まだまだ暑い残暑の日差し。
 照りつける眩い陽光は、ちょうど昼下がりのいちばん容赦ない時刻で、イルカの家の中まで、暖められた風を運んでくる。
 そして家の中には茹だった上忍が一人。
 扇風機を前にして動かないその姿へ、イルカは笑って声をかけた。

「カカシ先生、でかけますよ!」





自転車に乗っていこう








 今年の夏はとても暑かった。例年以上の真夏日を連日」記録し、連日の同僚との挨拶は「今日も暑いなぁ」が定番で、夕飯の買い物の商店街の店主も「今日も暑いねぇ先生」だった。
 イルカは夏が特別好きというわけでもないが、この暑い季節が嫌いではなかった。だから、家にはクーラーというものは無い。あるのはせいぜい扇風機だ。
それももう十年ほど使い込んだ、首を回すとがたぴしと音のする年代物。
 そんな夏向きの家とイルカなものだから、そこへ暑がりの人が居着いたりすると、まったく苦笑するしかない。
 なにしろ、あついーあーつーいーと、扇風機に向かって話し掛けてばかりいるのだから。
 アイスを差し出せば喜び、氷枕で昼寝をし、夕時になればまるで猫のように、涼しい場所を探して家の片隅で涼んでいる。
 名も高い上忍がそんなだらしない格好でどうするんですか、と笑うが、当人といえば色違いの目を細めて、くあぁと欠伸をするばかり。
 一度、家でいるときのあまりの蕩けぶりに、任務は大丈夫なんですか、と聞くと、涼しくなったら調子が戻るから良いんです、と答えに成るような成らないようなことを言っていて、こりゃ頭のなかみも暑さで柔らかくなってそうだな、と思ったものだった。




 ともあれ、そんな風に暑さに弱いからといって、せっかく久しぶりの一緒の休日。
 家のなかに居て、相手の目に映るのが自分でなくて、ガタガタいいながら回っている扇風機だなんて、ちょっとじゃなく、けっこう屈辱的だ。
 だから、いちばん暑いときに、と渋るのを「じゃあ一人で留守番していてくださいね」と底意地悪く言って、腰を上げさせた。
もちろん、カカシもイルカが拗ね気味であることは薄々承知していたようであったから、笑いながら腰を上げたのだ。どこ行くんですか、と。
 家の外に出ると、とたんに照りつける日差し。嫌々そうにベストを着て、口布と額宛をつけなおすカカシに、答えた。

「アカデミーです。ちょっと資料を借りていて、夕飯の買い物もあるし出かけついでにと思って」
「はーい。あ、じゃあソーダ味のアイス、買っても良いですか」
「帰りにね」

 イルカは笑いながら、古ぼけたアパートの階段を下りる。最近、とみに気に入りのソーダ味アイスをねだる上忍が、可愛らしかった。
 手荷物の巻物を片手に、アカデミーに寄ったあとに八百屋と魚屋と、それからコンビニに寄ろうかな、アイスは溶けてもいけないし、と考えていると、他の部屋に住む婦人にであった。
 見知らぬ顔でもないので頭を下げると、

「あらイルカ先生、これからご出勤かい?」

 と訊いてきた。確かにイルカもカカシも着ている服は、平日と変わらずベスト着用の忍服だが、だからといって休みがないというわけでもないのだ。笑って首を振る。

「いえ。でも用事があるんでアカデミーに行くんです。暑いけど、私服で行くわけにも行かないし」
「そりゃ大変ねぇ」

 婦人も笑って、そしておもむろに「そうだわ」と手を打った。

「どうされたんです?」
「いえね、うちの子がアカデミーの人から自転車を借りてたのよ。昨日なんだけど。今日も暑いし用もあるから、もうちょっとしてから返しに行こうと思ってたんだけどね、…先生を使って悪いんだけど、返してくれてないかい?」

 言いながら出してきた自転車は、イルカの家の扇風機よりもずっと年代物の、言っては悪いが、むしろ骨とう品だった。
油はさしているようで、車輪は回り音もしないが、古い鉄で作られた自転車の車体は、錆が多くはりついて、いかにも古びて見える。

「いえ別に良いですが、ついでだし。でも誰に返せばいいんですか? 自転車持ってる人なんて居たかなぁ…」

 アカデミーの同僚の顔を思い浮かべてみたが、こんな古い自転車をアカデミーに乗ってきている顔は思いつかなかった。すると婦人が言った。
「用務員のね、おじいさんなのよ。親切な方でね、うちの子が昨日、すりむいて怪我したらしいんだけど、帰るのに使えって貸して下さって。あとでお礼に行こうは思ってるんだけど、無くてお困りだといけないし…悪いんだけど」
「良いですよ、返してきます。用務員のおじさんですね」

