね」
「そうそう、年を取ると目に映るものにも差がでてくるらしいですね」
「…そこで、そんなことないですよ、って言ってくださいよ」
「あれ?」

 小首を傾げたカカシに、イルカはがっくりと首を垂れた。
 しだいに細かい笑いが腹からこみ上げてくる。
 この感覚はなんだろう。
 たいした名をもつ上忍に失礼なことだと重々承知だが、可笑しさとともにこみ上げてくる感覚は嘘をいわない。
 カカシは可愛い。
 年上であり立場も上でありながら、イルカにそう思わせるとは、やはりたいした男だ。
 胸のうちには変わらずに憧れの残照がちらついているというのに、そんなことは問題にならないほどに目の前のカカシが存在を示す。
 憧れと親しさを抱かせる上忍など、好かれて当然だ。
 本当に、女性から想われても不思議ではない男だと降参したいほどで、苦笑しつつイルカは言った。

「…まあ俺も女だったらカカシ先生によろめいただろうなあとは思うんで、カカシ先生にそういってもらえるのは嬉しいんですけど」

 苦笑しつつそう言えば、カカシが目を輝かせた。
 その様子がまた可愛い。

「ほんとうですか」
「こんなとこでよければ、いつでも飯食べていってください。見回りの時間でないときに、ですが」
「ここ限定ですか?」
「ここのほうがいいんじゃないんですか?」

 心が暖まるといったのはこの宿直室の光だ。
 するとカカシは少し考えてから

「ここもいいんですけど、あんまりイルカ先生の邪魔するのも悪いって気がします。だから、今度どこか食いに行きませんか、イルカ先生が向かいに居てくれればいいんで」

 その言葉に、イルカは照れくさくなって頬を赤らめてしまった。
 聞くだけなら、まるで睦言だ。
 カカシは囁く相手を間違っている。

「そういう台詞は女の人に言ってあげてください」

 まるで年下に忠告する気持ちで言えば、カカシはよくわからないといった顔をした。
 どうしてですか、とまで言う。
 イルカはその整った顔を眺めて、要らぬ忠告だと重々承知のうえ、カカシのほうへとちゃぶ台から身を乗り出して、顔を寄せた。
 息がかかるほどに近くからカカシを見上げる。
 こんなに近くでいても、カカシは綺麗な顔をしていた。

「あなたは、俺にキス、できないでしょう?」

 きょとんとしたカカシ。
 イルカは苦笑した。
 長く内勤をつとめていれば、耳汚くもなる。
 仲間を欲しがるはぐれ鳥のようなカカシにそのつもりがないだろうと分かっていても、釘を刺しておく必要があるとおもった。

「飯ぐらいいくらでも付き合いますが、そういう誤解されるような甘いのは、俺じゃなくて女の人にお願いします。人が聞いたら要らない誤解をされますよ?」
「はあ」

 いまひとつ飲み込めない、といった風のカカシの生返事をきいて、イルカは身を引いた。苦笑がまた漏れる。

「まあ俺とじゃ笑い話で終わるでしょうから要らない心配ですかね、忘れてください」
「心配って?」
「まあいろいろと」

 カカシはきっと、子供のころに手に入らなかったものをいま欲しがっているのではないだろうか。
 なんとなくそう思う。
 遠い光だと思っていたものが、目の前にふいに浮かんできたから錯覚をしている。

 カカシほどの男であれば、そのうちカカシを照らし包んでくれる眩い光が見つかるはずで、であればイルカの役目は、今のカカシの足元を照らすことだろう。
 ぼんやりとした灯りで。
 イルカにとってそれは、教職につく人間として誇らしいことであり、個人的にも誇らしいことだ。
 冷えた丼をもってイルカは立ち上がった。

「さ、俺はそろそろ見回りに行ってきます」
「じゃあ俺も…イルカ先生、明日の夜、晩飯食いにいきません?」
「さっそくですね」
「駄目ですか?」
「まさか」

 素直に楽しみに出来る用事ができた。
 丼を片付けてからイルカは懐中電灯を棚から出した。
 イルカより先にサンダルを履いて出たカカシが扉をあけると、夜気が廊下から流れてきた。
 夜と闇の匂いが鼻先をくすぐる。
 サンダルをつっかけながらイルカも扉を出、懐中電灯をつけた。眩い光が廊下の先まで一本の筋をつくる。

「明日は早上がりなんで俺は何時でも行けるとおもいます」
「俺も任務は問題ないと思うので…じゃあ七時に、えぇと…」
「アカデミー出たところに自販機があるでしょう、そこでどうですか」
「あのちょっと広くなってる」
「ええ」

 カカシが話しながらも、電灯の指す先を気にしている。
 なにを気にしているのだろうとおもっていれば、カカシの視線はイルカに戻り、嬉しげに細まった。
 一連の動作はカカシにとってなにか意味のあるものだったのだろうか。
 推察することはできなかったが、カカシの綻んだ様子を見ているだけで、イルカもなにかしら嬉しい。

 じゃあまた明日、とイルカは言った。
 カカシも、また明日と言う。
 軽く手を上げて往く手を分かれる。
 しばらく廊下を進んでから、肩越しに振り返ると、静かな闇のなか、ぽつりと浮かぶ宿直室の光がみえた。
 カカシの姿はもう、闇のなかに溶けて、どこにもなかった。




2006.5.20