伊東貴之 著


  駅裏にある馴染みの居酒屋の暖簾をくぐって外に出ると、雪の降らないこの地方でも11月の風は頬に冷たい。 
 浜崎健介は目の奥に一瞬軽い鈍痛を感じたが、 疲れが少し溜まったのだろうぐらいに思いながら、高架下の細いガ−ドを抜けて、駅の正面に出た。大きなロ−タリ−の中央に、新しい市に相応しい斬新な赤銅色のオブジェが、暗い空に手を延ばすような形で立っている。ロ−タリ−の周囲には洋品雑貨の店、フア−ストフ−ド店、ドラッグストア−などが並び、明るい 光りを通行人に投げ掛けている。
 
 浜崎は明日の朝食用の薄切りハムとパンと牛乳を買うためにコンビニに立ち寄った。ここ数日は熱いコ−ヒ−だけで済ませることが多かったので、久し振りにまともな食事がしたいという衝動にかられたからである。
 店を出ると、遠くで季節はずれの雷鳴が響いた。彼は雨粒が落ちてくるまでに自宅に着こうと足を速める。道路の両側には今は葉を落とした花水木が行儀よく並んでいる。店舗が切れるあたりからは、白やクリ−ム色の洒落たマンションが続く。
 
 徒歩約六分、少し目立つ淡いレンガ色のマンションの五階に、浜崎の自宅がある。彼は二年前に通勤に便利なこの新興都市に引っ越して来た。その一年前に一 歳年下の妻の敏子が54歳で亡くなった。大腸癌の多臓器転移であった。それまで妻に任せていた自宅のメンテナンスにまで手が廻らないことに気付き、長年 住み慣れていた郊外の、庭のある一戸建ての家を処分した。
 
 浜崎には結婚して隣の県に住んでいる、一人娘の洋子がいるが、彼女が結婚してからは交流がない。だから彼は定年後も一人で気儘に生活の出来そうな、駅からも近い便利なこの場所を選んだのである。
 彼は転居してしばらくは、近くのス−パ−で食材を買ってきて、自分で料理を作ることが多かった。ところが彼の勤める中堅の家電メ−カ−も、不況の波に揉まれて業績は思わしくなく、リストラを免れた者へのしわ寄せは厳しくなった。技術開発の部長職にある彼ですら、帰宅の遅くなる日が続き、夕食は居酒屋に寄って済ませることが多くなっていた。
 
 彼がマンションに着くと同時に、激しい雨が夏の夕立のように降り出した。慌ててエレベ−タ−に乗り、五階で降りると、鍵を開けて無人の暗い部屋に入り、 風を通していた窓を閉めた。黴臭い冷気が頬を撫でて通り過ぎる。酔っている身に、この時だけは人恋しさが募る。
 一人暮らしも三年目になると、日々の生活のリズムも自分を中心に廻り出す。いつものように冷蔵庫からミネラルウオ−タ−のペットボトルを取り出すと、コップ二杯を続けて飲み干す。今夜のように酒量が多かった日は、余分にもう一杯飲むことにしている。
 
 次に風呂に湯を入れ、その間に着心地の良いトレ−ナ−に着替える。またすぐに脱がなければならないのに、一度は身を整えるのも彼の日頃の習慣である。
 バスタブに適量の湯が入ったことを知らせるタイムウオッチのベルが鳴る。それを合図に再び脱衣して浴室に入り、ゆっくり湯船につかる。温度は42度、 少し熱い目の湯に浸かって時を忘れ、じっと瞑想に耽る。全てが何時もの行程である。酔っぱらって入浴するのは危険だと同僚に忠告されたが、それを無視して ほぼ毎晩、たとえ日付は翌日になっていても、趣味のようなこの楽しみを満喫していた。
 
 しかし今夜に限って体調がおかしいのに気付き、急いで浴槽から上がる。不快な頭重感が彼の頭全体を覆い、いつもは耳の底にある低音の耳鳴りが、今は高音で騒がしい。鏡に写った自身の顔が歪に見える。
 次の瞬間、赤い雨が目前に降り注ぎ、片方の目に霧が懸かったように何も見えなくなった。驚いて手を左右の目に順にかざしてみる。右目でははっきり見える 物が、左では霞んでぼんやりしている。彼は左目だけで周囲を見回した。視力が次第に消失して行くのを悟った。
 
 どうしたのだ? 原因は全く分からない。
 不安が脳裏をよぎる。激しい眩暈と耳鳴りが、地震の前兆のように彼の全身に襲いかかってきた。
 震える手で衣服を纏うと、水道水をコップに三杯立て続けに飲む。少し眩暈が楽になった。診察を受けている沖田義博医師に電話を掛けるが、受話器には呼び出し音が、寂しく跳ね返ってくるだけで応答がない。時計を見ると、11時を過ぎている。
 
 一人娘の洋子への連絡を考えたが、躊躇した。
 藤本敬二の顔が浮かんだ。高校時代からの親友の内科の医師である。慌てて電話帳を繰って番号を確かめると、祈るような気持ちでダイヤルを押す。
 暫く待つ、「藤本です」女性の声がした。
「親友の浜崎です。敬二君はおられますか?」
「お待ち下さい。繋ぎますから」
 
 半ば、救われた気分になって彼の声を期待する。
「浜崎か。こんなに遅くどうしたんだ?」
 いつもの大きな明るい声が闇から響いた。やっと安堵の気持ちが浜崎の胸に拡がった。
「左目が見えなくなったんだ。さっき風呂から上がった直後からだ」
「左目が見えないって? もう少し詳しく話してくれ」 浜崎は今夜、居酒屋に寄ってから、自宅に帰って風呂に入るまでの経緯と、今の病状を簡潔に藤本に話 した。 
 「それはいかん。失明するぞ! 僕の方では今夜の眼科の救急を受ける病院は分からないから、すぐ救急車を呼んで、眼科の救急病院へ搬送してもらえ よ!」
「分かった。それで目は見えるようになるのか?」
「それは何とも言えないが、早い方がいい」
 浜崎は藤本に礼を言うと、すぐに119番に掛けた。
 
 救急車が来るまでに、入院になることも考えて、着替えと洗面道具、携帯電話をバッグに詰め込んで、サイレンの近づくのを待った。見える方の右目で窓の外を見ると、雨はすでに止んだようである。
 
 丸顔で縁なしの眼鏡を掛けた若い当直の医師が、眼底鏡で浜崎の左右の目を丁寧に覗いた。電灯が消された暗室の中で、医師が看護師に指図する声と、器具の触れ合う音だけが浜崎の耳に入ってくる。白く明るい光りが時々彼の目の中を通り過ぎる。
 
 短い時間であったのかも知れないが、入り交じる不安の中で、それは彼には途轍も無く長い時であった。
「電気を点けてくれ」やっと医師のことばが聞こえ、狭い部屋に光りが戻った。
「浜崎さん、左目にかなり広範囲の眼底出血が見られます。右目の出血は少ないようなので、こちらは回復するだろうと思います」「眼底出血ですか。治りますか?」
 浜崎は哀願するように、医師の顔に向かって問うた。「治療をしてみなければ分かりません。少なくとも二ヵ所に大きな出血がありますからね。とにかく今夜は入院が必要です。空室があるか、すぐ部屋を探しますので、ご家族にそう連絡しておいて下さい」
 
 医師はそう言い残すと部屋を出て行った。看護師が彼を再び人影の疎らな待合室に案内した。入院出来る病室は開いているのだろうか。心配で鼓動が速まる。連絡する家族といっても、思い当たるのは娘の洋子だけであるが、やはり彼女に伝えることは諦めた。
 看護師が戻ってきた。「今のところ個室が一つ空いているだけなのですが、差額のいる個室でもかまいませんか?」と訊ねた。
 この状態では差額の金額がいくらかなど、考える余裕は彼には全くなかった。
「お願いします」とだけ応えた。
 
 直ちに、浜崎は車椅子に乗せられ、エレベ−タ−で七階の病棟へ移動した。連れて来られた病室は西向きに窓のある部屋で、中央にベッドと、その横にテレビ が乗った少し大型の床頭台があり、隅にスチ−ルのロッカ−と椅子が一脚置いてある簡素な部屋であるが、一人の療養には十分なスペ−スだと思った。
「浜崎さんは運が良かったですよ。ここは今日空いたばかりなんです」と言って、看護師はベッドの傍で車椅子を止めて彼を降ろした。彼は自らベッドに移りパジャマに着替えて横になった。間もなく先程の若い医師が看護師を伴って入って来た。
 
 「まだ少し出血が続いているようですので、今晩は止血剤と出血を吸収する薬の点滴をします。針が抜けないように一応は固定しておきますが、なるべく腕は動かさないようにして下さい」と言って、看護師に点滴注射の準備をするようにカルテに指示を書いて渡した。
「先生、治りますか? 左目も見えるようになりますか?」と彼は外来の時と同じ質問を繰り返した。「明日にならないと分かりません。明朝、部長が診察して、詳しく説明すると思います」
 
 医師は落ち着いて応えると、一枚の用紙を取り出し、「緊急検査の結果を見ると、糖尿病がかなり悪いようですが、治療はしておられたのですか?」と訊ねた。
「勿論していました。そんなに悪いのですか?」
「そうですね、今回の眼底出血の直接の原因は、そのためだろうと思います」
 
 彼は数字の並ぶ紙を示した。確かに血糖値が異常に高い。浜崎は驚いて彼の目を注視した。
「そんな馬鹿な。私の主治医は血糖のコントロ−ルは良好だと、ずっと言ってくれていました。それで私は安心していたのです」
「では薬はきっちり飲んでおられたのですか?」
「勿論です」
「薬の名前は御存知ですか?」「慌てていたので薬を持ってくるのを忘れました」
「それでは主治医の先生に聞いて下さいませんか?」「分かりました。明朝、電話をしてみます」
 