 婦人は、たいてい話が長い。下手をすると、相槌をうつあいだに同じ話をリバースでもう一度聞かされることもある。暑い日ざしのなか、それは自殺行為だ。
イルカは愛想よく頷いて、ささっと自転車を婦人から受け取った。そしてそのまま、そそくさとアパートを離れて、通りにむけて適当に歩き出した。




 自転車は、見た目によらず、押す力でスムーズに動いてくれた。乗る分にも、まだまだ丈夫そうだ。  それにしても自転車なんて、久しぶりに触るな、と思う。忍びになってからは、そう世話になることもない乗り物だ。
懐かしく思っていると、今まで無口だったカカシが口を開いた。驚く。てっきり、暑さで無反応になっていると思っていたのに。そして聴いた言葉にさらに驚いた。

「これ、じてんしゃ、っていうんですか?」
「えっ??」

 おもわず耳を疑ってしまって、自転車を挟んで歩くカカシをみた。カカシはぼんやりとした口調のままで続ける。
「名前は聞いたことあったんですけど、そっか、これがじてんしゃっていうものなんですね。二つ車輪があって、走るのと歩くのとの中間ぐらいの速さの乗り物って」

 ひとりでしきりに感心している。

「カカシ先生、もしかして自転車、知らなかったんですか!?」
「やだな、俺も知らないこと、いっぱいありますよー。てか、こういうことはあんまり知らないです、正直いって」

 言われて、イルカは気づいた。カカシの今までの生活に、自転車など必要のなかったものだということに。里に関係する事項の多くは、カカシに必要のない、見知らぬものだったのだろう。
 二十も折り返した年齢で、自転車を知らないことは、里のものなら確かに珍しいだろうが、カカシなら当然かもしれなかったな、と驚いた自分を少し反省した。

「そうなんですか、じゃあ乗ったことも無いんじゃないんですか?」

 そう訊けば、屈託無くカカシが頷いた。

「ですねー。イルカ先生、乗り方知ってます?」

 イルカは胸を張った。こう見えても、昔はいたずら小僧だったのだ。要らないことはよく知っている。

「あったりまえですよ。じゃあただ押していくのもなんだし、カカシ先生に乗り方、教えてあげます!」
「え? そんな、勝手に乗ったら用務員の爺さんに悪くないですか」
「乗っていったほうが早く返せるじゃないですか、ね!」

 急にわくわくしてきた。カカシに何かを教えられるなんてそうそうあることじゃない。

「じゃあ、練習のため、川の土手に向けて、進路へんこーう!」

 すかっと機嫌の良いイルカの声は、高くなりつつある残暑の青空へと吸い込まれていった。











「わっ、これ、バランス取るの、簡単そうで難しいじゃないですか」
「そんなこといって、けっこうちゃんと走ってますよ」
「イルカ先生、ちゃんと後ろ、持ってくれてますよね!?」

 言ってカカシが急に後ろを振り向いたから、イルカは慌てて、ぶらぶらさせていた手を自転車に戻した。

「大丈夫大丈夫、持ってますって」
「なーんかさっき、手ぇ外してたような」
「ほらほら、ちゃんとペダル、漕ぐ!」
「わっ」

 里の大通りからすこし外れた川の土手。まったくの遮蔽物もなく、午後の日差しと風が気持ち良く吹いていた。秋に向かう土手を、みれば秋茜がふわりと遊んでいる。
そんななかを、二人でああだこうだと言いつつ、自転車を練習していた。いまはカカシが走り出したところ。
 一応、漕ぐ先はアカデミーの方へ向かって。けれどそのスピードは、あっちへよろよろ、こっちへよろよろで、歩くのと大差ない。
 きっといつものカカシ先生ならあっという間にできるんだろうけど、とイルカは思ったが、黙っておいた。その代わり、後ろから大きく励ます。

「カカシ先生、ペダル漕いだら勝手に進みますからねー。バランスは難しくなくて簡単ですよー。車輪がいっこじゃなくて二個ついてるんだから、大丈夫ですよー」
「二個だから難しいんじゃないですかー」

