教育への国家支配の完成
兵庫県では、20年ほど前から、当局が教育現場へ「日の丸」・「君が代」を強制しはじめた。職員会議の補助機関化、校長の職務権限の強化がまずあり、「日の丸」・「君が代」は、法制化とともに、「国旗」「国歌」として公然化した。
学校現場ではかつて激しく「日の丸」「君が代」に対する反対運動があったが、現在は沈黙化している。「日の丸」「君が代」に反対することがどういう意味を持つのか知らない、あるいは、考えない教員も多くなっている。
このような現状では、「日の丸」「君が代」の強制に反対する取り組みが精一杯である。詳しくは、このHPの<教育の国家統制>の完成をよんでもらえばよく分かると思う。
そのような時、朝日新聞の声の欄で以下の投書を見た。すがすがしく、教育現場であきらめに似た感情で過ごしてきた教員に対し、強く反省を求められているような気がした。
<以下引用>
「君が代の強制改めて説明を」
I・Tさん(兵庫県川西市75歳)
毎年、卒業式と入学式の時期が来ると、憤りと嫌な気分でいっばいになる。
戦前の教育を受けた私は、「忠君愛国、滅私奉公」の精神を徹底的に身につけた愛国青年だった。毎朝の始まりは奉安殿礼拝、日の丸掲揚と君が代斉唱、教育勅語奉読から。修身と国史の教育によって完全に個人の人格は抜き取られ、天皇・国家のために「死は鴻毛より軽い」と信じる機械のような人間にされた。
岡山の旧制中学校の同級生6人は、予科練と少年航空兵として出征した。見送りの時、日の丸の旗を肩にかけ、皆で君が代と「海行かば」を歌い、「靖国神杜で会おう」と誓い合った。うち4人が沖縄などで特攻死した。学徒動員された私は、造船工場で人間魚雷の部品を作った。戦後、現在の憲法、教育基本法の精神や真理に触れ、やっと「人間」に復帰できた。
教育とは豊かな人間性と人間尊厳の精神を身につけ、主権者を育てる場だ。しかし、今、教育現場でしている日の丸・君が代の強制は常軌を逸している。戦前の国家による教育支配の怖さを体験しているだけに黙視できない。
教育の場にそぐわない職務命令まで出して、なぜ卒業式や入学式で日の丸・君が代を強制するのか。子どもや保護者らが納得のいく説明を文部科学省や各教育委員会に改めてお願いしたい。
(朝日新聞2004/02/12)
<引用終わり>
教育改革の問題点(階級社会の成立)
社会における階層差の拡大
小泉首相になってからの特徴は、持てる者はますます豊に、持たざる者はますます貧しくということだろう。お金持ちには、相続税の最高税率を70%から50%に引き下げた。また、土地減税−譲渡益課税を現行の26%(地方税を含む)から20%に引き下げ。一方、「貧乏人」(所得の低い者)には、所得税のかかる最低年収である課税最低限の引き下げ。今後、配偶者特別控除の廃止、老人の控除を廃止するなども行われる予定だ。住民税の均等割を引き上げ、住民税を10%に統一し、所得税(37%)の引き下げも含め、最高税率は47%以下になる。
太平洋戦争後の日本社会は、均質社会だった。お金持ち(所得の高い)は、所得税を75%払い、死亡すると相続税をやはり75%はらっていた。しかし、近年、所得税の最高税率が37%になり、アメリカよりお金持ち優遇といわれている。ついに、2003年から相続税の最高税率が50%になった。
教育における階層の拡大
苅谷剛彦の『教育改革の幻想』(ちくま新書)によれば、「『過度の受験競争』が子供のゆとりを奪っている、という問題把握を当然のこととして、教育改革を進めてきた点を確認したいのである」。受験競争、詰め込みは「悪」という認識の下、何の検証もせず情緒的に教育改革を行ってきたと述べている。
また、苅谷の「大衆教育社会のゆくえ」(中公新書)のいうように、日本の社会は、受験競争は激しかったが、合格すれば「社会的に生まれ変わる」ことが出来た。しかし、84年の中曽根首相の臨教審は、「個性重視」・「生きる力」・「ゆとり」・「新学力観」・「心の教育」・「規制緩和・弾力化」・「ニーズに応じた多様化」などの改革をスローガンに、学習暦社会への転換が謳われた。その結果、一部の階層に、教育改革は有利に働くことにならないか。教育改革を通じて階層分化が固定・維持されることになるのではないか。