 看護師が持って来た点滴注射の針を、彼は浜崎の右手の腕に刺し、太い包帯で固定した。それから彼は「何かあったら頭の上のブザ−を押して下さい。それと、許可があるまでテレビは観ないで下さい」と言って看護師と一緒に病室を離れた。

 二人が去った後、重苦しい静寂が浜崎を包む。一体、どうなってしまったのか。彼は今夜の出来事を順を追って思い直してみた。しかし納得が行かないのは、今日まで治療を受けて来た沖田義博の言葉である。確かに最近は酒量が増えたことは否定しないが、つい二週間前に受診した時も、彼は病状は安定していると 言ったし、特に何の注意も与えなかった。
 
 浜崎は深呼吸をして気持ちを切り換え、左右の目を交互に開いて周囲を見回した。やはり左の目には薄赤い深い霧が懸かっていて物体はほとんど見えない。天井の小さな夜間電灯のみが、ぼんやりと弱々しい光を感じさせるだけである。何故こんな状態に落ち込んだのか、驚きは不信に変わり、次第に沖田への怒りへと 移行して行く。
 
 浜崎の所謂”かかりつけ医”である沖田義博は、約35年前に、市民病院の外科医長を惜しまれながら退職して開業した。40歳になったばかりと聞いていた。
 その頃から浜崎の父は沖田の患者であったので、彼は二代目の患者ということになる。会社の検診で糖尿病を指摘され、沖田の診療所に通うようになってから 8年が経つ。彼自身は真面目な患者だと思っていたし、沖田を信用していた。だから今夜の診断は全く意外であった。むしろ何かの間違いではないかとさえ思っ たのである。
 
 浜崎の頭に、3年前に大腸癌で亡くなった妻の敏子のことが思い浮かんだ。この時も、もう少し早く沖田が診断してくれていたら助かったのでは ないかと、知人達は彼に話し、彼も無念な思いに陥った経緯があった。今回もまた手遅れであったと言うのだろうか。
 
 もし彼の場合も妻と同じことの繰り返しだとすると、沖田を責める感情が、突然彼の胸に芽生えた。恐らく左目は回復しないのではないか。右目は本当に大丈 夫なのだろうか。もし両目の視力を失ってしまったら、一人ではたして生きて行けるのだろうか。今までに築いて来た会社での地位はどうなるのか。技術開発の 仕事では、片方の目が見えなくなることは、間違いなく致命的なことである。
敏子が入院した時にも、殆ど見舞いにも行けなかった仕事人間の浜崎にとっては、 この突きつけられた現実に、どう対処していいのか全く結論が出せなかった。なってしまったことは仕方がないと諦め、あっさり、敏子の傍に行くのが最善では ないかとさえ彼は真剣に考えた。彼は今後の展開を予想することに恐怖を覚えて、神仏に祈るように重い瞼を閉じたが、今夜は眠れない夜になりそうだと思っ た。



 病院の朝は早い。眠ったという感覚が無いうちにインタ−ホ−ンで体温を測るように指示された。間もなく、若い看護師が入って来て、「部長の詳しい診察を受けますので、朝食を摂らないで外来に降りる準備をして下さい」と伝えて行った。
 
 外来に降りる前に、浜崎はエレベ−タ−ホ−ルの横にある公衆電話から会社に電話を入れ、「緊急入院をしたので、暫く休むから後を頼む」と彼の直属の上野課長への伝言を頼み、病院名と病室の番号を知らせておいた。すでに眼科の外来は患者で溢れていたが、入院患者は優先的に診察を受けることが出来る。部長 の一通りの診察が済んだ後に、指示された検査が開始された。
 手術を前提にしての精密検査と言うことで、ほぼ午前中が費やされ、浜崎は非常な空腹と疲労を覚えながら自分の病室にたどり着いた。
 
 午後からは部長からの病状の説明が、ナ−スステ−ションであった。50歳前に見える鼻筋が細く通った眼科部長は、理知的な目を彼に据えてから、彼のカルテと目の解剖図を示しながら丁寧に説明を始めた。
「先ず、右目ですが、こちらは網膜の出血が幸い少ないので、この方は一般的に行われるレ−ザ−によって、網膜に出来た新生血管を焼く光凝固手術で悪化を抑え、視力は保たれます。次に、左の目の網膜出血ですが、こちらは広範囲なので、レ−ザ−治療では無理なので、もっと大きな手術になります。だがそれで視力 が回復する確率は、残念ながら非常に低いのです」
 
 浜崎はこの診断には衝撃を受けた。
「どんな手術ですか?」
「眼球の中心には硝子体という、ゼリ−状の組織がありますが、それが貴方の場合、今までの度々の出血ですでに濁っています」
「度々出血していたのですか?」
「そのようです。だからその濁った硝子体を吸引して抜き取り、後に人工の眼内液を注入する手術が必要なのです。成功すれば再出血も予防出来ます」
「それで、何日ぐらいの入院が必要なのですか?」
「あなたの場合、糖尿病がかなり悪化していますので、先ず、内科の先生に血糖のコントロ−ルをしてもらう ことになります。その間に軽症の右目の治療をします。左目の手術は、コントロ−ルが良くなってからになりますから、約一ヵ月は覚悟しておいて下さい」
 部長は言い終えると温かい眼差しを彼に向けた。

 病室に戻る彼の足は、目が不自由であることを差し引いても、鎖を引きずっているように重かった。途中、エレベ−タ−前の公衆電話から再び上野に電話を入 れて、眼科部長からの説明を簡潔に伝え、留守の間の責任を頼んだ。病院では携帯電話は使えないので、急ぎの用件だけは何とか携帯のeメ−ルを許可してもら うからとも話した。もう一本の電話は、入院を助言してくれた親友の医師、藤本への現状報告であった。

 浜崎のメ−ル許可願いに病棟師長は、彼の病室の周辺には、特別電波を乱す医療器具はないという理由で、使用を許した。

 長かった入院初日も終わりに近づき、西向きの窓が赤く染まる頃、小柄な上野課長があたふたと病室に入って来た。彼は黒縁眼鏡の奥の小さい目を浜崎に向けて、入院中は毎夕連絡に寄るから、会社のことは心配しないで、十分に養生してほしいと言った。
彼にeメ−ルの使用許可を貰ったことを伝え、急ぎの用件には使ってくれと伝えた。
 浜崎の心境はもう焦っても仕方がない、全ては成り行きに身を任せようと決めていた。ただ出来ることなら、一日でも早く元の勤務に戻れればと願った。

 翌日から内科の医師によって、インスリンの治療が病棟で開始された。眼科の方では軽症と言われた右目のレ−ザ−治療が開始された。

 遠方を見ることが許された右目で見ると、窓外からの光りは、景色を見ることが出来ないほど眩しかった。目が陽光に慣れてくると、遠くに海が見える。空母 のように国際空港が横たわっている。模型のような小さな飛行機が、機首を上げて上昇して行くのが霞んで見える。世の中がこんなに明るいということに初めて 気付いたように思えた。

 携帯電話の着信を知らせる、緑のランプが点滅している。浜崎は三日振りにメ−ルを開いた。会社からのものの他にもう一本入っている。親友の藤本敬二からのもので、「検査が終わったらTELしてくれ」とあった。

 浜崎は無性に誰かと話がしたかった。特に藤本には今、自分の置かれている状態や、今後の病状の進展などを医師の立場から、説明して欲しいと思っていた。 彼は「出来るだけ早く寄ってくれ」と藤本にメ−ルを返し、再び視線を窓の外に向け、飽きることなく七階からの風景を眺めていた。

 運ばれて来た夕食を済ませてから、浜崎はかかりつけ医である沖田に、入院したことを知らせた。沖田は彼の入院の報告に非常に驚いたようで、最近の病状や検査結果は病院へ送ると約束した。

 電話ボックスのあるホ−ルの窓からは、病院前の大きな道路を隔てて緑の多い公園が見える。その向こうに大小のオフィスビルが、彼の右目に飛び込んでくる。

 もう八時を過ぎているのに、四角く規則正しく並んだ窓には、まだ多くの白い光が残っている。仕事が続いているのであろう。今まで歩んで来た彼の会社生活が、次々と脳裏に蘇ってきた。

 地方の大学を出て、23歳から35年間勤めあげてきた会社である。三十歳を過ぎてからは、常に会社の第一線で働いて来た。米国やオランダでの海外生 活も経験した。かなりのパテントも申請し認可を受けてきた。六十二歳の定年を迎える日まで、先頭を切って走り続けたいと願っていたのである。

 会社は彼の今日までの業績で、定年になるまでは席を残してくれるであろう。だが片方の目では、今までのように最先端で精密な設計をこなすことは難しい。温情で彼を違う部署に移動させてくれるかも知れないが、そこは恐らく閑職に違いないであろう。
 浜崎にとってみれば、会社の情けや厚意にすがって、窓際に座って定年まで生き延びることは、耐えられない屈辱であった。では一体どうすればいいというのか。
 再び大きな不安が彼の胸の内で、毒蛇のように大きく鎌首をもたげ始めた。

 部屋に戻って間もなく、突然ドアをノックする音がして、藤本が心配そうな顔をしながら入ってきた。頭髪はかなり後部に退いたようだが、信頼を与える真面目な眼差しを浜崎に向けた。
「メ−ルを見て、とりあえず立ち寄ったんだ。気分はどう?」と最初は医者としての質問をした。「四日振りで見る世の中が、予想外に素晴らしいのに驚いているよ」
 彼は浜崎の様子に安堵したように、ベッドの横に立て掛けてあるスチ−ルの椅子を開いて腰を下ろした。