 カカシの声までふらふらと揺れている。笑い出したいのを堪えながら、徐々に後ろを支える力を緩めながら押す。

「大丈夫大丈夫。ゆっくり走ってるぶんにはハンドルがふらつきますけど、早く走ったらそんなことないですよー」
「そんなの暑くて力がでませんよー」

 情けない声。堪えきれずに、大笑いした。

「上忍先生がなに言ってんですか!」
「そんなの関係ありませんー」

 あると思うけどなぁ、と思ったとき、ゆっくりと離しかけていた手が、ようやく全部離すことができた。
懸命に前をむいてペダルを漕いでいる背中にはなにもいわず、イルカは小走りに後を追いかける。カカシの背中は一生懸命だ。
まだまだふらついている自転車は、それでも小走り程度には速くて、イルカは大股になって横に並んだ。
 そこでようやく、カカシが衝撃を受けて叫ぶ。

「あー! イルカ先生、後ろ、持ってて下さいって言ったじゃないですか!」
「あはは! ちゃんと走ってるじゃないですか、大丈夫!」
「うーらーぎーりーものー」
「あははー」

 残夏の風が気持ちいい。もうすぐ本格的に秋がくるのだろう、頬を掠める風の匂いのなかには、木の葉の暖かな匂いもする。
 少し足を速めて自転車の先にたち、カカシと競争するように、カカシを振り返ると、その鼻先を秋茜がすいっと横切った。
 カカシがペダルを踏み込んで、イルカを追い抜く。それをイルカがまた追い越して、またカカシが追い越す。
 自転車は古ぼけているから、カカシがどんなにペダルを回してもそう速くなるわけもなく、二人は笑いながらちょっとした競争を繰り返した。秋茜は、すいすいとそんな二人をからかう様に飛び回っていた。




「あー、イルカ先生、俺もう疲れましたー。交代してくださいよー」

 カカシがそう言ったのは、アカデミーまであと半分の距離にきたとき。イルカも暑いなか走りつかれて来たところだったので、一も二も無く頷いた。そして後部座席を指で指した。

「じゃ、俺が漕ぐからカカシ先生、後ろ乗っていいですよ」
「後ろです? ここ?」

 カカシも指差した場所は、ついさきほどイルカがカカシのために自転車を支えていた車体後部の、平たい鉄板。大きな荷物があったときのためだろう、よく伸びる紐が、ぐるぐると巻き付けてある。

「そうそう、それに跨っててください。飛ばしますよ〜」

 久しぶりの自転車に、イルカは楽しくなった。昔はよく借りた自転車で大きな丘の斜面を下ったものだ。
カカシは小首を傾げていたが、待っていると大人しく後ろに跨った。だが、向きがイルカへ掴まるのでなく、まるきり後ろに向かって跨ったので、イルカは危ないですよと注意しようか迷った。けれど、まあ調子悪くても仮にも上忍なのだし、とおもって止める。さすがに落ちはしないだろうし。

「よーし、じゃあしゅっぱーつ!」

 言ってペダルに力をかけた。後ろからカカシが、

「しゅっぱーつ!」

 と機嫌よさげな声で唱和して自転車がゆっくりと進みだした。


 最初はゆっくりとゆっくりと進み始めた、二人乗りの自転車は、イルカの漕ぐ力にあわせて、徐々に速くなっていく。はじめは頬にやんわりと感じていた微風が、やがて髪を揺らすような力強く心地よい風になった。

「うわー! 気持ちいいですねー!」

 後部座席からの声に、イルカは笑う。

「そりゃそうですよ! あったりまえです!」

 言って見上げれば高い青空。遠くには薄くいわし雲。
背中からの歓声は止まずに、感激した様子はまるで初めてわた飴を食べた子供のよう。気持ちのよい風と一緒に走る感覚は、やっぱり良いものだ。
 秋茜とだって一緒に飛べそうな。
 イルカはペダルを加減して踏みながら、

「あー! 気持ちいいですねー!」

 そう言うと、カカシに「イルカ先生、俺とおんなじこと言ってる!」と声をたてて笑われた。二人の声は、流れる風といっしょに、澄んだ秋ゆく空に吸い込まれていった。





*****





「すんませーん、用務員さん、いらっしゃいますかー」

 アカデミーに着いて、校舎の裏手に回ると、用務員室はすぐだ。
校舎脇の花壇の一部を、用務員の老人は趣味で菜園にしていて、用務員室近くの花壇一角は、緑がそこだけ生い茂っている。しかも、ちゃんと畝がつくってあり、支え棒もさしているなど、見事な畑作ぶりだ。
 カカシ先生の好きな茄子もなってるなぁ、と横目でみていると、奥のほうから、返事があった。
よく陽にやけた小柄な老人が顔をみせ、イルカの顔をみて、にこっと目尻をしわくちゃにした。