確かに、高校教育改革が叫ばれる中で、昔の旧制高校のエリート教育を理想とする論を良く聞いた。しかし、旧制高校は戦前の階級社会の遺物で、特定の階層の子供しか進学できなかった。「違いを認める」ということは、階級の固定を認めるということだ。この20年間、「個性」重視、創造性や考える力を重視する「新学力観」などの教育改革で入試も多様化し、AO入試が多くなった。学力入試以外で入学する生徒が増えている。コネ入試もやりやすくなっている。
日本の学歴社会は。どのような出身階層の者にとっても、努力しさえすれば受験で成功し、高い学歴を得、それによって社会的に「生まれ変われる」チャンスが等しく開かれていた。さらに、学歴エリートは、文化的には自らを大衆から画する術を持たない、大衆の延長線上にある成功者とみなされた。
中曽根が階層社会を目指していたのか、文部省が、そのような意図を持って教育改革を行っていったのかわからない。しかし、教育改革の「学歴社会から学習暦社会へ」という流れは、均質な社会を破壊し階級社会を作っていくことになる。
戦後政治の総決算
中曽根は、11月の総選挙で85歳の高齢にもかかわらず出馬に積極的だった。「憲法改正をこの手で仕上げたい」といっていた。中曽根が種をまき小泉が刈り取る。問題なのは、自衛隊の問題だけではなく、日本の社会の変質である。戦後政治の総決算とは、憲法9条の問題だけではなく、戦前のような階級社会を作ることだったのだろうか。
(2004/01/06)
周年行事はもう禁止!
読売新聞2003/6/16夕刊によると、<大阪府東大阪市の市立八戸の里小学校(野田正明校長、四百四十二人)の創立五十周年記念事業が十一月に計画されているのを受け、同小が事業への協賛金を募る文書を児童を通じて全保護者に配布していたことが十六日、わかった。文書は「任意の募集」と断っているが「一口千円とし、できますれば三口以上」などと記されており、保護者の一部は「実質的な寄付の割り当て」と反発、同市教委も「好ましくない」として事実関係を調べている。>
<中略>
学校教育法や地方財政法では、公立小中学校の学校関連経費を保護者らに負担させることを原則、禁じている。このため周年記念事業なども、実行委の主催とし、校区住民やOBから寄付を集めることが多い。
それでも誤解を招く場合があるため、大阪市教委は▽寄付募集が予定されている場合主催者にその自粛を求める▽万一、募集する場合は計画段階で教育委員会と協議し、実質的なものだけでなく心理的にも強制しないよう配慮するなどを各学校に通知している。
東大阪市教委でも、校長会などで指導している。八戸の里小の場合も実行委形式を取っているが、校長の判断で寄付募集の文書を学校で配布し、「担任を通じて」「三口以上」など、割り当てと受け取られかねない文言もある。
取材に対し、野田校長は「配慮に欠ける面はあったが、地域の熱意に押されて文書を配った。事業の成功は児童、保護者のためにもなると説明。これに対し、「不況の中、家計に響くが、学校に頼まれたら断れない」「学校に寄付の有無や額をチェックされているような気がする」という保護者もいる。
東大阪市教委学校教育部は「周年記念事業は教育上どうしても必要な行事とは言えず、学校が児童を通じて寄付を募るのは問題があるとしている。
<引用終わり>
(読売新聞2003/6/16夕刊)
高校でも10年・20年・30年と必要のない周年行事を行っている。この記事のように実行委員会を作って行っているが職員の負担は大変だ。管理職が熱心にやっている。読売新聞の記事はこのような無駄な教育活動に警鐘を鳴らすもので評価できる。
それぞれの原点に戻ろう(原点主義)