「でも大変な目にあったなあ」
「まさか片目になってしまうとは思ってもいなかった」「今、ここへ来る前に、ナ−スステ−ションで、私の名刺を示して、君のデ−タを頼んで見せてもらったんだが、糖尿病が随分進行していたんだなあ。真面目に治療していたの?」と不信そうな目を彼に向けてる。
「勿論。主治医も何時も優等生だって、言ってくれていたんだ。どうしてこんなことになってしまったのか、まったく分からないんだ」「どんな薬を飲んでいたのだ?」
「実は、こちらの主治医にも聞かれたが、覚えていないんで、さっき沖田先生に電話をして、私の医療情報をこちらに送ってくれと頼んだところだ」
 
 藤本は暫く無言で考えていたが、ゆっくり口を開くと、「君のかかりつけ医を信用しない訳ではないが、先ずは君が飲んでいた薬と、最近の検査結果を聞いて来るよ」と言った。
「ありがとう。よろしく頼む」
「悪いが君の先生に電話をして、友人の藤本という医者が、近日、私の最近の病状を聞きに行くから伝えてほしいと言っておいてくれ。最近は個人の情報を伝えるのはうるさくなったのでね」
「分かった。必ず電話をしておく」
 
 藤本は入院している時は、退屈でも書物を読んだり、テレビを観たり、会社の資料などに目を通さずに、手術の済んだ方の目を休めるようにと医者としての注意を細かく的確に助言すると、 「君のデ−タが分かればまた来る」と言って軽く手を挙げ、部屋から出て行った。

 病室には音のない空間が拡がった。
 入院して六日が過ぎて、ようやく血糖のコントロ−ルも良好になった、と内科から報告があり、いよいよ左の悪い方の硝子体手術の実行が決定された。
 はたして視力は回復するのか、主治医にはすでに大きな期待はしないようにと伝えられていたが、彼は一縷の望みを持ち続けていた。だがそれは、かって彼が聖書で読んだ「駱駝が針の穴を通るより難しい」ことなのかも知れない。

 入院七日目の昼過ぎ、眼科では難しい手術の一つである硝子体手術が行われ、一応は無事に終わった。彼の左目は大きな眼帯に覆われ、車椅子に乗せられて病 室に戻ってきた。部屋には面会謝絶のプレ−トが付けられ、その日は主治医の指示した体位で、一人でベッドに釘付けになった。ただ食事の時だけ一時的に坐位 が許された。 不自由な体位で横になっていると、彼の頭の中を焦燥感が渦を巻いて流れて行く。退院しても今後の彼の前には過酷な現実が待っているのは間違 いない。定年までは他の部署への配置換えに甘んじたとしても、それからの生活はどうなるのだろうか。万一、両方の目を失ったとしたら、誰が自分の面倒をみ てくれると言うのか。これは彼にとっては一番深刻な問題であった。彼は次第に暗い淵に落ち込んで行く自分自身を、どうすることも出来なかった。

 そんな苦渋の波にもまれている時、一人娘の洋子の顔が、静かに浜崎の頭の中を過ぎ去った。彼女とは長い間交流がない。隣の県で生活していることは知っているが、彼女の結婚後、連絡をしたことは一度もなかった。



 8年前のことになる。私立大学を卒業して、損害保険会社に勤めていた洋子が、23歳になった時のことである。夏の暑い日であったと浜崎は記憶している。

 卓上のテレビがその日はナイタ−になった高校野球を放映していた。いつも仕事の帰りの遅い洋子が、久し振りに早く帰宅して、彼と妻の敏子と三人で夕食を 摂っている時、突然「結婚したいので許してほしい」と言い出した。妻に似て面長で、睫毛の長いはっきりした目を、両親に交互に向けて、「私と同じ会社に勤 める真面目な人で、私達は結婚を前提にお付き合いをしてきたの」と言った。敏子は最初は「それはいいことでしょう。一度家に連れていらっしゃい」と賛成の態度を示していた。 浜崎は可愛がっていた一人娘が嫁ぐ日のことは、それまで考えてもみなかったことだったので、瞬間、気持ちが動転した。だがいつかは結 婚するのを容認しなければならないのは分かっていた。ついにその危惧が実現してしまったのかと、半ば諦めの境地になっていた。

 しかし話が進み、名前と両親の国籍を聞いた途端に敏子は態度を豹変させ、一気に反対に転じた。「私はその話は一切許しませんから。考え直しなさい」と強 く洋子に言い放った。洋子は母の変化に驚いて、それからの話を止め、「どうしてなの?」と母に詰め寄った。凍りついた空気が一度に三人を包んだ。しかし敏子は理由は言わずに、ただ「この話には賛成出来ません」ときっぱりと応えた。洋子は暫くすると食事を中断して席を立った。浜崎はその成り行きを黙って見ていたが、二人の間に入る機会を失ってしまった。

 敏子は彼女が立ち去った後も、「私はこの話は絶対に許す訳にはいきませんから」と彼にも強い口調で言った。浜崎は彼女がこれほどまでに反対する理由は分かっていた。だから二人を説得するのに躊躇したのである。

 結婚して間もなく、敏子は自分の生い立ちを、一度だけ彼に語ったことがあった。彼女の話によると、終戦を迎えた頃、彼女の父親は他国で現地の人を雇って、かなり大きな工場を経営していた。彼女の父は温厚な人で、従業員からも慕われていたようであった。

 しかし日本の敗戦と同時に、彼の会社は現地の人達に強奪され、父母は二歳になったばかりの彼女の兄を連れて、ほとんど着の身着のままの状態で日本に向 かった。 彼等の周囲では沢山の日本人が強姦されたり虐殺されたと、その時の様子を彼女は母から度々聞かされていたと言った。やっと帰国したが、十分な食 べ物もなく、数ヵ月後に兄は病死した。その三年後に生まれた敏子は、だから兄の面影を写真でしか知ることが出来ないのだと話した。また彼女の父も彼女が生 まれて二年目に、それまでの精神的負担と過労の蓄積のために、帰らぬ人になってしまったとのことであった。

 当時の状況は、女手一つで彼女を育てた母から何回も聞かされ、その国とその国の人達への憎しみは、彼女の胸の内で果てし無く拡がり燃え続けていたようで ある。 彼女は涙ながらにこれらの経緯を話した後、彼等と彼等の国を、一生涯、許すことは出来ませんと強く彼に言っていた。しかし、彼女の心の中にあった マグマのような苦悩の固まりは、不幸にも娘の洋子には伝わっていなかった。

 浜崎は妻と娘の間で、二人の感情の縺れを解く努力を重ねた。敏子に過去の真実を話すように説得し、一応彼女は自分の胸の内を洋子に話しはしたが、やはり 洋子は聞き入れなかった。「お母さんの言うことは分かるが、時代は変わっているのだし、彼はお母さんの言うような人では決してないから」と折れようとはし なかった。浜崎にしてみれば、敏子が過去の憎しみを乗り越える慈悲深さがほしかった。だが彼女が心に負った傷は、時は流れても、娘への愛以上のものであっ たことを、彼は改めて知らされた。

残念ながら浜崎は二人への説得を諦めた。
 それから半月後、洋子は自分の持ち物を纏めて、二人には「落ちついたら連絡します」という言葉を残して、家を出て行った。
 家を去った年の秋、洋子が結婚したことを彼女の友達からの連絡で知った。結婚の通知は来なかった。

 浜崎は8年前のことを思うと常に目頭を熱いものが覆う。彼は洋子の幼少の頃から、常日頃溢れんばかりの愛情を注いで育ててきたつもりでいた。彼女の結婚 式ではきっと男泣きするだろうとも思っていた。だがその式に出席出来なかったばかりか、彼が夢にまで見た洋子の花嫁姿を、ついに目にすることは出来なかっ たのである。 せめてものと思った浜崎は、洋子の友人から彼女の夫になった人の勤めている部署を聞き出すと、敏子には内緒で彼に会いに行った。

 彼は洋子が言っていたように、明るい真面目そうな好青年という第一印象を受けた。日本に帰化して名前を竹中吉成と改めたと言って名刺を浜崎に手渡した。 肩書には査定部の係長となっていた。彼は強く辞退したが、結婚式に出られなかったからと、少し纏まった金を渡し、「暫くは洋子には話さないでほしい」と 言って帰って来た。彼女の性格では必ず送り返して来ると思ったからであった。事実、その後長女の出産の時に、送金を試みたが、丁重に送り返してきた。



 面会謝絶の厚紙が取り外され、自由な体位がとれるようになった手術後三日目の夕方、大きな花瓶を抱えて落合達哉が入って来た。花瓶には赤、オレンジ、黄色の薔薇が数本ずつ入っている。
「藤本から電話があって、お前が入院しているのを知ったんだ。随分、殺風景な部屋だということなので、季節外れだが、お前の好きな薔薇を探してきたよ」

 落合はベッドの横の床頭台の上に花瓶を置くと、スチ−ルの椅子にどっかりと腰を下ろした。
「やあ、ありがとう、今回はひどい目に遇ったよ」と言って、浜崎は視力の戻った右目で彼を見据えた。
 落合は藤本と同様に高校時代からの友人であるが、藤本が医学部に進んだ後も、落合とは同じような道を選んだ関係で、大学時代から最近まで、情報交換との名目で酒を酌み交わす仲であった。

「片目が見えなくなったって言うが、どうしたんだ?」 彼は大きな目を浜崎に向けた。「藤本からも少し聞いたが、お前さんの主治医はヤブじゃないのか? 真面目に薬を飲んでいたと言うのに、おかしいじゃないか」
「うん、しかしぼくも少し酒の量が多くなっていたからね。その為に悪化したのかも知れない」
「だが、検査の結果が悪くなっているのを、指摘するのも主治医の責任と違うのか?」と落合は自分のことのように憤慨して、力を込めて力説した。

「確かにそうだろう。しかし先生は診察に行く度に、検査の結果は良好と言ってくれていたんだ」
「俺には医学のことは分からないから、その点は藤本に任せよう。彼は近々、お前の主治医に会いに行くと言っていたので、はっきりすると思うが…」
 浜崎も藤本が主治医の沖田に会って、直接病状を訊ねてくれれば、今思っている疑問も解決するように思った。「君が来てくれて少し気持ちが落ち着いたよ。それにぼくが薔薇が好きなのを、よく覚えていてくれたね」