「おぉ、おぉ、イルカ先生じゃないか、よくいらっしゃった。わしになんぞ用かいの」
「近所のおばさんに頼まれて自転車を返しにきたんです。これ、おばさんがありがとうございました、って。今は用があるそうですけど、またお礼にいらっしゃるそうですよ」
「そうかそうか、そんなにお気を使わんでいいのにのー。イルカ先生も仕事中だってのにそりゃすまんかったなあ」

 やっぱり、忍服にベストで額宛までしていると、仕事中だとみられるらしい。カカシを振り返って、目で笑いあう。
 自転車を脇に止めていると、老人もごそごそと何かを取りだしているようだった。

「手間賃というわけじゃないが、先生、これを持っていきなさい。朝方採れたもんでな、独りにゃ多すぎると困っとったとこだ」

 好々爺の笑みで老人が差し出したのは、ビニールの手提げ袋いっぱいの茄子と少しのピーマン。どれも艶々として美味しそうだ。

「うわぁ、美味しそうですね! でもいいんですか? こんなにもらっても…自転車届けに来ただけなのに」
「なに、わしの分はあるよ。それに食い盛りのお人に食べてもらったほうが野菜もわしも嬉しいさな」

 にっこりと笑って言われ、イルカもそれならと有り難く頂戴することにした。思わぬもらい物だ。嬉しい。
「ほれ、向こうで立っとる先生にも良かったら分けてやってくだされな、イルカ先生」

 ほれ、と老人が指差した先、いつのまにか離れた場所の樹の木陰で、ぼんやりと涼んでいるカカシが居た。
有名であるカカシを老人が知らないはずはなかったが、今の蕩けそうなカカシを言う口調が、出来の悪いこどもを気にかける口調にそっくりで、可笑しくてイルカはちょっと笑ってしまった。


 重ねて礼を言いながらその場を後にして、ずっしりとした手提げを持ち、資料を予定通りに返してから通りに出た。カカシが袋のなかを覗き込む。

「それにしても、本当に丹精された野菜ですねー」
「ですね。それに、これで夕飯の買い物、ひとつ助かりました」

 イルカはそう言ってカカシに二カッと笑った。カカシも、ぼんやりとしているように見えるが、もらったのは好物の茄子が大半だから、どことなく嬉しそうだ。

「晩飯、何にしましょうか、カカシ先生」
「うーん…暑いから…」
「ちなみにソーダ味のアイスは晩飯の範疇には入りませんよ! 主食じゃないですよ! デザートですよ!」

 思案するカカシの先をまわって、釘を刺した。

「えー? 入んないんですかー」
「入りません! それにせっかく茄子もらったんだから、…そうだなあ、麻婆茄子と、焼き茄子にしましょうか。あと秋刀魚も買って帰りましょうか」
「わー、俺の好きなものばっかりです、嬉しいです」
「そうですね、カカシ先生が嬉しいと俺も嬉しいですよ」

 言って、カカシを見ると、ふわふわとカカシの周りの空気が浮き足立っているように見えた。
 夕食のメニューか自分の言葉か、原因が曖昧だったが、イルカも一緒にふんわりと嬉しくなって笑った。




 陽がやんわりと傾き、商店通りには夕方すこし前の落ち着きがあった。
 魚はちょっと奮発することにする。カカシの好きな秋刀魚だから、新鮮なものを買いたかった。だから、並ぶ商店のなかを品定めしながらゆっくりとカカシと歩く。

「あ、…目が合っちゃった」
「え? 何がですか、カカシ先生」

 ふいにカカシに袖をひかれたので少し驚き、視線を上げると、進む方向から紅とアスマが連れ立って歩いてきていた。
イルカもちょうど目も合い、軽く会釈をすると、アスマが片手を上げて、挨拶を返してくれた。

「よぉ。なんだお前ぇら、仕事中か? にしちゃ呑気に連れ立って買い物かよ」

 声の通る距離に近づいた一声がそれ。イルカは今日はこれで三度目だなぁと笑った。

「違います。俺もカカシ先生も今日は休みなんです、この格好はアカデミーに寄って来たからなんです」
「俺たちより、アスマと紅はどうしたんだよ。二人してデートしちゃって。暇なの?」

