きっと、遠い光




 例えば、ぽつりと浮かぶ明かりだとか。
 綺羅々しい硝子玉からの光だとか。
 手に触れたときの体温だとか。
 ちいさな、取るに足りないと思われることが、ときに身に沁みたり、大事なものであったと気づくことがある。
 年の若いころには、気づく以前の問題で、そんなことに思い至る自分がある未来を、想像もしなかった。

 年をとったのか、若かったのか。
 思慮深くなったのか、臆病になったのか。

 定かではないが、例えばぽつりと浮かぶ光が、ほかのどんな灯りや眩さや正当性よりも鮮やかに目にうつるとき、こんなにも胸のうちが熱くなることもまた、以前の自分では思い至りもしないことだった。







 カカシは、夜も遅いアカデミーの暗い廊下を、おぼつかない足取りで歩いていた。
 忍びゆえに足音はせず、あたりは静かなばかりで、節約のために落とされた灯りのせいで廊下は真っ暗だ。まさに誰もいない感を味わうには充分なセッティングだ。
 先ほど終わらせてきた任務もまた、単独任務であったからしみじみと孤独感を味わってきた。

 出来ることなら、もう里の大通りを突っ切り、真夜中ゆえに人影もない通りの空気を杯いっぱいに吸い込んで、里の空気と人の雑多な匂いを感じてから、空きっ腹と孤独感を満たすために、手ごろな飲み屋でも行きたいところだった。
 むしろ、報告書を提出した直後は、その気で満々だった。
 けれどいまアカデミーの廊下を、鳴る腹を抱えてふらついているのは、鼻先をくすぐる匂いのせいだった。

 報告受付所をでてから、すぐにそれに気づいた。
 食欲をそそる匂い。
 単純でいて、複雑で旨味たっぷりのその匂い。
 ふんわりと漂う夏近い夜風にまぎれて、カカシの鼻先をくすぐるそれに釣られて、カカシはアカデミーまできていた。
 アカデミーの廊下の窓からはいる星明かりはささやかで、カカシはほとんど暗闇のなかを匂いだけを頼りに歩く。
 気づけば、ふと廊下奥のほうに、明かりのついた部屋の扉がみえた。扉よこの部屋窓から明かりが廊下へと漏れている。

 部屋の扉上には「宿直室」と墨文字で書かれていた。
 そして、匂いは間違いなく、その宿直室から流れてきてた。
 カカシは躊躇いなく、ノックもなく扉をあけた。
 あけたとたん、

「うおっ!?」

 声がして、間抜け顔の男が、そこにいた。
 いままさに、啜ろうとしてた、手鍋の中身。
 インスタントラーメン塩。
 カカシの視線がそれに釘付けになる。
 宿直室は四畳間ほどの小さく古ぼけた部屋で、申し訳程度の上がり框と、黄色い畳。布団をしまうための狭い押入れが扉をはいった右手につくりつけてあって、その襖も古ぼけて黄ばんでいる。
 四畳の狭い場所の真ん中に、これまた小さく古惚けているちゃぶ台が置かれていて、魅惑的な鍋はそこに置かれていた。

 カカシの視線はさらにじっと注がれて、外れない。
 ふらふらと、身体もそこにひきつけられる。

「あ、あの…?」

 箸で麺を捧げ持ったまま、固まった男が当惑した声をかけるが、カカシは無視。
 がしっ。
 鍋の取っ手を掴んだ。
 そのまま一気に口のなかに流し込…もうとしたところで、

「わー! わー! 分かりました! ちょ、ちょっと待ってください、分けますから! あなた用に分けますから! んな食い方したら鼻から麺、出ますから!」

 焦りまくった男の声と腕がカカシをとめた。
 のちに、考えてみたらあなたあのとき覆面したままだったし、麺が入らなかったんじゃないですかね、と男ことイルカは首をかしげて笑った。








 さて、無事にイルカからインスタントラーメンをせしめたカカシは、ぷはーと満足げな息を吐き出していた。
 四袋、食った。
 イルカはやや渋い顔である。
 個人的備蓄を大方減らされたから、それぐらい当然といえば当然だ。
 盛大に声を上げて制止できなかったのは、イルカが中忍でカカシが上忍であったことと、カカシがあんまりひもじそうにみえたからだった。

「…それで、満足しました?」
「ええ、それはもう。ごちそうさまでした。インスタントラーメンでしたけど」
「……、お粗末さまでした」

 悪うございました、とイルカは心中でごちた。
 言い訳するなら、カカシにわけてやった最初の一食目は、ちゃんとキャベツと人参と芋をいれ、仕上げに卵もいれた立派なインスタントラーメンだったのだ。
 その後のラーメンは素ラーメンだったが。

「いつも?」
「は?」

 カカシに出すために急須に湯を注いでいたイルカは、カカシの問いかけに顔をあげた。
 ラーメンをがっついているときにも思ったが、面布を下ろしているカカシはけっこう整った顔をしている。
 騒がれるのが分からないでもない顔だ。