なだ いなだ(精神科医、作家。慶應大学医学部卒業後フランス政府給費留学生として渡仏。帰国後慶應大学医学部神経科に入局。国立久里浜病院の日本初のアルコール依存病棟の初代の担当者になる)
なだ いなだ さんの講演を聞いて感銘を受けたのでその要約の一部を掲載します。
(要約)
長と名が付くと、管理的な仕事になり本来の仕事をしなくなる。それで、私は長というものにならないと決めた。ヒポクラテスの誓いは、ゴルフなどやっていてはいけないということ。しかし、みんな医者はゴルフをやっている。それより技術を磨くことが大事だ。
今までの教育は、出世を考えた教育。学力とは何であるのか。平均点・総合点、センター試験は無意味ではないか。孫が中学生でフランスにいる。孫の学校で「9・11」の黙祷があった。哲学教師の担任は、生徒に何のために祈ったか聞いた。自分は、狂牛病で殺された牛のために祈ったといった。このような場合、日本では、不真面目・不謹慎な教師と言うことで非難されるが。フランスでは非難されない。フランスの教師は強制されない。哲学の教師として忠実だ、考えさせることが仕事、そのためのことであるという理解。この教師は「9・11」に黙祷するのは何の意味かを考えさせた。広島は「9・11」の20倍の死者だ。黙祷は政治的な意味をもつ。対テロ戦争に全世界を参加せようとしている。それぞれの国で意味がある。
学力とは何かを考える人が少ない。内申書に平均点や総合点を書く。馬と羊とミミズを足して3で割っても平均点はでない。数学は3倍できるという評価が大切。数学者のガウスは、不真面目な先生に教えられた。その教師は、「1+2+3+・・・100」、1から100まで足したらいくつになるかという自習課題を出して自分の用事をしようと考えた。しかし、小学校1年生のガウスはその問題をすぐ解いた。それで、この生徒は僕が教えない方がいいと才能を認め、他の先生を紹介した。それでいいんじゃないか。
考えない人が国政の中枢に入っている。電話相談の番組を昔やっていた。子供の質問で、日本は民主主義国家なのに、どうして政治家の子供は政治家になるのかというのがあった。答えに困った。それで、制度は民主主義になったが、人の方の問題だと答えた。現在も状況は変わっていない、日本は変わっていない。
私は、やぶ医者。フランス語を勉強していたので、あまり医者の勉強をしなかった。かつ、当時国家試験はとてもやさしかったので医者になった。それで、医者としての自信がなかった。それで、山口先生という方に相談した。すると、名医は名人だ、誰でもがなれるわけではない。患者の99%は名医を必要にしない病気だ。医者の99%は名医でなくていい。患者は3種類。放っておいたら死ぬ患者。ほっといても治る患者。治りもしないし死にもしない患者。死にそうな患者を名医に送る。それでいい。それより患者と友達になれと言われた。
それで医者になり、日本で初めてのアル中の病棟の医者になった。それで、治療らしい治療はしないし、開放病棟をつくった。しかし、患者は逃げていかない。他の病院を何度も逃げ出した患者がいた。どうして逃げないのかと聞くと。何時でも逃げれる、自分を信頼してくれる病院だということだった。そのうちに、患者を一生つきあう人間と見るようになった。一生の物差しで物を見なければならない。医者は、病気を治すものではなくて、治らないところの患者を励ます。ほめる、人をおとしめるのではなくてほめる。子供たちを他人と比較する物差しでもってはかっていはいけない。
この病院で、忍耐を持ってつきあうことに気づき、勉強になった。春日天皇という患者がいた。毎年職員に紙のボーナスをくれる。ある日回診が終わると、私のポケットに5万と書いた紙切れが入っていた。若い看護婦さんが30万、婦長さんが10万とかいた紙切れをもらった。反対ではないのか。それで、その人に理由を聞くと、若い準看の看護婦さんは風邪を引いたときにご飯をお粥にしてくれた。水枕をしてくれた。とても親切にしてくれた。医者は薬を出すが効いたような気がしない。医者から見て確かに薬は効いている。しかし、薬で従順になっているだけで、病院にとっては管理しやすい状態になる薬だった。世間では、医者が30万、婦長が10万、准看の看護婦が5万だろう。春日天皇に日本全体の評価を聞いたように思う。物差しというのはたくさんある。