 暑さで大人しかったカカシが、ふいにそんなことを言った。すると、紅が頬を分からないほどに薄く染めて、切り返してきた。

「ばーか、下忍の任務が終わったから、ついでに一緒に昼飯食べてただけよ」

 イルカには、どうして『任務が終わったから一緒に昼飯』になるか分からないが、要するにそれって、

「つまり、デートじゃないの?」

 呟いたカカシに、ギロッと紅の視線が飛んだ。傍らでみていたイルカは、浮かべていた笑顔が凍りつきそうになってしまった。

「…ま、まぁ、とりあえず、お疲れ様でした。紅先生、アスマ先生」
「おう。お前ぇもカカシのお守りたぁ暑いなかご苦労さんなこったな」

 わざとだろう。アスマまで要らないことを言い、こんどはカカシからアスマへと眼孔が飛んだ。
イルカはまるで三竦みの只中にいるような心地になって、とっさに手の手提げ袋を掲げる。

「あ、あのっ、よろしかったらこれ、おすそ分けなんですけど半分いかがでしょうかっ。たくさん頂いたので…っ」

 急に差し出した袋を、上忍二人はしばしあっけに取られて見ていたが、ややあって、

「そうね、じゃあちょっとだけもらうわね。ありがと、イルカ先生」
「だな、俺も自炊なんかしねぇが美味そうだ。ちょいともらうぜ。ありがとよ」

 言って、袋からそれぞれ二本程度の茄子をとった。すると紅が思い出したように、どこからか、凄いものを取り出した。
 秋の味覚。松茸だ。
 しかも、二本も。

「そういえばこれ、今日の任務で偶然、見つけたの。お礼にあげるわ」
「…え! いえ、これはもともといただきものなんですし、そんなお気を使われなくても…っ」

 慌てたのはイルカだ。まさかそんな物々交換になるとは思わなかった。だが、紅は屈託無く手提げのなかへそれを落とし込んだ。

「いいのよ、実はね、昼飯に取れたのを焼いてもらって食べてたの。これはその残り。美味しかったわ、ぜひ食べてみて」

 言って、イルカが返事を考えるまもなく、二人とも通りを行ってしまった。袋にはイルカとカカシの二人分にちょうど良い程度の茄子と、松茸二本が残って。

「あー、あいつら行ってくれて良かった。自分たち棚にあげて、イルカ先生と居るってからかってくるし」

 後ろ姿を見送りながら、カカシがそんな風に呟くから、イルカは銀色の後頭部をぺちっとはたいた。

「痛いっ、イルカ先生!」
「だからってアスマ先生と紅先生に噛み付かない! しかもこんな良いものを下さって、紅先生に今度お礼、言っておいてくださいね!」
「えー!? あんなのイルカ先生にだけ良い顔してるに決まって…いてっ。イルカ先生、そんなに俺の頭、叩かないで下さいよー。ぼけそうです」
「あなたの頭はいま夏ボケしてるから、すこしぐらい叩いても良いんです」
「え〜。何でですか〜、ちぇ〜、理不尽だ。あ! でも」
「なんですか?」

 きらきらと、いきなりカカシが目を輝かせた。

「夏ボケしてるからアイス、たくさん買ってくださいね!」

 聴いて、イルカはとりあえず、そのふわふわとした銀色の頭をはたいて、アイスと松茸、どっちが良いんですかと説教したのだった。




 さて、目当ての新鮮な秋刀魚も手にいれ、陽もやや空から下り始めたころ、ようやくカカシの念願のアイスを買う時間だ。
 保冷機を覗き込みながら、目がきらきらっと輝いた姿は、とても里の誇る上忍のあるべき姿とは思えない。だがそれでも惚れた欲目で、そんな姿も可愛いと思ってしまうのが恐ろしいところだ。

「イルカ先生! 六個入ったお徳用、買ってもいいですか!?」

 やおらカカシが、そう言ってけっこう真剣な顔をしてみせるから、いっそうイルカの胸が締め付けられた。なんだこの感情は。まるで小動物に見つめられているようだ。

「―――え、えぇ、いいですよ。あ、でも一日一個までですよ!」
「はぁーい」

 返事だけはいいんだから、と誤魔化すように小言をいい、イルカは会計を済ませて店をでた。カカシは上機嫌でアイスの入った袋を下げている。

「溶けないうちに、早く帰りましょうか、カカシ先生」

 子供のような分かりやすいカカシに苦笑して、家の方向を行こうとしたとき、遠くから声がかけられた。元気の良い声だ。

「イッルカせんせーーっ!」  振り向いて見ずともすぐにわかった。イルカが身体をひねって声の方向を向こうとするまえに、どしん、と腰に軽い追突。まだまだ小柄な体が満面の笑顔で抱きついてきていた。