「それはお前とは高校時代からの親友だぜ」そう言って、落合は豪快に笑った。それから浜崎に顔を近付けると声を殺して言った。
「もし、浜崎、お前さんの主治医が過ちを犯したと分かった時には、必ずその筋に訴えることだぞ。これから片目では大きなハンディ−だ。嫌なことを言うようだが、今までの仕事が出来ないかも知れないんだから、取れるものは取っておくことだぞ」

 彼は真剣な顔で浜崎を凝視しながら言葉を続けた。
「俺の親友に腕の良い弁護士がいるから、もしお前がその気になったら何時でも言ってくれ」
 浜崎は彼の強い視線に圧倒されながら、「まだそこまでは考えたことはなかったんだが」と応えた。
「この部屋代や治療費も馬鹿にならないんだろう?」と言うと、彼は立ち上がり「また寄らせてもらうから、今話したことも考えてみたらどうだ。俺は協力するぞ」と言って軽く片目を瞑った。

 落合が帰った後には、白い壁の殺風景な部屋で、彼が持って来てくれた三色の薔薇が、一際生彩を放っている。 浜崎はベッドに仰向けになって、じっと天井 を見つめていた。沖田の治療は間違っていたのだろうか。確かに彼は何の特別な注意も与えなかった。だから、まさか片方の目を失明するとは、彼にとっては夢 想だにしなかったことであった。

 しかしだからといって、落合の言うように沖田を告訴して争うことなど、今まで考えてはいなかったし、そのことを決心するのには、かなりの勇気と決断力が 必要に思えた。だが浜崎の頭の奥のどこからか、これからの生活の不安を解消するために、貰えるものは貰ったらどうかという声が微かに聞こえてきたように感 じて驚いた。

 入院して11日が過ぎても、まだ左目を眼帯が覆っている。右目を疲れさせないように、浜崎は許可されたテレビもごく限られたニュ−ス以外はスイッチを入れなかった。
 この日の夕方、一週間振りに上野課長が数枚の資料を持って立ち寄った。部屋に入ってすぐに、場違いの可憐な花に驚いて見とれている。浜崎は誤解が生じないように、「飲み友達が持って来てくれたんだ」と告げた。

 上野は黒い大きな鞄から、几帳面に資料を取り出し、「部長の捺印の必要な最小限の書類を持って来ました」と言って浜崎の目を庇うように、丁寧に紙面を拡 げ彼の前に並べ、眼鏡を掛け直すと一つ一つ声に出して説明した。彼は上野の心遣いを嬉しく思いながら、それ等の書類に自由になった右目を移した。
事務的用件が一通り終わると、上野は椅子に座り直して、専務からの伝言と見舞金を渡した。

「専務はすぐ見舞いに行けないが、十分に治療に専念してほしいとのことです。また重役会で、会社にとっての功労者である浜崎部長には、当社としても出来るだけのことはしようと決まったそうです」と浜崎に伝えた。
 この一言は浜崎に安堵を与え、これからの生活の不安要素に一筋の明かりを灯した。彼は昨日落合が言い置いて帰ったことを、この際上野に気楽に話してみて、彼の率直な意見を聞いてみようと言う気になった。

 上野は「部長の残念な気持ちは分かります。もし絶対に告訴するとおっしゃるのでしたら、私達の会社の顧問弁護士が力になってくれると思います。しかし私 個人の意見を申し上げるとすると、それはお止めになった方がいいのではと思います」と慎重な意見が返ってきた。これは浜崎にはおおよそ想像のつくものだっ た。
「告訴は反対と言うことなんだね。どうしてだね?」
「もしマスコミに取り上げられて、公になれば、やはり会社のイメ−ジダウンに繋がると思うのです。まだまだ世間は正当な告訴でも、それを金を取る為の手段と考える向きがあります」

 会社人間を通して来た浜崎にも、個人を犠牲にしても会社を第一にする彼の考えは、理解出来るものであった。「私としても、これが他人のことなら、やっぱり上野課長と同じことを言うかも知れないね」
「確かに部長のお怒りは分かります。でもここは冷静になって頂きたいと思います。今後のことは、十分に会社が善処してくれる筈ですから」「課長の考えは分かりました。よく考えますよ」浜崎は上野を労って病室のドアまで送って出た。

 窓にもう夕日はなかった。片方の目を通して眺める遠くの不夜城のような空港から、小さい光が瞬きながら暗い空に登って行った。
 浜崎はぼつぼつ退院の許可が出る頃かと思っていた。 夕方、回診に来た若い主治医は眼鏡の奥の目を細めて「左目の手術後の経過は一応良好です」と言ったが「何時退院出来ますか?」との再度の浜崎の問いに、「退院については部長から話があるでしょう」と言葉を濁した。左目は術後四日になるが、まだ眼帯が残っている。痛みなどの症状はすっかり消失しているが、眼帯を取り外してみたい欲望を極力抑えて我慢している。結果を知ることが怖いのだ。

 軽くノックする音で我にかえると、大柄の藤本が現れた。シルバ−フレ−ムの落ち着いた感じの眼鏡が、医者らしい風貌を引き立たせている。
「落合が持って来てくれたのか」
 ベッドの傍にある床頭台に目を落とした。三色の薔薇が何の面白味もない部屋で際立っている。
「忙しいのに何回もありがとう」
藤本はスチ−ルの椅子の腰を下ろして、黒い大きな鞄から数枚の資料を取り出した。

「沖田先生に会って、君の最近のデ−タを見せてもらってきたよ。それで一つ疑問があるのだがね」と言って彼は一枚のコピ−を浜崎に渡した。
「と言うと?」
「これは君の最近の血液デ−タ−だが、この検査の日は食事を抜いて行ったの?」
「その通りだ。先生は検査の時の朝食は食べないで来いと言っているので、抜いて行ったよ。だがそれがどうかしたのか?」

 浜崎は不思議そうな顔を藤本に向けた。
「これでは正確な病状はつかめないんだ」
「それはどう言う訳なんだ?」
 コピ−用紙の上に並んだ数字を示しながら、藤本は医者の立場で説明を始めた。
 空腹時なら当然血糖の値は低くなる。だから血糖値だけでは正確な病状は分からない。この値だけで病状を把握しようとすれば、食後の値を見なければならない。

「君の値は空腹の時ですら、正常の値より高いから、食後なら恐らくかなりの高値だったと思うよ。それと最近は糖尿病の検査では、約二ヵ月の平均の血糖を チェックしないといけないんだ。これなら食事に関係なく、ほぼ正確な病状が分かる。グリコヘモグロビン検査と言うんだが、君の場合は残念なことに、その検 査が一度もされていないんだ」

「もしその検査がされていたら?」
 浜崎の右目は真剣に藤本の表情を凝視する。
「間違いなく、君の病状が非常に悪いことが分かって、薬の種類も、治療の方法も変わったと思うよ。その証拠にこの病院へ入院した時の、その値は十二%で、これは正常値の上限の約二倍の高さだった」

「それじゃ、どうしてその検査を沖田先生はしてくれなかったのだ?」
「これは言い難いことだが、先生はこの検査の重要性をまだ知っておられなかったのだろう」
「それは一体どういう意味なんだ?」
藤本は一呼吸入れると、ゆっく説明を始めた。

 この検査は今では糖尿病を治療する上で、非常に重要なものなのだが、糖尿病という病気は最近急に増えたので、内科の医師でも専門外の人や、少し高齢の医 師はまだ空腹時の血糖値を頼りにしてこの検査が抜けている。 甘い液を飲む糖負荷と言う検査は、正確に病状を知ることが出来るが、二時間掛かるので忙しい 外来では敬遠されているのが現状だと話した。

「君の場合も、せめて食後の血糖を測ってもらっていたら、こんなことにはならなかったと思うよ」
「それでは、結論は沖田先生の治療ミスと言うことになるのか?」
「それの実証は難しいよ。使った薬とか、どんな日常の注意をしたとか、君の治療態度などいろいろな条件の検証が必要になるからね」
 浜崎が落合が言い残して行った件を、最後に相談しようとした時、看護師がノックして入って来て、早く夕食を食べにホ−ルへ行くようにと伝えた。

 時計を見るともう六時半を過ぎている。
藤本は書類を鞄に入れると、「また寄るから、しっかり養生しろよ」と医者の顔で言って立ち上がった。
藤本が立ち寄った翌日、外来に降りて行われた左目の詳しい再検査の結果は、浜崎を落胆させた。

 午後に病室へ上がって来た部長は神経質そうな顔で、黙って結果に目を落としていたが、彼を正視すると
「左目もほぼ順調なのですが、少し気になるところがあります。それでもう一度小さい手術をしたいのですが、承諾して下さいませんか?」と言った。
「どうしてもしなくてはいけないのですか?」

 部長は彼を説得するように話し始めた。
「現在の貴方の左目の状態は、医学的には”光覚弁”と言って光りを感じる程度ですが、今度の手術が成功すれば、”手動弁”の状態になると思います」
「”手動弁”と言うと、実際にはどの程度見えるのですか?」
「目前の手の動きが分かるようになるでしょう」

 それから額に皺をよせて、すまなそうに言葉を継いだ。「ただ、その為に入院期間が、最初にお話したよりは若干延びるのは了解してほしいと思います」
「どれぐらい延びるのですか?」
「そうですね。大体一週間と考えておいて下さい」
「分かりました。この際それで少しでも視力が回復するのなら、我慢しますのでお願いします」
「では明日の午後から早速やりましょう」

 部長は自信に満ちた眼差しで大きく頷くと、看護師長を伴って退室した。
浜崎はその後ろ姿を追いながら、入院がさらに一週間延びることで、少しでも視力が回復するのなら、その方に賭けようという気持になっていた。
 部長が去って、その日の面会時間が終わる間際に、落合が一人の男を連れて入って来た。中背の胸板の厚いがっちりした体格の男で、五十歳前後に見える。