旧制高校で勉強した。学校教育とは何だったんだろうか。何か使ったことがあるだろうか。偏微分などというとても難しいことを勉強した。しかし、数学を使ったことはない。山口先生には医者になるとき、とりあえず学校で習ったことは忘れろといわれた。その通りで、今まで都合が悪かったことはなかった。忍耐力だけを使った。忍耐力があればできる。自分で自分を見つけるきっかけを与えてもらった。この忍耐力をどこで培ったか。大学でつまらない授業を我慢して受けたことだ。アルコール依存の病棟は、自分が初めてだれも教えてくれない。経験・情報を残していく仕事だった。内村鑑三の息子である東大教授に見てもらったことを自慢する患者がいた。名医に直せないものは私には直せない。アル中で家族を困らせないように死ぬのが一番幸せではないかといった。その患者は、出会ったとたんに悟ったといった。自分がしっかりしないといけないことをさとった。治してもらおうと考えていたけれど自分で治さなければならないと思った。患者が主体なのに、医者の責任にしていたと。同じようにこれは必要だといわれて勉強したけど役に立ったことはない。忘れがたい出会いを生じさせた人、先生が重要。
私の原点1.長にならない。2.やぶ医者になる。3.作家になる。作家は、反戦平和がきっかけ。朝鮮戦争があり反戦平和を伝えるノートを回したことが始まりで、政治運動のはしりだった。
(要約終わり)<2003/1/25奈良県100年会館>
ヤブ教師の極意〜教育基本法の見直し論議と教員評価制度について〜
なださんの講演を聞いて医者の仕事と教師の仕事は少し似ている部分があると思った。
医者には名医もいるがヤブ医者もいる。名医は100人に1人で、残り99人はヤブ医者だそうだ。誰もが名医になれないが、「いい」ヤブ医者にはなれる。その極意は、技術を磨くこと。そうすれば、腹下しだとか、食べ過ぎだとか、飲みすぎだとか、かぜひきだとか、そういう放っておいても死なないような人を名医に送らず、死にそうな患者を見分け名医に送ることができる。また、患者と友だちになること。死にもしないし、治りもしない患者を、励ましサポートすることができる。
また、東大教授に診てもらっても治らず「なだ」さんのところで治った人もいた。患者によっては、東大教授が良い場合もあり、「いい」ヤブ医者が良い場合もある。それぞれの人にあった医療がある。
さらに、患者さんにとっては薬を出してくれる医者よりも、氷枕を持ってきてくれる看護婦さんの方がありがたいこともある。世間の評価では、医者が高いが、患者にとっては別だ。
病気でも一人一人診察して、一人一人にあった薬を処方をするように、それぞれにあった教育をすべきなのに、同じ教育を全員にして、平均をとり、それにあわない人がいると尻を叩くばかりだったのではないだろうか。たくさんの人に一つの価値観を押し付けるような、そのような教育が明治以降ずっと続いて来た。出世主義の教育を止めるべきだろう。私たちの世の中にはたくさんの価値観がある。しかし私たちは、学歴社会で育っていくときそのたくさんの価値観というものを忘れてしまっている。
「いい」ヤブ教師の仕事は、才能のある子を見いだし、偉い先生に送ること。子供にはいろんな才能がある、一つのものさしで見ないこと。さらに、教育も、本人が主体的に治そう(勉強しよう)と考えなければダメだろう。教師は子供に考えさせることが仕事で、はげましサポートをすることが仕事。ヤブ教師は子供と友達になること、子供を一生付き合う人間として見ること。話の内容は以上のようなことではなかったか。