「あ、カカシ先生もこんちわだってばよ!」
「お前、なんかオマケっぽく言うね、イルカ先生と違うぞ」
「いーんだよ、カカシ先生、最近、なんかぼーってしてるしさ! たるんでるってばよ!」

 上司と部下の会話とも思えないな。苦笑してナルトの頭をなで、目を上げると、近づいてきているサスケとサクラも見えた。

「なんだ、三人一緒だったのか。今日は休みだったろ?」

 イルカが訊くと、ナルトが大きく頷いた。

「うん! だから三人でしゅぎょーしてたんだってばよ!俺ってばもうばっちり! すぐにイルカせんせー追い越しちゃうもんね! にしししし」
「そんなこと言って、忍術さっぱりだったじゃない! もっと集中しなさいよね! あ、イルカ先生、カカシ先生、こんにちはー」
「………ども」

 サクラとサスケに、よう、と返してイルカは笑う。

「三人ともお疲れさん!」
「ありがとうございます、イルカ先生! ほんっと! ナルトが張り切って朝から付き合わせるんだもの、へとへとです!」
「そりゃ大変だったなぁ。まぁ頑張ったぶんだけ実りも大きいさ」
「ね、ね、んなことよりさ!」

 話を聞かないのは子供の特権。こら、というイルカの静止をきかずに、ナルトが素早くカカシにまとわりついた。
 正確には、その手に提げたアイス入りの袋に。

「カカシせんせー、いーもの持ってるってば! なーなー、一本、ちょーだい!」
「やーだよ、自分で買ってきなさいよ」
「ちぇー、ケチー! 六本も入ってんだから一本ぐらい、いーじゃんいーじゃん! 大人なんだからさ!」
「大人だってアイス食べたいときはあるの!」

 ああぁ、とイルカは額を押さえた。まるで子供の言い合いだ。ナルトが狙う袋を、カカシは頭より上にあげて死守しようとしている。ナルトはナルトで、カカシに登って、まるで旗取りのようだった。
イルカは苦笑する。カカシには悪いが、ここは子供の見方になっておこう。

「はい、道端で恥ずかしいこといつまでもしない! 二人とも! アイスは公平に、みんなで食おう」

 言って、さっと取り上げたアイスの手提げ袋。
 相手は上忍といえど、夏バテ中なら簡単なことだった。
 そして、歓声を上げたのはナルト。反比例して抗議の声を上げたのは、もちろんカカシだった。サクラとサスケは無反応だ。

「イルカ先生、そりゃないですよー」
「また買えばいいじゃないですか。はい、サクラ。ダイエットは一休みな。サスケも食え、糖分は疲労回復に良いぞ。ナルト、カカシ先生にお礼、言えよ!」

 ひょいひょいひょい、と瞬く間に三本が減り、残ったのは三本。そのうちの二本も、イルカが取って、カカシに渡して残りは一本だ。

「イルカ先生〜…」
「はいはい、カカシ先生にも、はい。俺も一本もらいますね」
「うめー! カカシ先生、ありがとうだってばよ!」
「いただきまーす、カカシ先生」
「冷てぇ…」

 三者三様、そしてカカシもしょんぼりとしつつも、水色の爽やかなアイスバーを、それなりに嬉しそうに見ている。その様子に、ちくりとイルカに罪悪感が沸いた。ちょっと可哀相なことをしたかもしれない。

「じゃあお前ら、気ぃ付けて帰れよ!」
「はーい、だってばよ! じゃーな、イルカ先生、カカシ先生!」
「さよならー!」
「それじゃ…」

 台風一過。騒々しさの目があっというまに通りを去っていって、イルカはカカシを見返った。すると、口布を下げて、嬉しそうにアイスを齧っていた。
買ったときほどではないが、少し幸せそうだ。イルカも手にもっていたアイスに、ぱくりと食いついた。色味と同じ、水色の爽やかな甘味が舌にすっと広がる。