 落合は「薔薇のお蔭で少しは明るい部屋になったようだなあ」と言って、ベッドの横に立つと、隣の男性を浜崎に紹介した。
「彼は俺の大学時代からの親友で、この間言っていた、弁護士の玉井寛君だ。なかなか腕のよい弁護士だよ」名刺の交換が終わると、浜崎は二人をエレベ−タ−ホ−ルの横の面会室に案内した。
 この時間、部屋にはもう誰もいなかった。三人が固いソファ−に腰を下ろすと、先ず玉井が口を開いた。

「大体の様子は落合君から聞きました。詳しいご相談は貴方が退院されてからで結構です。今日はご挨拶のつもりでお寄りしました。もし貴方がその気になられたら、何時でもお手伝い出来ると思います」ち着いた低い声で自信ありげに言った。

「落合からは告訴すべきだ、と勧められているのですが、私としてはまだためらっていて決心がつきません」
「勿論、その時はお友達のドクタ−の方からも、デ−タを頂くことになると思いますが、落合君からの情報から判断すると、この件は間違いなく勝てると思います。だが、どれほどのお金が貰えるかは、これからの証拠集めによりますがね」

 玉井は額に皺を寄せ、浜崎の瞳を覗き込んだ。
「ありがとうございます。早急に決心します」
 浜崎の言葉がまだ終わらない内に落合は口を挟んだ。「俺達もう若くないんだぞ、老後を一人で生きて行くには、やはりなんと言っても金が必要だ。それにお前は片方の目を失ったハンディがある。貰えるものは貰っておくのが賢明と思うんだ。そうだろう」

 浜崎は落合が自分のことを、真剣に考えてくれていることがよく分かり、その気持ちは嬉しかった。だが彼の心の何処かに決断を鈍らせるものが未だ残っていた。

「関東での事例ですが」
玉井が二人を交互に見ながら話し始めた。
「これも糖尿病で治療中だった患者さんが、心筋梗塞で亡くなられて、そのご遺族がかかりつけの医者を訴えられたのです」
「心筋梗塞で?」浜崎は驚いて玉井の顔を注視した。
「それはどういう意味なの? 何を訴えた訳?」
 落合も腑に落ちない様子で玉井を見た。

「現在裁判が始まったところですが、ご遺族は糖尿病が心筋梗塞の誘因になると言うことを、主治医は家族に説明していなかった、と訴えた訳です」
「それもご遺族が勝てるのですか?」
「この件は難しいと思います。先ず、主治医側は患者さん本人には伝えてあったと恐らく主張するでしょう。次に、確かに糖尿病はその心筋梗塞の一因であったかも知れませんが、心筋梗塞の誘因は色々ありますからね」
「最近はそんなことも裁判になるの?」

 落合は大きい目を見開いて玉井を見つめた。
「そうなんだ。マスコミでもよく言う、インフォ−ムド・コンセントだよ。所謂、”説明と同意”と言う奴だ。それがなされていたかの争いだなあ」と玉井は応えた。 落合は視線を浜崎に移すと、「それからすれば、お前の場合などは当然訴えるべきだなあ」と言った。
「私もそう思いますね。もし決心されたら一報下さい。必ずお力になれると思いますよ」
 小さく頷きながら、玉井は浜崎を柔らかい目で見た。

 二人をエレベタ−まで送って、ナ−スステ−ションの前まで来ると、病棟の看護師長に呼び止められた。
「浜崎さん、部長からの連絡で左目の再手術は、明日の午後からに決まりましたので、待機していて下さい。明後日からまた面会が出来ませんので、関係がある方には連絡しておいて下さい」
 看護師長は明日の予定の書かれた用紙を手渡し、手術の承諾書にサインを求めた。
 上野課長は今夜は立ち寄るだろうが、明日からはまたeメ−ルの交換になるなあと思った。



  翌日、入院後二週間目に、左目の再手術が行われた。 手術後の眼科部長の説明では、手術は成功で間違いなく”手動弁”程度の視力は出るだろうとのことで あった。 その言葉は確かに浜崎に安堵を与えたが、二度に渡る手術を受けても、失ってしまった左目の視力を思うと、彼の心は次第に落合の勧めに従って、玉 井に頼もうという方向へと動きつつあった。

 そんな折り、面会が再び許された最初の日の午後、浜崎は思いもよらない人の訪問を受けた。
 モスグリ−ンのツ−ピ−スに身を包んだ、小柄で落ち着いた感じの女性は、顔全体に笑みを浮かべ軽く頭を下げて入ってきた。若いとは言えないが面長の顔には色艶が残り、豊満な胸は肉感的であった。
 浜崎は生唾を飲んで彼女を凝視した。

「お久し振りです」
「ええ、どうして此処へ?」
 彼女はそれには応えずに、持ってきた鮮やかな紫色のリンドウと、濃いピンクのシュウメイギクを薔薇の横に上手に挿し入れた。花瓶は色彩が豊かになった。
「目の調子は如何です?」

 彼女は真っ直ぐに視線を浜崎に向けて言った。二重の大きな黒い目は、彼の頭の片隅に残る記憶をはっきりと蘇らせた。昔の面影が次第に輪郭を現す。
「びっくりしたなあ。何年振りになるの?」
 彼女の眩しい視線を避けながら、頭のてっぺんから爪先まで、まるで宇宙人を見るような目で眺めまわしながら訊ねた。彼女はゆっくりスチ−ルの椅子を開いて、腰を下ろしてから話を始めた。

「あれは確か私がまだ二十四歳の時で、貴方が二十三歳だったから、もう三十五年ほども前になりますね」
「三十五年ねえ、お互いに若かったなあ」
 
浜崎は遠い過去を懐かしむように、視線を泳がせた。「あれからいろいろありました。私は九州に戻ってすぐに結婚して男の子を産みました。だけど五年後に離婚してまた戻って来た時には、貴方は結婚しておられた」
「そうだったねえ」
 二人の間で流れた年月が彼の頭の中で逆流していた。「私はあれから六年間、また沖田先生の所で働いていました。今は郷里で小さなお店を持っていますの」

「お店って、どんな種類の?」
「女の子が三人いる可愛らしいラウンジです」
「そこのママさんって言うこと? 僕はもう年寄りになってしまったのに。だから何時までも若いんだなあ」

 彼女は立ち上がると病窓へ行って、カ−テンを開け放った。午後の斜陽が明るく彼女に反射する。
「これぐらいの光りは目に悪くないんでしょ?」
 彼女は窓を細目に開き、晩秋の海を眺めている。浜崎はその後ろ姿の、形の良い引き締まったヒップの線に甘い回想を重ねた。

 彼女の名は森本夏江と言い、沖田医院の看護婦であった。その頃まだ独身であった浜崎は、父を診察に連れて行く機会が多く、いつの間にか彼女とは、時々喫茶店に行くような仲になっていた。
 浜崎が夏江と深い関係になったのは、彼が仕事に就いて一年目の秋のことで、思いもよらない偶然の機会からであった。

 その日は朝から冷たい雨が降っていた。彼が帰宅後、父親に頼まれて薬を貰いに、沖田医院に愛車を走らせた。翌日が休日なのに、父は常時飲んでいる薬が切 れるのを忘れていたからである。医院が閉まるぎりぎりに飛び込んで、薬を貰って帰ろうとすると、置き傘が無くなったのでアパ−トまで送ってほしいと夏江に 頼まれた。

「いいよ」と彼は気楽に応えて、彼女が終わるのを待って車に乗せた。彼女は私鉄電車の隣駅から通っていたが、医院から駅までは五分ほど歩かないといけない し、隣駅からも同じ位の距離があることを彼は知っていた。それに明日は休日ということで、リラックスしていた。

 車を出してから彼女が何時もと違うのに気付いた。
「今日はどうかしたの?」と言う問いに、暫くは黙っていたが、決心したように口を開き、「今夜来た患者さんが、私の言葉使いが悪いって叱るのよ」と涙声で言った。「どんな人? 再診の人?」
 夏江は無言で首を横に振り、唇を噛んでいた。よほど悔しかったのか、頬に涙が光っているように見えた。
「中にはそんな人もいるよ」

 浜崎はなだめるつもりで言ったが、一瞬、横を向くと彼女の肩が震えていたので、その後の言葉を呑み込み、正面に目を据えて黙ってハンドルを握っていた。 斜めに降る雨にヘッドライトの光が激しく反射した。アパ−トに着いても彼女は降りようとしないで、「部屋に寄って行って」と涙声で言って、彼の手を強く引 いた。若い女性の一人部屋に入ったことのない彼は、戸惑ったが、彼女の強い誘いに負けてしまった。

 部屋は二間できれいに整頓され、彼がそれまで感じたことのない、名前は分からないが、何か花の香りが鼻孔をよぎった。彼女はそっとドアを閉め、暖房のス イッチをオンにすると、リビングの中央に茫然と突っ立つている彼の胸に飛び込んできて唇を求めた。一瞬、彼は怯んだが彼女のするままに、彼も唇を合わせて 彼女の温かい舌を受け入れた。彼女の胸の丸く柔らかい脹らみを通して、鼓動が心地好く伝わる。夏江は彼を強く抱いたままベッドのある隣室に移動して、「全 部脱いで」と彼の耳元で囁いた。彼は下着まで脱ぎ捨てると、布団にもぐり込んだ。

彼女も素早く衣服を脱いで裸になると、そっと横に滑り込んで二人は強く抱き合った。温かく柔らかい肉体が彼の上に覆い被さり、浜崎は甘い息苦しさ の中に溺れながら、夏江のするがまま身を任せていた。彼のはち切れるばかりの股間の突起は、彼女の誘導で彼女の局所に収まり、彼女の激しい体動に耐えかね て瞬時に果てた。しかし若い浜崎は何度も彼女を求め、この日、彼は夏江の瑞々しい肉体の全てを知った。