教育基本法を改悪して、「愛国心」を盛り込むとかいっているが、一つの価値観を押しつけることに他ならない。また、100人の教師のうち名人は1人だとすると、ほとんどがヤブ教師だ。人事考課制度を導入しヤブ教師を選別しようとしているが、ヤブ教師の中に子供の才能を発見し、子供が主体的に治ろうと自覚させる教師がいるのではないか。東京などのヤブ教師選別の物差し、評価制度はどこか間違っているのではないだろうか。国家主義というの物差しで統制しようとしているようにしか思えない。「いい」ヤブ教師が排除されてしまう可能性がある。(あ)
「国を愛する心情」を通知表で評価 福岡の小学校
福岡市で、ほぼ半数の市立小学校の通知表に「国を愛する心情」「日本人としての自覚」といった評価項目が設けられていることが分かり、論議を呼んでいる。通知表のモデルを作った同市校長会は「学習指導要領に沿った。問題はない」と説明しているが、「在日外国人の子どもに対する人権侵害だ」との批判が出ている。
通知表には教科ごとにいくつかの評価項目があり、それぞれ3段階で評価する。「国を愛する心情」などは、6年生の社会の4つの評価項目のうちの一つとして、今年初めて校長会のモデル版に盛られた。このモデルを使うかどうかは各校の判断だが、市内144校中52校が採用した。そのほかモデルをもとに十数校も盛り込んだ。(中略)
6年生の現指導要領には「我が国の歴史や伝統を大切にし、国を愛する心情を育てるようにする」などとある。校長会の中島紘昭会長は「公教育の基本理念。在日外国人がいる学校や学級は個別に対処すればいい」と語る。
<朝日新聞2002/11/30一部抜粋>
「国を愛する心情」の評価の観点を聞きたいものだ。どういう人がいい点をもらえるのだろうか。また、評価は可能なのだろうか。「日本人としての自覚」について、在日の外国人はどう評価されるのだろうか。国民の税金を私物化する政治家や官僚は、どんな評価が付くのだろう。思想信条など人の内心を評価するのは不可能だし、憲法19条(思想及び良心の自由)「思想及び良心の自由は,これを侵してはならない。」
に違反するのではないか。
中教審委員は金地院嵩伝にならないで!
梅原猛さんが朝日新聞で教育基本法の見直しに反対しておられました。
<引用開始>
愛国心喪失は政治家の責任(梅原猛)
中央教育審議会が教育基本法の見直しを目ざす中間報告を提出したという記事を読んで私は、かの方広寺の梵鐘に刻まれた「国家安康」の文字に、家康の首を断れば国は安泰だという意が秘められていると難癖をつけ、大阪城の外堀を埋めさせ、豊臣氏を滅亡に追い込んだ金地院崇伝の話を思い出した。
ここに平和憲法の外堀を埋めようという政治的意図があることは明白である。憲法改正は議会で3分の2の賛成を得なければならないので、容易にはできない。それでまず、教育基本法の改正を中教審に提案させようとするのであろう。
私は生まれつきへそ曲がりで、戦中は右翼に、戦後は左翼に抵抗し、そして権力によって抹殺された聖徳太子や柿本人麻呂の怨霊を復活させた人間であるが、今また孤影悄然として滅びを待っているかの如き豊臣秀頼ならぬ日本国憲法に同情を感じ、おっとり刀で大阪城にかけつけようとさえ思っている。
最近改めて教育基本法を精読,してみたが、その理念は立派であり、文章もけちをつけるところはほとんどない。改正論者がどんな教育理念をもっているかよく分からないが、森前首相の教育勅語を評価した発言のように、その精神を教育の理想としているのであろう。
改正論者は教育基本法に「伝統、文化の尊重」という理念が記されていないと難癖をつけるが、伝統、文化を尊重する精神が最も不足しているのは教育勅語である。私は50年にわたる研究と思索の結果、近代日本は廃仏毀釈によって成立し、その重いツケを今、日本人は払わされているという結論に達した。
