ネコとわたし

                                                            木村 敏子

 小雪が花びらのように舞う二月のある日、玄関の脇の植え込みの下に彼女はうずくまっていた。夫は「こいつ怪我しているぞ」といった。私は「難儀やなー、もう生ものは当分飼いたくないのよ、やっとリラン()の看取りが済んだところなのに。なんとしても追い払わなければ。今おばあちゃんに手がかかるし」。私は何回もほうきで植え込みから追い出した。すると彼女はニャーと言いながら逃げるのだが、いつの間にか元の場所に戻っていた。背中の大きな傷は赤くただれ痛々しかった。私はほうきを持つ手に自責の念を感じはじめた。もし私がこの立場で誰かの家にたどり着いて門前払いを受けたとしたら。気持ちが緩んだ瞬間彼女としっかり目が合ってしまったのだ。夫は、「傷が治るまで餌をあげるだけや」と自分の食事の一部を「ホレ」と投げてやっていた。

 私はそう簡単に受け入れられなかった。まずこの傷をどうしたものか、そして雌だからその時期にはたくさん雄猫がやってくるだろう。こんなひ弱な猫はまたやられるだろう。近所からは餌をやっていることをとがめられるかも。そして子供を産んだらどうすればいいんだろう。悩みは尽きなかった。

 餌と縁の下に寝ぐらができた彼女はすっかり落ち着いて、私たちを信頼してきた。その容姿は、毛並みは白地でしっぽは茶色の縞、縞、左の頭には黒と茶色のリボンをつけていた。性格はおとなしく、動きはまるでコアラのようにゆっくりだった。どこか淋しい影を背負った少女のようでもあった。人に馴染みを感じさせる可愛らしい声で話しかけるのだった。もうすでに我が家の一部に住み着いていた。名前がないと呼びにくい。椿の木の下に居たから「つばき」はどうか、しかし呼びにくい。「リボン」は・・、とうとう月並みな「しろ」と決定、以前はなんて呼ばれていたのだろうなどと思いながら、家族は「しろ」と呼び始めた。

 「しろ」はなついて触れるようになった。私は依然として治らない背中の傷を何とかしてあげたいと捕まえては薬を塗ったりしていたが、かさぶたが出来てくると自分でなめて取ってしまい、一向になおらなかった。

そんな時、2、3頭もの雄ネコが「しろ」を狙い始めた。野良猫として勝ち残っている雄猫の姿にはすごみがある。いかにも野性的で襲いかからんばかりの勢いですさまじいおたけびをあげてやってくる。このわたしでもたじたじする。わたしは何とか「しろ」を守らねばと気負い、時間のある限り近づく野良猫に石をぶつけた。当の「しろ」は身体をこすりつけてのどを鳴らしたりしている。それしか考えていない猫たちと私が昼も夜も渡り合えるはずもなく、アホらしくなってとうとう私の方が諦めてしまった。

「しろ」が我が家にやって来て、すでに半年が経とうとしていた。梅雨に入り、いよいよ傷も膿んできた。その頃、お腹がなんとなく大きくなり、妊娠しているようだった。しかし依然として傷は治らず、自分でもどうしようもないらしくたまらない顔で私に訴えた。いつの間にかお腹もへこんでいた。流産したのか、傷の痛みに耐えかねて子育てどころではなくて放置したのか・・。私はこのときほど「しろ」がふびんに感じたことはなかった。時は8月、テレビでは広島の原爆記念番組が多く報道されていた。ケロイド状になった体をひきずった妊婦と「しろ」が重なった。しかしこの治療をするために病院に連れて行けばざっと五万円は下らない。年金生活でそれは・・・と現実に戻る。

しかし、帰郷した娘は躊躇なく病院に連れて行った。そこから「しろ」との新たな付き合いが始まったのだ

手術、点滴、入院。人並みの治療が始まった。連れて行ったからには、治療は止められない。私は、この子は野良猫なんです。などと言って治療費をなんとか負けて貰おうとした。先生もそんな事情なら出来るだけと協力をしてくれた。そしてその後の飼いかたの説明に入った。

通院して様子をみること。猫エイズにかかっているらしい。寄生虫もわいていること、避妊手術も必要、その補助制度もあると。飼う条件としては、家の中が望ましいこと。聞いている私の顔は引きつった。
「えっ、野良猫を家の中で?それは出来ません。介護している年寄りもいるから毛が飛ぶし、家の中が汚くなるし、もういきものを飼う余裕はないんです」。若い先生はたじたじしながら「それでは里親を探すとか、この子は性格もいいし」。私は間髪を入れず、「こんな大きな傷と病気持ちの猫を誰が・・・そんなら、私が飼います」。なんのことはない、自分の言い訳を自分で打ち消し、「里親を探す」の一言であっさりと受け入れたのだった。

それから空いている娘の部屋にベットとトイレを設置し、缶詰の餌を用意し、生活を共にすることになった。

一緒に暮らしてみると表情や泣き声でだいたい言っていることが分ってきた。どちらかといえば認知症の母よりも「しろ」の方が気持ちが通じた。「もう病院に行きたくない」と言ったり、「つらいよう」、とか、「なでなでして」とか、面白いのは、私が母のトイレ介助をしていると決まって出てきて終わるまで真剣な顔でニャーニャー鳴き続けるのである。私がお婆ちゃんと取っ組み合いの喧嘩をしているとでも思って心配しているのか。とにかく猫にしては気遣いをして遠慮ぶかくて、甘えたで私が言っている事がわかる賢さがある。こうなるともう私のお金の計算は何処かへ飛んでいってしまった。

人間は自分たちが一番優れた生物だと勘違いをして、他の生物を間違った支配をし、人間社会しか生きられないほど生物の生態を変えてしまった。一度受け入れたペットは溺愛され過保護の為に人間と同じ病気になって苦しんで病院は賑わっている。

私もこの度はこんな小さな生物がこんなに一生懸命生きようとしている姿に遭遇し、図らずも今風のペットとして生活を共にすることになってしまった。

しかし、猫は人と全く同じではない。細かい事を言えば、私たち人は昼間活動し、夜は寝る。しかし「しろ」と母(昼夜逆転症状)は午後十一時ごろから活動が始まる。母が足で壁をトントン、その反応で「しろ」がニャーニャー。もしここに我々老夫婦が加わってピーヒャララと笛でも吹けば、立派な「ブレーメンの音楽隊もどき」が成り立つ。

人間と動物が、いや、人間どおしでも複数が一つ屋根の下で暮らすには、成り行きだけではうまく行かない。

認知症の母と定年後の夫婦と野良猫から箱入り娘に転身した「しろ」が日々穏やかに暮らすには、工夫と歩み寄り、それぞれの役割が必要だ。母は介護スタッフに愛され、楽しく在宅ケアを続けているという立派なモデルである。言葉は通じなくてもそれぞれに個性ある心を持っている。「しろ」はもう我が家の一員として立派にその役割を担いはじめている。

「しろちゃん、今日ね、友達が入院したの。あんたは背中だけどその人はお腹なの心配だね」。「にゃー」。「おばあちゃん風呂に入れるのしんどいよー、あんたの手じゃ役にもたたないしねー」。「フニャー」。「今日はね、嬉しい事があったの聞いて!」。「ニャーオ!」というように、それは私の愚痴をこぼす相手として、また心の慰めとなっていることだ。

こうして、「しろ」と私たちは、家族となって、これからもずっと一緒に暮らすことになるだろう。

                                        おわり

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