やがて月の夜に





 夜空が蒼く染まっていた。
 大きな月が、見事に夜を照らしていた。
 カカシはそれを人気のない屋根の上で見ていた。
 こんな煌々しいものを他人と見るなど、過去の災厄を語るきっかけになるようなもので、好きではなかったから。
 澄んだ月華は、まるで昼間を思わせる確かさで、闇に沈んでいるはずの里を、あますところなく照らしている。
 こんな静かで、やたら美しく全てが映る夜は、すこし好きではない。
 それは身の内に抱える、忍びという業のせいだろうとは自覚できるが、この、目に映る全てが仄かに灯り光り莢かに見える夜は、―――己のことをどこまでも見つめてしまいそうで苦手だ。
 自分は自分でしかないから。
 無闇に、周囲を美しい世界だと賛美して、己を卑下することは馬鹿らしい。

 あの人は、そんな馬鹿なことを真っ当にしてそうだけどね。

 一文字の古傷を触りながら困る様子が、カカシの脳裏に浮かぶ。
 頬が緩んだ。
 黄金色の月光は、カカシの銀色を染めている。
 目を細めて、カカシは背後へ声をやった。

「いい月ですねぇ」

 音のない闇がゆるりと動いたかに見えた。
 黒装束の忍びが一人。
 イルカだった。
 声も表情もなく、カカシの背を見ている。

「こっちへ来ませんか」

 イルカは動かなかった。
 夜風が吹いて、カカシの前髪を揺らす。
 昼間よりいくぶん涼しくなり、これからやってくる季節を思わせた。

「風も光りも、気持ちいい」

 カカシの立っている場所は、円形の胞子状の屋根、そのなだらかな傾斜の途中部分だ。
 斜めになった場所は、たしかに言うとおり、夜風も心地よく、月もよく見えた。
 だがイルカは動かない。
 カカシは、眉をしかめて、小さく溜息をついた。
 そしてどっかりと屋根に腰を下ろすと、背後へさらに言う。

「なに気にしてるんです」

 不貞腐れたような色。
 だがカカシは気づいてしまったから。
 イルカがそこを動かないのは、その場所が風下だから。
 その場所が、月光も届かない影の落ちる場所だから。

「あなたが自分を自分でどう思おうが、俺には関係のないことじゃないですか」

 カカシは思ったことを言った。
 きっとイルカの複雑怪奇でかつ恐ろしく単純明快な思考は、今、恐れ戦いているのだろう。
 いくら風下にいるとはいえ、探ろうと思えば探れる、その血臭。
 ささくれ立ったその気配。
 忍びとしての己と、人としての己。
 そんなことに悩み恐れを抱くことは馬鹿らしい。
 だが、そんなことに恐れ怒り涙を流すのが、イルカだ。
 きっと今、イルカは自己嫌悪の真っ最中ではないだろうか。
 そんな人がどうしてわざわざ任務帰りにカカシへ気配を悟らせたのか、不思議な思いもあるが。

「だからこっちに来て」

 言葉なく、イルカは立ったまま。
 秋風は涼やかに虫の音を運んでくる。
 カカシはゆっくりと見えるように、手招きをした。

「そんな一人で泣いてないで、俺の横、座りなさいよ」

 ゆっくりとイルカが動いた。
 酷く緩慢とした動き。
 月明かりの下、音はなく、カカシの横へ、イルカが立った。
 はっきりと血臭がした。

「怪我は?」
「いえ」
「良かった」

 傍らに突っ立ったままのイルカの手を、カカシは引いた。
 指に絡まった血糊が、ぬるりと指先に触る。
 崩れるように横へ座ったイルカの背を、二度、三度と、その血が触れた手で、撫でた。
 俯いたイルカの顔はわからない。
 だが、以前、自分のために泣くことが辛いと、聞いたことがあった。
 その人がこうして、顔は見せずとも、隣に座り、どうやら泣くことができている様子に、カカシは不謹慎ながらも嬉しさを覚える。
 少なくとも、一人で居るよりはカカシと居ることを選んでくれたのだと、思えたから。

「そうそう、明日は雨なんですって」

 撫ぜさする掌はそのままに、カカシはなんでもない続きのように言葉を乗せる。
 イルカからの返事はない。
 傾斜に膝を立て、腕をのせて面を伏せている。
 カカシは、明日になると、またいつものイルカ先生なのかなぁと予想半分残念半分で思いながら、話を続ける。

「残念ですよねぇ、こんな名月、今日だけなんて」

 ゆっくりと背を撫でる温かさもそのままに、いつもの口調で。
 それは、やがてイルカが面を上げるまで続けられていた。




2003.09 「泣けない心」からずいぶん後の二人、です。あいだを抜かしてしまいました…。