廃仏毀釈は仏教の否定であるばかりか儒教や神道の否定でもある。江戸時代の儒教は主として朱子学であるが、朱子学には「格物致知」という科学的合理主義に通じる思想があり、神道には一木一草に神をみるエコロジーの思想がある。廃仏毀釈は二ーチエのいうよらに神殺しであり、その精神は明らかに教育勅語に受け継がれている。
教育勅語の精神は結局、天皇を唯一の神として、その神のために死ぬことを根本道徳とし、一切の道徳をこの根本道徳に従属させる精神であった。これはまさに日本人の精神を長い間培ってきた仏教、儒教、神道及びそれらに養われた伝統、文化の否定以外の何ものでもない。もしも教育基本法に伝統、文化を尊重する理念が記されていないといらならば、教育勅語こそ厳しく批判されねばなるまい。
国を愛する心が盛り込まれていないと強く主張するのは主に政治家であるという。10年ほど前、私はある自民党の長老議員に、今の議員には真に国や人類のためを思う利他の心があるかと聞いたとき、その長者は、そんな心はほとんどない、みな自利自利の塊だと答えた。その後、マスコミを賑わす政治家に関する話は収賄などのもっばら悪事の話であり、私はその長老議員の言葉は正しいと思わざるを得なかった。
政治家が国を悪くし、若者の愛国心を喪失せしめているのである。政治家が自らの悪徳に頬被りして、青少年に愛国の教育が必要だというのは本末転倒である。まず自らの姿勢を正さねばならない。
良識ある知識人の集まりである中教審のメンバーは、タヌキおやじの陰謀の片棒をかついで後世に悪名を残した金地院崇伝の二の舞いをすべきではないと私は思う。(朝日新聞2002/11/17)
<引用終わり>
国会議員は自利自利(国会議員のお手盛り)
今年度の国会議員歳費に人事院勧告(国家公務員給与の約2%削減)を反映させず、1割削減の継続などを定めた改正国会議員歳費法が20日の参院本会議で、与党3党と民主、共産、社民の各党などの賛成多数で可決、成立した。国会議員の歳費については、4月から1年間に限って1割削減を先行実施していることから、改正法は2003年3月までは勧告分を減額させない内容となっている。
<毎日新聞2002/11/20>
国会議員は自利自利だ!
教育基本法の内容、親の84%「知らぬ」
PTA全国協アンケート
中教審で改正に向けた審議が進む教育基本法について、小中学生の親の八四%が内容をよく知らないことが二十八日、日本PTA全国協議会(日P、赤田英博会長)のアンケ」トで分かった。
改正の是非についても「必要があるかどうか議論すべきだ」と回答した人が四五%、「分からない」が三四%おり、日Pは「ほとんどの人が明確な判断ができないでいる」とみている。
文部科学省は「見直しに当たり国民の関心が高まってほしいが、その前提として現行法の内容も知ってほしい」と話している。
五月から七月にかけ、小中学生の親である全国の会員六千人を対象に調査した。回答率は八○・五%。教育基本法の本文や内容を知っているか尋ねたところ「本文を見たことがなく内容もよく知らない」が四三%、「見たり聞いたりしたことはあるが内容はよく知らない」が四一%だった。「およその内容を記憶している」は一〇%にとどまった。
教育基本法を詳しく知っている人ほど改正の必要はないと考える人が多い。「およその内容を記憶している」とする層では「積極的に議論し見直すべきだ」が二一%で「見直す必要はない」の一四%を上回ったのに対し、「本文を熟読、内容もよく理解している」層は「見直し不要」(二四%)が「見直すべきだ」(一六%)を上回った。
<日経2002/10/29>
誰が教育基本法を見直そうと言っているでしょうか。
教育基本法を変えないで!(天声人語ほか)
教育基本法に「愛国心」「公共心」盛る 見直し素案判明
教育基本法の改正に向けた検討を続けてきた文部科学相の諮問機関・中央教育審議会(会長=鳥居泰彦・前慶応義塾長)がまとめた中間報告の素案の全容がわかった。「法の見直しを行うべきだ」とする結論を明示。公共心や道徳心、郷土や国を愛する心を基本理念に盛り込むことや、教員の使命感や責務、家庭の役割や責任を規定することを提言している。中教審が改正の必要性を明確に打ち出し、見直しの具体的な内容まで踏み込んだのは初めてだ。(中略)