 それから約一年、浜崎は夏江と交渉を重ねていたが、彼女は突然郷里の九州へ帰り、彼もそれから一年後には結婚した。
もっとも彼女は五年後に離婚して、再び沖田医院に戻って来ていたが、彼とはもはや深い関係はなかった。
「案外、空港は近いのね」

 独りごちして振り返った彼女の姿で、彼は突然我に返り、「今日は晴れているからね。夜など風向きの加減で遠くを通る汽船の汽笛も聞こえるよ」と言った。
「それはロマンチックなこと」
 打ち解けた言葉使いと、昔を思い出させる明るい笑みが彼女の頬に溢れている。

「それはそうと、娘さんの洋子さんはどうしておられますの?」と突然、話題を変えて彼の目に視線を据えた。「妻があの子の結婚に反対して、家を出て行ってからは年賀状だけの付き合いだ」
「貴方が入院したことはお知らせになった?」
「まだ知らせていないよ。煩わしたくないし」
「でも洋子さんは、貴方には悪い感情は持っておられないのでしょう」

「そうあって欲しいと思うよ。しかしあの子が結婚を許して欲しいと言った時、妻の剣幕に押されて、僕は何の助け舟も出せなかった。それを心残りに思いながら今日まで来てしまった」
「私が離婚して、三歳の息子を連れて沖田先生の所へ帰っていた頃、貴方は洋子ちゃんを、羨ましいほど可愛がっておられましたね」
「そんな頃も確かにあったなあ」

 浜崎は夏江の視線から逃れるように、西側の窓外の遠い空に、右目の視点を浮かせた。赤く大きくなった太陽が、空港の向こうに見える水平線に近づいている。

 椅子に戻った彼女は、ハンドバッグから小さな風呂敷に包んだ封筒を取り出して、浜崎の前に静かに置いた。「これは気持ちだけのお見舞いです」
「一体誰からの?」と驚いて彼女の顔を見た。
「沖田先生と私の二人からの」
「ちょっと待ってくれ。それは受け取れない」
「じゃあ私からだけのものとして、納めておいて下さい。お願いです」

 夏江の強い眼差しに圧倒されながら、浜崎は必死に抵抗した。今、ここでこれを受け取ることは絶対に出来ないと思った。彼女が花瓶の傍に置いて、立ち去ろうとする手を捕まえ、包みを強引に押し返した。
「とにかく今日は持って帰ってくれ、君が沖田先生に頼まれてここへ来たとは、僕は考えたくないんだ」

 暫くの沈黙が二人の間に降りてきた。夏江の瞳が潤んでいくのが浜崎の回復した右目に映る。
「確かに貴方が入院されたことは先生から伺いました。また貴方のお友達が先生の所へ来て、告訴するかも知れないと言って帰られたことも聞きました。でも、今日来たのは先生に頼まれたからではありません。私の意思です。私自身が貴方に会いたかったからです」

 彼女は間近に寄って、彼の目をじっと見つめた。艶のある頬を一筋の涙が流れた。浜崎は耐えれなくなって、彼女の肩を力一杯抱いて唇を合わせた。彼の胸の 中で、彼女の柔らかい肢体は小刻みに震えている。彼の脳裏を遠い思い出の波紋が、次々と湧き出て通り過ぎる。彼女と深い関係にあった期間は約一年と短かっ たが、彼に初めて女を教えてくれたのは夏江であった。彼女が郷里に帰って結婚したことを、当時沖田医師から聞いた時には、彼自身も結婚している身でありな がら、強い嫉妬を覚えた記憶が蘇った。彼の情熱を激しく燃え上がらせた青春の一ペ−ジを、彼女は今も美しく飾っているのだ。

 浜崎はこの時がこの瞬間で停止してほしいと願った。「嬉しかったわ」
 微かな声で夏江は耳元で囁くと、彼の胸から離れてそっと髪の毛を整えた。浜崎はガウンに残った彼女の香りに未練を感じながら、ベッドの端に腰を下ろした。
「分かりました。今日は持って帰りますわ」
 彼女は小さな包みをバックに戻してから、はっきりとした目を彼に見据えて言葉を継いだ。

「此処へ来ることは私自身で決めたことです。それだけは分かって下さいね」
彼は黙って小さく頷いた。
 夏江は彼の手を強く握った。
「お元気になられたら、九州へも遊びにいらしてね」
「見舞いに来てくれてありがとう。元気になったらきっと遊びに行くよ」

 夏江はさらに両手で彼の手を抱くように握ると、熱い眼差しで彼を見据えた。
「私と必ず約束してほしいお願いが一つだけあります。今回の沖田先生との問題は、きっと洋子さんと相談して下さいね」と訴えるように強く言った。
 夏江が洋子の名前を突然口に出したことに、浜崎は一瞬驚いた。だが彼はその理由が、夏江も知っている洋子の幼かった頃の出来事にあることに気付いた。

 彼は暫く無言で夏江の大きな目を見つめていたが、決心したように首を縦に振った。
 夏江が去って間もなくして、看護師が入って来た。
「さっき部長から連絡があって、明朝、退院前の最終チェックがありますので、外来に降りて下さい」
 看護師は時間と注意事項を書いた紙を彼に渡すと、
「その結果で退院の日が決まると思います」と告げ軽く会釈をしてドアから出て行った。



 夕食が済むのを待って、大柄な藤本敬二が現れた。
 スチ−ル椅子に腰を乗せると、医者らしい大きな黒い鞄からメモを取り出し、よく光る目を浜崎に置いた。
「沖田先生に会ってきたよ。君が電話をしておいてくれたので、一応は診察室に通してくれたが、かなり頑固な先生だなあ。どうにか君の治療の内容は聞いたが、個人情報だからと言って、カルテは見せてくれなかった」
「忙しいのに済まないなあ。それでやはり先生の治療が間違っていたのか?」

 浜崎も真剣な目で藤本を見つめた。
「はっきり誤りとは言えないが、糖尿病を知っている医者の薬の使い方ではないようだ」
「それで僕のことをどう言っていた?」
「お気の毒に思うとは言ったが、自分の過ちは一切認めようとはしなかったねえ。やはり君の治療態度の問題だというような表現だなあ」
「そんなことを? それでこの件を裁判に持ち出せば、医者の立場から見て、勝てそうに思うのか?」

 藤本は太い眉を寄せて考え込んでいたが、暫くして静かに口を開いた。
「私は勝てると思う。先ず、君 の”かかりつけ医”である沖田医師は血糖のコントロ−ルが悪いとどんな結果になるかを、患者である君に伝えていなかったこと。次に暗に自分は糖尿病の専門 医ではないと言ったが、それなら何故専門医に任せなかったか、あるいは専門医と相談しなかったかに落ち度がある。医学は日進月歩で、特に近年の発展にはつ いて行けない。だから常日頃の勉強が必要になる訳だ」

 彼は一息入れて言葉を継いだ。「そこで一番大切なことは、彼は重要な検査を一度もしていなかったことだ」「約二ヵ月の平均血糖の検査のことか?」
「そうだ、グリコヘモグロビン検査だが、あるいは食後の血糖の検査もだ。いずれもされていないようだった。医師会のいう”かかりつけ医”は、自分の患者さんに全責任を持ってこその制度だと思う」
「なるほどねえ」浜崎は大きく頷いた。
「それからこんなこともいっていたよ。落合が行ったからかも知れないが、もし裁判になっても私は受けて立つつ自信があるとね」

「落合が談判に行ったようだなあ」
「そんな気がするね、彼のことだからね、恐らく君のことを思ってやったことかも知れないが…」
 浜崎は次第に深みに落ち込んで行く自分自身を考えると、いよいよ決断をする時が来たように思った。
「君がその気になったら、落合に伝えれば、彼の親しい弁護士が力になってくれるだろう。もし必要なら私も勿論、君の助けになるよ」
 体温を測るようにとインタ−ホ−ンで看護師の声がした。藤本は立ち上がると、「後は君の気持ち次第だからね」と言って温和な笑みを残して病室から出て行った。

 浜崎は携帯電話に緑の小さいライトが点滅しているのに気付いて、メ−ルを開いた。
「今日は特別な伝言はありません。会長からも十分に養生するようにとのことです」との上野課長からの着信であった。毎日欠かさず続いた彼からのメ−ルの通 信も、もう間もなく終わりを告げることになるのだろう。だが退院後も続くだろう沖田との対決の問題が、心の重荷となって浜崎の胸の中で悶え続けていた。

 親友の彼を思う心情は本当に嬉しかったし、確かに職を失ってからの生活は心配である。告訴すれば勝てるという彼等の意見も正しいだろう。だが彼が決断を 下せない思いが、夏江が別れる際に残した一語によって重い頭をもたげ、心の底で一つの形となって現れてきた。

 その夜、浜崎は1ヵ月半振りでペンを握り、回復した片目を駆使して2通のはがきを書いた。1通は夏江に見舞いの礼と、やっと退院出来ると書いた。もう一 方は洋子に宛てた。彼女とは3年前の敏子の葬儀で、親戚の席に座らないで、参列者の中にちらっと姿を見かけただけで、彼女が家を出てからは交流はない。家 を去った時、妻の敏子とは洋子は死んだものと思おうと話し合い、二人だけで老後を生き抜こうと決めていた。だから今、彼女に相談を持ち掛けることは、敏子 を裏切ることにもなり彼の心は重かったし、彼女から返事があるという確証は何もなかった。だが夏江の提案は彼に一条の光りを与え、彼はこれ以外に苦悩を解 決する方法はないと考え抜いた末の行為であった。