「いつも、インスタントラーメンなんですか?」

 言葉を加えてくれた質問に、イルカは頷いた。

「ご存知でしょうけど、ここは宿直室なんです。持ち回りでしているので、食料も持ち回りで用意しています。誰でも用意できて、すぐに食えて、簡単なものっていったらこうなりました」
「イルカ先生が好物だからじゃないんだ」
「違います。どんな理由ですか、それ。第一、毎日食ってるわけじゃないんですよ」
「あれ? ナルトからきいた話じゃ、あいつと食いに行くときはいつもラーメンて」
「毎日じゃないですよ」
「まあそりゃそうだ」

 屈託なく目を細めているカカシをみて、ふと、いままで会話のなかった間のことを考えた。
 中忍試験の慌ただしさのなか、ささやかな意見違いを経て、ナルトたちの成長をみたイルカからカカシへの態度を和らげ、なんとなく和解したかのようになっていた。
 一緒に飲みに行く、というほどではないが、立ち話やナルトたちの近況を気安く聞けるほどには近しかった。

 名高い忍びであろうが、下忍たちの指導を任されているという立場であれば、ガイやアスマ、紅たちと同じ上忍師であり、だからこそ遠慮を意識的に排していた成果でもあった。
 カカシのほうも中忍だからとイルカを鬱陶しがるわけでもなく、敬語までつけて答えてくれた。
 友人とまではまさかいかなくても、良い関係を築けそうだと感じていれば、間にふさがるように起きたのが、あの騒動だ。
 里は大きな痛手をうけ、カカシもまた怪我を負ったときいた。
 それからの日々は、里にとってもイルカにとっても目の回るような忙しさで埋まってしまった。ナルトたちは里の外へと、はぐれた『仲間』を連れ戻しに出、カカシはまた上忍師でなく忍びとして任務をはじめたときいていた。

 そんなわけで、ナルトほか下忍たちを抜きにして、イルカとカカシが接触する機会は限りなく少ない。
カカシが忙しく里にない日が多く、イルカが受付よりもアカデミー復興に忙しくしていれば、さらに少ない。
 むしろ、探すでもなければ、会わない。


 だからイルカがカカシの顔を今夜みたのも、以前から数えてみれば半年以上、もしかすれば一年たっているかもしれなかった。
 ほかの上忍師をしていた忍びたちも長く顔をみていない。
 こうして異色な来訪であっても、カカシの顔を久しぶりに見れたことは喜ぶべきことかもしれなかった。
 任務にひどく疲れて腹を減らしていたほかは、怪我もなく、元気そうだ。

「来られるのが分かっていれば二人分、用意したんですけどね、野菜」

 もちろん、こんな宿直室にインスタントラーメン目当てにくる人間などいないから、あえて言った。茶をうけとって啜っているカカシがイルカを見る。

「野菜だけは生ものなんで、自分で持ってきてるんですよ。身体は商売道具ですからね」
「ですね。ラーメンばっかりは身体に悪いですよ。喉も渇くし」
「ラーメンは塩分多いですからね」

 飲み干したカカシの湯飲みに、イルカは急須のなかで出すぎて渋くなった茶を足した。

「カカシ先生、一週間分は塩分取りましたよ」
「あ〜、腹へってたもんで」
「ラーメン以外も用意があればよかったんですけどね」

 腹がへっていたという正直な言葉に、ついお人よしな返答をしてしまった。
 むしろイルカは自分で買ってきた袋ラーメンを食われてしまい、夜食も半分食われ、怒ってしかるべきところなのだが。
 だが、古ぼけた室内の蛍光灯の下、カカシの姿はいままさに任務から戻ってきたというような埃にまみれた姿であったし、みたこともない目の下のクマまで見える。
 そしてここは、大通りの定食屋からは遠く離れたアカデミーの宿直室、そして真夜中。

 おそらく匂いにでも惹かれたのだろうが、疲れた体で里に帰ってきて、一番に訪れたであろうこの場所で、冷たく追い返すことは、イルカには難しい。
 己がカカシの立場であれば、と考えれば、最初の渋い顔も横において、すこしは労わり深い言葉もでるというものだ。
 カカシは、すいませんともありがとうともいわなかった。
 そして、はあともはいともつかないため息のようなものを漏らしてから、飲み干した湯飲みをイルカへと返した。
 口布を上げて、立ち上がった。

「あ、お帰りですか。それじゃあお気をつ」
「ということは、俺はこの部屋の在庫を食い散らかしたんですね」
「? はあ、そうですね」

 おもに食い散らかしたのは、イルカの買ってきた五袋入りラーメンパックだ。

「イルカ先生、今度持ってきます。食ったぶん」
「いいですよ、別に。たいした物でもないですし」
「いえ、旨かったです。助かりました」

 正直言えば、同僚にも憧れているものがいるほどの忍びに、袋ラーメン五パック入りをスーパーで買わせるのもどうかな、とおもったからとっさにいいですよと言ったのだが、カカシには通じなかった。
 それにしても、カカシ自身も粗食だといっていたのだから、気にしなくてもいいのに。

「じゃあまた来ます、イルカ先生、お邪魔しました」
「いえ、お疲れ様でした」

 来たときとは反対に、礼儀正しく挨拶して扉を音もなくあけて、カカシは姿をけした。
 イルカは鍋を片付け、見回り用の懐中電灯を手に取りながら、あの忙しいカカシがまた来ることなどないだろうと思っていた。




2006.5.20