素案では、まず基本法見直しの必要性を示し、その理由として、「現行法には、新しい時代を切り開くたくましい日本人を育成する観点から重要な教育の理念や原則が不十分だ」と説明。見直しの視点として6点を明示した。
その一つに「『公』に関する国民共通の規範の再構築」をあげ、「国や社会など『公』に主体的に参画する意識や態度を養うこと」▽「日本人のアイデンティティー(伝統、文化を尊重し、郷土や国を愛する心)を持つこと」が重要と位置づけた。
そのうえで具体的な見直しの方向に言及し、▽普遍的な理念は尊重しながら、新しい基本法はどうあるべきかという視点から見直す▽現行憲法を前提として見直すとの原則を説明。「個人の能力の伸長」や「公共心、道徳心、規範意識」「伝統、文化の尊重、郷土や国を愛する心」などを盛り込むべき理念として列記している。
さらに、指導力不足の教員の問題にも触れ、教員の使命感や責務を明確に規定することが適当と提案。過干渉・過保護や児童虐待などの問題に絡んで家庭の果たすべき役割や責任について新たに規定することも適当とした。
宗教教育については、異文化理解や宗教に関する知識が必要といった意見を並べるにとどめ、改正の方向性にまでは踏み込まなかった。
基本法は47年の制定以来、一度も改正されたことはない。首相の私的諮問機関だった教育改革国民会議が一昨年の最終報告で見直しの必要性を打ち出し、それを受けて昨年11月、遠山敦子文科相が中教審に、教育振興基本計画の策定とともに諮問していた。
(朝日新聞2002/10/17)
《天声人語》 10月19日
愛国心という言葉が教育をめぐって語られるとき思い浮かべるのは、1世紀少し前の内村鑑三の言葉だ。「義務として愛国を呼称するの国民は愛国心を失いつつある国民なり」(『基督信徒のなぐさめ』)。
教育基本法改正をめぐって中央教育審議会が「愛国心」や「愛郷心」を盛り込んだ素案を示した。法律に盛り込むことは内村のいう「義務として」の愛国ということだろう。内村も愛国心を否定しはしない。ただ、それは自然に発達するもので、わざわざ「養成」するものではない、と。
拉致被害者が帰郷した場面をテレビなどで見ていて、その素直な感情表現に心打たれた。抑えていた望郷の念が一気にあふれ出たようだ。愛郷心というのか、この感情はごく自然のものだろう。法律で説かれるまでもなく。
北朝鮮では、被害者らは皆あちら流の「愛国教育」を受けたのではないか。そして故郷を思う気持ちをいったん心の奥深く閉じ込める必要があったかもしれない。しかし、とうてい消し去ることはできなかった。
イラクでは、フセイン大統領が信任投票で100%の支持を得たという。表向きは驚くべき「愛国」の表現だが、数字をそのまま受け取るわけにはいかないだろう。この時期、反米感情などが愛国心を盛り上げたことがあったにせよ、反対派が存在しない100%という数字は異常だ。
もう一度内村の言葉を引けば「愛国の空言喧(かまびす)しくして愛国の実跡(じっせき)を絶つに至る」。つまり「愛国」の言葉が飛び交い始めるときが危ない。どこの国にもいえることだろう。
(朝日新聞2002/10/19)
外務省解体大賛成
機密費の使い込み、口利きによる収賄など、外務省のみならず、自分よがりの私腹を肥やすことで、国会議員も責務をすっかり忘れている。それに加え毎月のように衛星放送で報じられる日本企業の不正、隠匿、ぱれなけれぱ良い、臭い物には蓋をして封じ込める。いったいどうなっているのか。日本人は正直で勤勉で世界的に信頼されている国民ではなかったのか。
日本を離れ二十年。日本の島国根性が嫌いで外国に出て、外からの日本の良さも随分見直した。ところが今はどうだろう。日本人であるという事すら恥ずかしい思いだ。外国に住むと多かれ少なかれ政府機関外務省と関わりを持つ。私の住む土地の前任者の総領事は、ほとんど毎週有名人や友人など自分の好みで招待して国費を私物化していたと聞く。