 浜崎は何から書き出そうかと 迷ったが、結局「今、入院している。早急に相談したいことがあるので連絡して欲しい」と書き、連絡場所に病院の電話番号と、特別に許されている携帯のメ− ルアドレスを付記した。洋子へは、明朝一番に病院の郵便局から速達で出そうと決めてベッドに入ると、それまで胸いっぱいに張り巡らされていた緊張の糸が、 一度に切れて深い眠りに落ちた。

 25年前の初夏、洋子が6歳の夏休みであった。
 蒸し暑い日が続いていた。2〜3日前から「おなかが痛い」と言っていたが、急に高熱を出して、意識が朦朧とし始めた。食べさせた物は全て嘔吐した。水分も 受け入れなくなった。敏子は熱を冷ますために、全身に氷を置いたが洋子の身体は火の玉のように熱かった。すでに夜の10時を過ぎていたが、浜崎は父の主治医 であった沖田義博に電話をした。当時はまだ救急体制など出来ておらず、病気の急変の時は自ら病院か、医院へ行かなければならなかった。

 沖田は公立病院の外科部長を退職し、開業して10年目の油の乗り切った時で、診療所の上に十床の病室と自宅を構えていた。浜崎の電話に「すぐ連れて来るよ うに」と返事した。彼と敏子は洋子を布団に丸めて、車で十分の道のりを診療所に急いだ。真っ暗な外来に電灯が点いて、沖田が二階から降りて来て洋子を診察 した。彼の顔が曇った。「すぐ手術をしないと命が危ない」と彼等に告げた。
声のない二人に、「虫垂炎、いわゆる盲腸炎の破裂で、腹膜炎を起こしています。 今からすぐ手術をします」と言うと、受話器を取って「緊急手術をするからすぐ来てくれ」と病棟と外部に電話をして、隣の手術室で準備を 始めた。直ちに病棟から若い看護婦が降りて来た。間もなく外から呼ばれて駆けつけた看護婦が、当時九州から戻っていた夏江であった。洋子を全員で手術台に 乗せると、夏江は手早く彼女の衣服を脱がせた。「今から手術を始めますので、待合室で待っていて下さい」と沖田は浜崎と敏子に言った。「助かりますか?」 との浜崎の問いに、「全力でやってみましょう」と彼は自信に満ちた眼差しを彼等に戻した。

 ク−ラ−のない待合室は蒸風呂のように暑い。敏子は泣いているのか、祈るように顔を伏せている。浜崎の額を汗が玉になって流れ落ちる。カチャカチャと言 う金属音が手術室から聞こえるが、洋子の声も沖田の声もここまでは届かない。時々「はい」「はい」と言う緊張した夏江の声だけが、部屋の動作を代表するよ うに二人の耳に入ってくる。浜崎は神がおられるなら洋子を助けてほしいと祈る気持ちで目を閉じた。こんな心境は彼にとっては初めての経験であった。長い地 獄の時間が不気味な静寂の中を流れて行った。数時間が過ぎたように思った。

 手術室のドアが開いた。
 沖田が絹の手袋を脱ぎながら二人の傍に、ゆっくりと歩み寄った。浜崎と敏子は急いで彼の前に進み出る。
「大丈夫ですか?」浜崎は恐る恐る訊ねた。敏子は青白い真剣な顔を沖田に向けて、最初の言葉を待った。
「やはり虫垂炎で、腸が破れて膿がお腹の中へ拡がっていました。すでに腹膜炎を起こしていたので高い熱が出たのです」、「それで手術は成功したのですか?」浜崎は性急に口を挟み彼の目を凝視した。
「虫垂を切除し、お腹に溜まっ た膿をすっかり洗い流しました。それと幸いなことに、最近出たばかりの新しい抗生物質が手元にあったので、十分腹腔に散布しておきました」沖田の黒い目に は自信に満ちた光りがあった。沖田は、緊張の糸が切れて無口になった浜崎と、涙で赤く目を腫らしている敏子に告げた。

「麻酔が切れれば意識は回復するでしょう。抗生物質が効いてくれれば明日には熱は下がると思います。今から二階の病室にお連れします」と言うと、手術室に 戻り洋子をストレッチャ−に移し病室に運ぶように指示した。 部屋から出て来た洋子はまだ目を瞑って、心地よさそうに眠っているようである。浜崎達も後を 追って病棟に急いだ。洋子の細い腕に注射針が刺され、大きなボトルから無色の液が静かに落ち始めた。二人は彼女の顔をじっと見つめ続けていた。真っ白な頬 に僅かにピンク色が現れたように思え、シ−ツの下の小さい胸が微かに、規則的に上下に動いているように浜崎には見えた。

「今夜はどなたか泊まってくれますか?」何時の間にか病室に入って来た沖田が言った。「はい、私が泊まります」咄嗟に浜崎は応えたが、「あなたは明日仕事 があるし、下の世話もあるから私が泊まります」と落ち着きを取り戻した敏子が主張した。勿論、彼も明日は勤務を休む覚悟はしていたが一応彼女の意見に従う ことにした。看護婦の夏江が幾つかの注意事項を敏子に伝え、付添い用の簡易ベッドを若い看護婦が持って来たが、夏江は「もし寝にくかったら、隣のベッドを 使って下さっても結構です」と言った。彼は病室は二人部屋だが、隣が空いているのに初めて気が付いた。

 ぼつぼつ東の空が明るくなる頃、浜崎は自宅に戻って床に着いたが、朝までまどろむことは出来なかった。翌朝会社には遅刻を連絡し、沖田医院に立ち寄った。洋子は早朝に麻酔が覚めたようで、部屋に入って来た彼に大きなすっきりした目を向け、可憐に微笑んだ。
 10日目に洋子はすっかり元気を回復した。口からも柔らかい物が食べられるようになり、手術の傷痕もほぼ癒えて、喜々として迎えに行った浜崎の車に自分で乗り込んで退院した。
 それから25年が過ぎていた



 右目が明るい光線を捕らえている。眼科部長は浜崎に左右上下に眼球を動かすように指示する。それを追っ掛けるように白い光りが付いて来る。部長は満足そうに、「右目の眼底出血はすっかり消えていますねえ」と言って、問題の左目の検査に移った。
 重苦しい空気が二人の間に停滞している。部長の息遣いが浜崎の耳に微かに伝わって来る。細い白い糸のような線がゆらゆらと揺れて、すぐに消えて行く。
 
 長い沈黙が過ぎ去た後に、「検査は終了です」と彼は伝えて、部屋の電灯を点けた。
「今日で左目の眼帯は外しましょう。次第に目が慣れてくると思いますが、疲れさせないようにして下さい」
 彼はそう言うと看護師にカルテを渡し、幾つかの指示を与え、ゆっくりと浜崎に対面した。
「眼科は今日で退院です。予定よりは少し長引きましたが、その分左目の視力が幾分か改善したのではないかと思います。あとはインシュリンの自己注射のやり方と、糖尿病の今後の注意などを内科の方でしてもらいます」「では病室は移るのですか?」

「いや、あそこは個室で差額が必要な部屋なので、もう二、三日のことですから、あなたさえよければあそこにいて下さって結構ですよ」
「それではお言葉に甘えさせて頂くことにします」
 浜崎は丁寧に頭を下げると、眼科の検査室を出た。眼帯を外した左目が何となく不自然である。

 病室に戻ると早速花瓶の花を 見る。左目は直前まで近づけても、やっと色が霞んで見える程度である。西側の窓を開いて、遠くに拡がる海を両目で確かめるように眺める。片目ずつ交互に見 ると、右目は確かに良くなったようで、遙に見える国際空港を飛び立つ飛行機の、赤い尾翼が光りの中に、はっきり見分けられる。しかし問題の左は濃霧の中の ように、風景らしいものは何一つ見えて来ない。目のすぐ前で上下左右に動かす指だけが、何とか物体の形を示すのみである。

 浜崎は歯痒さとやり場のない 怒りを覚え、頭を振って窓を閉めると、椅子にどっかりと腰を下ろした。両眼に溢れた涙が頬を濡らす。恐らくこの状態では今までの仕事に戻ることは不可能だ ろう。会社の幹部連中は、十分養生するようにと言ってくれるが、裏を返せば、お前にはもう来てもらわなくてもいいとの意味ではないのか、と彼は疑心暗鬼な 気分にさいなまれる。無念の涙がとめどもなく頬を伝ってシ−ツに落ちる。

 この時、彼の携帯電話の着信を知らせる振動波が我に返らせた。涙をハンカチで無造作に拭き取り携帯を開くと、落合達哉からのものであった。
「もう退院したのか? 例の件はどうする? TELしてくれ」と読める。浜崎は彼の思いやりが、今のやり場のない悲しみを打破する強壮剤のように感じ、新たな涙に目頭が濡れた。

 彼は立ち上がると、スリッパ を引っ掛けエレベ−タ−ホ−ルにある公衆電話のブ−スに急いだ。落合と無性に話がしたかったからだ。ホ−ルの椅子に二組の患者と家族がいる。各々小声で話 し合っているが、患者はいずれも片方の目に、今までの自分と同じように、眼帯をしている様子を何となく奇妙に思いながらブ−スに入る。

 退院が決まったことを告げると、「もう酒は飲めないのか?」と言う彼の言葉が返ってきた。長い間の酒飲み友達には相応しい第一声である。「残念だがこれからは禁酒を守るための自分との戦いだ」と浜崎は応える。
「それじゃお前の退院祝いは、ノンアルコ−ルビ−ルで乾杯するか」と言って、落合は電話の向こうで声を上げて笑った。彼と言葉を交わしていると、浜崎の胸 の内で渦巻く苦悩が根雪を溶か すように柔らかくなって行く。

「沖田医院へ寄って、言うだけのことは言っておいてやったぞ。先生も驚いたようだ」
「何を言ったんだ?」
「今までの経緯だ。お前が片目を失ったこともな。仕事も出来なくなったから何とかしてやってくれってね」
「裁判のことも言ったのか?」
「はっきりは言わなかったが、少し匂わせておいたよ」「君の親切は嬉しいけれど、ちょっとそれは早過ぎるんじゃないのか」