「カカシ先生、美味しいですか?」
「はい〜、美味しいです」

 本数が減ったことは置いておいて、とりあえず食べていることが嬉しいようだ。イルカは笑って、そして自分の罪悪感をアイスのように溶かしてしまうことにした。

「アイスで思い出したんですけど、カカシ先生」
「はい?」
「帰り道にたしか新しい洋菓子屋ができてたでしょう、このあいだ」
「えぇと、そうでしたっけ」
「ええ。アカデミーで評判になってるんですよ。美味しいって。あと、珍しいものもおいてるんです」
「珍しいもの? なんですか?」
「なんでも、アイスクリームで出来たケーキらしいです」

 ぴく、とカカシの耳が立った気がした。普段なら甘いものは苦手だが、冷たいものは、今はそれなりに好物なカカシだ。

「ソーダ味のはまた今度にして、減ったアイスの代わりでもないですけど、それ、買って帰りましょうか」
「ほんとですか!? わ、アイスのケーキなんて俺、食べたことないです! 嬉しいです、イルカ先生大好き!」
「そんなに喜ばなくても―――」

 言いながら、頬が緩んでしまうイルカだった。こんなに素直に喜んでもらうと、やっぱり嬉しい。
 やったー、とにこにこしているカカシを見て、言って良かったと思って、一緒に喜んだ。







*****







 そうして家に帰ったときには、日は山あいに近づきつつあって、夕方の匂いがしていた。
イルカはとりあえずアイスとケーキを冷凍庫に押し込め、魚を冷蔵庫へ入れる。
 残暑の日は、まだ明るく、家の中はやんわりと明るい。もう少し経ち、日が山向こうで光るようになれば、明かりが家々に灯り始めるだろう。

「イルカ先生、俺、風呂掃除してます〜」
「はい、お願いします。じゃあ俺は茄子、焼いてますから、洗濯物、片付けておいてくださいね」
「はーい」

 家事労働は分担。二人で過ごすようになってから、こうやって会話したことなど数えられないほどあったが、いつもくすぐったいような気持ちになる。
 狭い台所で、もらった茄子を軽く洗って、網をコンロに置いてその上で焼く。ちりちりと焦げるように火を調節して。あとの茄子も洗って、それからビールはもう冷やしてあるものが有るから、あとは…。

「イルカ先生〜、俺、茄子の味噌汁も飲みたいです〜」

 風呂場からだろう、声がぼんやり響いて、今日でいちばんの間延びした声に聞こえた。イルカは思わず笑ってしまって、はいはい、と返事をする。

「それで、頂いた松茸、どうしましょう。カカシ先生、なにか良い食べ方知ってます?」

 水音とスポンジのこする音がきこえる風呂場へ訊くと、しばらくして返事が聞こえた。

「知りません〜」

 待ったわりには甲斐の無い返事だった。
イルカはちりちりと茄子が焼けるのを横目で睨みながら、悩んでしまった。やはりここは真っ当に直焼きか。というよりもそれ以外の調理法を思いつかない。どうしようどうしようと腕組していると、また声。

「でもキノコはやっぱり茶碗蒸しですよね〜」
「…キノコ…まぁキノコですけど」

 呟いて苦笑。まぁ良いかと思う。あいにくと作るのは初めての品目だが、失敗してもご愛嬌だ。
なにせ、続いてカカシの声が響いてきて、こんなことを言っていたから。

「でも俺の楽しみは、飯のあとのアイスのケーキ〜」

 まるで歌っているかのようなご機嫌さだ。
 風呂掃除をしながら、そこまで上機嫌な上忍というのも、広い里のなかを探したって、ここにしか居ないだろう。
 さて、麻婆茄子の準備でもしようかな、と気合を入れながら、ふと目についた日めくりカレンダー。どうも、ここ二三日、不精がたたってめくっていなかったようで、日付が一昨日のままだ。イルカはまな板を取るついでに手を伸ばし、カレンダーをびりっとめくったのだった。


 そして今日の日付は、九月の十五日。









「あ」

 という声が聞こえて、イルカはそちらを見やった。ようやく料理は最後の秋刀魚にとりかかったところで、カカシはというと首尾よく風呂掃除も洗濯物もベッドの布団カバーも完了したところだった。 そして冷蔵庫の冷えたビールを出そうとして、先ほどの声。
 冷蔵庫脇にかけてあるカレンダーを見て声を上げた気がしたが、イルカが

「どうしたんですか」

と聞いても、いえ別に〜、と答えていた。

「そうなんですか? そうだ、カカシさん、皿、出してください。もうすぐ焼けます」
「はーい。うわー、美味そう! 良い匂い! ちゃんと茄子の味噌汁もありますね〜」
「味は保証しませんけどね」
「イルカ先生が作ってくれるのは、なんでも美味しいです」