得意気にローカル紙に自分の自慢話を長々と綴ったり、帰任前には自分の功績を称えろとばかりにローカル紙見開きニページに書かれた文面は、うんざりするもので、そこには自慢はあっても国家公務員としての当然の責務を果たしたという謙虚さは微塵も感じられない。また、外交旅券を乱用して不正な運搬をしたり、不祥事に反省の色はない。さらに年一回の日本フェスティバルにキャッチフレーズりのお揃いジャンパーを作って無駄金使い。
日本の政治の鍵を握る議員たちの意識向上がない限り、被選挙権のない在外選挙への期待も無に終わろう。テロ以来、総領事館も緊急体制を取っているように見せかけ、連絡網を作ったり予行演習もしてみたがそれっきり。二十四時間つながるはずの携帯電話もすぐにつながった試しが無い。本当に国民の為に働いているのか、不信感は募るばかりだ。
(オーストラリア在住匿名希望52)
<噂の真相11月号>
初公開!これが傲慢外交官たちの[バカ高給料]手当全リストだ
SAPIO11/13号では、「初公開!これが傲慢外交官たちの『バカ高給料』手当全リストだ」という特集があった。これによると、大使級で基本給の他70万ぐらい在勤基本手当がある。大使は公邸及びメイドなどが付き生活費がほとんどかからない。大使以外は「住居手当」がこれまた在勤基本手当ぐらい出るので結局給料の3倍ぐらいの収入となる。
田中アジア太平洋局長はサンフランシスコ総領事となった翌年目黒区に豪邸を新築した。「『大使を3年やれば家が建つ』というのは本当だった。これでは拉致家族の心情など理解できるはずがない。」
この他に機密費のキックバックもあるようだ。まさに至れり尽くせりだ。
<SAPIO11/13号>
外務省裏金、公表の倍、3億4000万円、会計検査院の検査で判明
外務省がホテル代を水増しするなどしてプールしていた裏金の総額は約三億四千万円と、これまでの同省の公表額の二倍以上になることが六日までの会計検査院の検査で分かった。同省は昨年十一月、職員の懇親会費などに使った裏金の総額は,昨年までの約七年間で約一億六千万円だったと公表していた。
検査院が改めて帳簿類を調べた結果判明したもので、部署や日付がはっきりしない六千万円を除く二億八千万円について、近く同省に返還を求める方針。外務省によると、公表済みの約一億六千万円については、今年三月に既に返還している。
外務省の裏金問題をめぐっては、課長補佐二人が詐欺罪に問われ有罪判決を受けたほか、総領事館の領事二人が懲戒免職、野上義二前事務次官ら三百二十八人の職員が処分された。
外務省総務課の話 検査院から正式な検査報告を受けていないので、現時点ではコメントを差し控える。
<日経新聞2002/11/5>
ODA
日本のODAは、ここ10年間世界の国のなかでトップだ。DAC(先進国)主要国の表を見て分かるとおりダントツだ。給料を減らされ、リストラにあい路頭に迷っているサラリーマンの諸兄にどうして回せないのだろう。また、この金が外務省の職員の利権にまわっていると思うと許せない。下図は、1995年の数値である。
教育基本法に「愛国心」や「公共心」を盛り込むことを中教審が考えているらしい。中教審が考えているのではなくて、自民党などがそう考えているようである。「愛国心」などという前に、政党や外務省などは、湯水のごとく国民の税金を自分たちの為に使うのを止めてもらいたい。
まず、政治家や国家公務員が「愛国心」や「公共心」を持ってもらいたい。北朝鮮やイラクをみるまでもなく、大日本帝国では、国民はとても「愛国心」・「公共心」を持っていた。その結果、政府の決めたことに逆らえなかった。従順であった。
国民に教育で「愛国心」や「公共心」を注入すると言うことは、お上のすることに国民は口を出すなということだ。それを隠すために「愛国心」・「公共心」を言い出したのだろう。