 落合はそれには応えずに突然切り出した。
「それで告訴の件はどうするんだ? お前さんが失業した時のことを考えて決めろよ。いいな」
「それは分かっている」と応えたものの、彼にはまだ決心出来ないでいるのが現実であった。浜崎は親友の友情を裏切ることになるのは辛かったが、森本夏江が 見舞いに来たことは言わなかった。彼が夏江と交際していたことは、当時からの仲間の落合はよく知っていた。もし彼にそれを話せば、恐らく彼は「昔、関係の あった女性を使うとは卑怯だ」と言って沖田医院へ、怒鳴り込みかねない様子だったからだ。確かに落合の心遣いには頭の下がる思いであるが、逆にこれ以上彼 に独走されては問題がこじれて、浜崎達の方が不利になるようにも思った。

「済まないが、その件は退院するまで待ってくれ。もう一人相談したい人もいるし、 退院したら連絡する」
「よし、納得、ゆっくり養生しろよ」
 落合らしい簡潔な話し方で電話が切れた。
 
二日後に内科からも解放の許 しが出た。インスリンの自己注射は片方の目でも、間違いなく出来るようになったし、食事の注意は栄養士から厳しく教えられた。内科の医師から「今度アルコ −ルを飲んだら、良くなった方の目も失うことになるから覚悟をするように」と強い口調で命令された。退院は嬉しいが、この指図は浜崎には一番こたえた。酒 が飲めないことも辛いが、もし両目が見えなくなれば、意志の弱い自分は一人では到底生きて行く自信はなく、恐らく自ら死を選ぶのではないかとさえ考えた。

 夕食を終えて、彼は食器のトレ−を規定の場所に戻して部屋に戻り、明日の退院の準備でもしようとした時、ナ−スコ−ルが女性の面会者の来訪を告げた。
 不審に思って待つ浜崎の前に 現れた女性は、紛れもなく洋子であった。浜崎は夢を見ているような気持ちで、彼女を見続けていた。ほど良く肩に懸かる髪は、濃いブラウンで艶があり、手入 れがよく行き届いているようである。二重の大きな黒い目と長い睫毛に幼い頃の面影が蘇る。鼻筋の通った形のよい鼻は敏子の若い頃に似ているように瞬間思っ た。

「お父さん、長い間、御無沙汰して済みません」と言って神妙に頭を下げて入って来た。
「やあ、洋子、久し振りだなあ」
 浜崎は我に返って、慌てて大きな声で返答した。
「速達をもらって、びっくりして来ました。もっと早く知らせてくれればよかったのに」
 洋子は物おじしない態度で言った。はきはきとしたものの言い方は、幼かった頃の彼女と少しも変わっていないように思え、懐かしさが一度に込み上げてきて、目頭が熱くなった。

「ずい分長い間、話もしてなかったから、迷惑を掛けるといけないと思って」と言って、親の目から見れば、すっかり大人になった娘の洋子をしみじみと見つめた。彼の「迷惑を掛けるといけない」と言う一言に、今日までの親子の関係が凝縮されていた。
 彼はスチ−ル椅子から立ち上がると、「病室はうっとうしいから面会室へ行こう」と言って、パジャマの上にガウンを引っ掛け洋子を先導した。

 エレベ−タ−ホ−ルの横にある面会室は、電灯が明かるく、暖房がよく効いている。窓から見える暗いビルに並ぶ四角い窓は、どれにもまだ明かりが灯り、年 末の忙しさが窺われる。彼は部屋の隅にある自動販売機で、コ−ヒ−缶を二本買って、一本を洋子の前に置いた。
 彼女は急いで来て喉が乾いているのか「ありがとう」と言うと、プルトップを開けて、二口ほど飲んだ。
 洋子は喉を潤すと、彼の顔を見据えて口を開いた。

「子供が出来て親になった今は、お母さんには悪いことをしたと思っています。でもあの当時は結婚を許してくれなかったお母さんを、本当に恨んでいたわ」

「お父さんも、洋子の味方になってあげられなくて、悪いことをしたと悩んでいたんだ。でもあの時のお母さんの恨みの気持ちは、異常なほどに強かったので、お父さんは口を挟めなかった。悪かったと思っている」
 浜崎が何時かは洋子に言いたかった心情であった。
「いいえ、お父さんを恨んではいないわ。それに結婚式の後、吉成さんに沢山のお金を下さって、大分後になってから彼から聞きました。お礼も言わないで済みませんでした。あの頃は吉成さんの給料も少なくて、本当に助かりました。ありがとうございました」

 彼女は慇懃に頭を下げた。彼は潤んだ目で彼女を見続けていた。
「お父さん、それで目の方はどうなの?ちゃんと見えるようになったの?」
 幼い頃の彼女のように、大きな黒い瞳で彼の目を覗き込むようにして訊ねた。
「右目は何とか回復したけれど、左目はどうも駄目らしいね。なってしまったものは仕方がない」

「それでお仕事は続けられるの?」
「会社は何とかしてくれるようだが、元の仕事に戻るのは無理だろうね。残念だけれど」
「いつ、退院出来るの?」
「さっき許可が出たばかりだ。明日帰ろうかと考えていたところだよ」
「それはよかった。それで一体どうして失明したの?」 洋子は真剣な眼差しで彼を凝視した。
「診断は糖尿病性網膜症とのことだ。糖尿病が随分悪くなっていたと言われた」

 浜崎は約一ヵ月前緊急入院してからの経緯を洋子に語り、右目はどうにか元の視力に戻ったが、左目は網膜の出血がひどく大きな手術になった。だが、結局視力は殆ど回復しなかったと話した。しかし糖尿病の治療を沖田先生に任せていたことには触れなかった。
 洋子は黙って彼の口許に目を止め、時々小さく頷いて彼の話を聞いていた。彼は一通り語り終えると、改めて洋子の顔を見つめて彼女の近況を問うた。

 洋子は彼女の夫の吉成が日本に帰化して姓を竹中と改めたこと、今は中堅の保険会社の営業課長として働いていて、上司の信頼も厚いようだなどと話した。ま た彼女には四歳の娘と二歳の息子がいるが、今日は夫に預けてきたとも言った。浜崎はこのように洋子と面と向かって話すことは、もうないだろうと考えていた だけに、この再会が現実とは信じられない気持ちでいた。敏子の葬儀に見かけたとはいえ、彼の心の中では、洋子はすでに遠くへ去って行った過去の人になって いた。敏子は口には出さなかったが、彼女もまた死ぬ直前まで、洋子とま見えるこの日を待っていたに違いなかったし、終焉には彼女と一言でも言葉を交わした かったであろうと思うと、胸が張り裂ける思いがした。

「それで、お父さんが書いていた相談って何のこと?」 浜崎は一瞬怯んだが、いよいよ話さなければならない時が来たと心を固めた。ただ有りのままを洋子に話し、彼女の判断を待とうと決めて口を開いた。
「実は、沖田先生を訴えろと言うお父さんの友人がいるんだ。お父さんの目が失明したのは、沖田先生の治療が間違っていたからだと言うんだね」
「お父さんは沖田先生に診てもらっていたの?」
「そうなんだ。優秀な患者だと言われていた」

 彼はそう言うと冷たくなったコ−ヒ−を口に含んだ。「それがどうして?」
 洋子がそう言うのは当然であった。彼自身も沖田を信じて疑わなかったからである。
 浜崎は親友の落合や医師の藤本が、沖田医師の彼に対する診療に重大な過ちがあったと話したことを端的に彼女に語った。
「もし適切な検査と、正しい治療がなされていたら、お父さんは失明することはなかった」と藤本からはデ−タを示して説明を受けたことも話した。親友達が目 の不自由のまま一人で生活することを心配して、裁判をしたらきっと勝てるから、訴えたら力になると言ってくれていることも正直に伝えた。

 洋子は彼の話を時には小さく頷いて、真剣に聞いていた。浜崎の話の途切れるのを待って慎重に口を開いた。「それでお父さんはどうするつもりなの?」
「結論が出せない。だから洋子、あんたの意見が聞きたかった」重い口調である。
 彼女は暫く祈るように目を瞑って、気持ちを整えているように見えた。彼は彼女を見つめたまま次の言葉を待った。彼女の長い睫毛が微動している。彼等以外には誰もいない面会室は不気味な静寂に包まれている。

 ただナ−スステ−ションの明かりだけが、暗い病棟の廊下に光を投げている。
 彼女の目が開かれ、唇が動いた。
「このことはお父さんの問題なんだから、私には気を遣わないで、お父さんの好きなようにしてくれればいいと思う。でも沖田先生は私にとっては、命の恩人には変わりないし、もし先生がいなかったら、恐らく私は今、ここにいなかったでしょう」

 話し終えて洋子は哀しそうな目を浜崎に向けた。
 彼は無言で彼女の顔を注視していた。彼女は言葉を継いだ。「お父さんはさっきこれからの生活の不安のことを言ったけど、それは心配しないで。吉成さん も、もしお父さんが仕事を辞めなければならなくなった時や老後は、よかったら是非私達の所に来て下さい、と伝えてくれと言っていますから」
 彼女はそう言うとゆっくり呼吸を整えてから、浜崎を正視した。それから、
「もしお金のためだけの裁判なら、私はやはり同意は出来ません」と小声だがきっぱりと告げた。

 浜崎は大きく頷いて、残っている冷えたコ−ヒ−をぐっと飲み干し、左右の目でしっかりと洋子を見た。
 左の目と同様に、今まで深い霧に閉ざされていた彼の心に、洋子の一語は鮮明な一筋の光りを投げ込んだ。
 翌年の年賀状に沖田医院からのものが含まれいた。そこには年賀の挨拶の後に、「この三月末で新進の後輩に医院を譲ります」と付記されていた。

                                      (了)

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