 へにゃ、とカカシの顔が崩れる。子供のような素直な表情で、おもわずイルカの頬がそまって、慌ててそっぽを向いた。
 カカシが差し出した皿を、もごもごと受け取ると、カカシはテーブルに先に着いて、イルカのほうを見た。あんまりじーっと見てきて、気になるほど。

「―――…なんですか、俺の背中、おもしろいですか」
「いやー、そんなことはないですけど」

 じゃあやめて欲しいな、照れるし。とまだ火照っている頬を思いつつ、秋刀魚を睨んだ。
 良い匂いが、ぱちぱち爆ぜる音といっしょに、部屋に満ちている。きっとイルカの家の外まで、この香ばしい匂いは漂っているだろう。茄子の味噌汁や、夕暮れの空の匂いと共に。
 カカシが、ぷしゅっとビールのプルタブを引いた音が後ろで聞こえた。

「カカシ先生、ずるい! 俺にも一口!」
「まだ飲んでませんよ〜。焼けるの待ってまーす」
「待っててくださいね!」
「はーい!」

 ぱちぱち、とこんがりした匂い。
 焦げた表面の皮がぷっくりと盛り上がって、見た目にも美味しそうになって。イルカは、頃合を見計らって、秋刀魚を二匹、それぞれ皿に持った。

「出来ましたよ」

 振り向くとカカシがやっぱり、イルカを見ていた。

「いったいどう―――」

 照れくさくて、それを隠そうと口を開きかけたイルカの言葉を、カカシが上から被せて言った。

「俺ね」
「はい―――?」

 そして花のようにほころんだ笑顔。

「今日みたいな一日があるなら、生きてんのも悪くないもんだなぁって思いました、今」
「―――は?」

 どうしたんですかいきなり。
 ふいのカカシの台詞にイルカは瞬いて、そう言った。
 いきなりでびっくりした。
 けれどカカシは変わらずに、今日のなかで一番、綺麗で嬉しげな笑顔を見せていて、イルカは言葉を失う。
 そして今日一日のことを思い出して、首を傾げた。

「今日って…暑いのに振り回されて嫌だったでしょう?」
「えへへー。でも自転車に乗って楽しかったよ」
「まぁ行くついでだったし」
「用務員のおじさんに茄子もらったし」
「そのあと松茸ももらえて、すごく得しましたね」
「アイスクリームも買えたし」
「それはナルトたちにやっちゃいましたが」
「でも美味そうにしてたし、そのあと俺はアイスのケーキを買ってもらえました」
「まぁそれは…珍しかったし」
「イルカ先生優しいし、おばさんからもお礼言われました」
「そりゃ、届け物しましたからね」
「えへへー」

 にこにことカカシは笑う。イルカは皿をテーブルに置いて、自分も席に着く。カカシが、イルカの分の缶ビールを差し出してくれた。そしてまた、ほころぶ顔。


「――― 今日は、良い日でした」


 ビールをもらって、プルタブを引きながら、特に反論はしないでおいた。
 いつもの、残夏の暑い、普通の日だった気がするが。

「今日みたいな日があるなら、俺がここで生きてても良いね、そんな気がしたよ。イルカ先生、俺を連れ出してくれてありがとう」
「な…」

 おもわず、大きな声がでた。

「あったりまえです! カカシ先生は生きてても良いし、ここに居ても良いし、俺は嬉しいし、それにあなたを連れ出すのも、一緒に買い物にいくのも、それから自転車に乗ったら楽しいし気持ちいのは、あったりまえなんです!」

 えへへ、と変わらず笑う顔。その表情が緩みっぱなしの蛇口のようで、イルカはもう少し、付け足した。頬が、また火照ってくるようだった。

「―――自転車にまた乗りたいなら、乗せてあげますから」
「うん、ありがとうございます」

 とても大切な声音でカカシがそう言って、イルカは理由は分からないにせよ、いっそう照れた。

「さあ、冷めますから食べましょう、カカシ先生」
「はい」

 そして、頬をすこし赤くしたイルカと、蕩けそうな笑顔のカカシが、べこん、と缶ビールを合わせて。
 幸せな、秋の食卓。
 二人で過ごす、なんでもない普通の、――――特別な日。

「いただきまーす」

 そうして秋刀魚をひとくち食べてビールを飲み、カカシは幸せに笑ったのだった。






二〇〇四 夏    空太

Illustration by うれしい楽しい大好き さま/ユキエさま
Word by 空太
     後書