あれから33年・・・

 それは1979年、今から約34年前。 秋も深まったある昼休みでした。
 当時働いていた会社の同僚達と昼ごはんを食べていた時でした。 その日はどういうわけか病気の話になり、一人の友達が、「母が数年前乳癌をしたの・・・。」 もう一人の友達も、「私も胸にしこりがあって取ってもらったの。良性だったからよかったわ! 貴方も30歳を越えているんだから自己触診した方がいいよ!」と言われ、私がまさか。 その時はそう気になりませんでした。 

 ところが、ある日ふと気になり触ってみると左乳房の下の内側に小さなしこりがあったのです。え〜、私にもある! ビックリはしたものの悪いものではないと思ったのでそうショックではありませんでした。 しかし、日が経つにつれて、もし悪いものだったら・・ 徐々にそう思うようになり、女性の先輩に相談し専門医のいる病院を教えてもらいました。
 そしてある日決心して大学病院を受診しました。 色々検査を受けた結果、多分良性だという事でほんの数日の入院と言われ、大そうな準備をする事なく気楽な気分で入院しました。 勿論、執刀医からは「万が一の場合は乳房全摘出手術になる可能性もあります。」と告げられ承諾書にサインし入院しました。

 1980年3月10日朝いよいよ手術室へ。 家族に「朝早くから来る必要はないよ!」と伝えてあったので誰も来ていませんでした。 同じ病室の方々が「頑張って行ってらっしゃ〜い!」と送り出してくれました。 
 一時間もかからないといわれていたのに、目が覚めてその部屋の時計を見ると確か12時を超えていたと記憶しています。
「エッ、なんでこんなに時間がかかったんだろう? あ〜多分麻酔が効きすぎたんだ。」と思ったものの、ガーゼが胸の上まできており「変だなあ・・・。」と思いつつ病室に戻りました。 母と兄が来ていました。 どうも表情が明るくない。 その時徐々にこれはダメだったのかも・・と思い始めました。 胸に巻かれているガーゼの大きさ、胸の横になにか小さな袋が付けられている状態を見てなんとなく悟る事が出来ました。 それでも、不思議とそうショックではありませんでした。 薬剤の影響もあったのでしょう。
 しかし、まだ頭がすっきりしない中で、あ〜、もう結婚は諦めなければならないなあ・・・と思いました。

 手術後、その日から運動が始まりました。 腕は固定されていたので指先の動かしからスタート。 日増しに運動量は増えていきました。 ベッドの前に滑車が取り付けられ毎日滑車を使って腕の上げ下ろし運動。 私の場合は胸筋が割合残っていたので運動は苦ではありませんでしたが、 切除部分の多かった患者さんにとっては痛くつらい日課の運動のようでした。

 一ヶ月余りの入院生活はそう落ち込むことなく楽しく過ごせました。 同室の方々が皆さん明るくいい方々ばっかりで笑いが絶えませんでした。 消灯後もカーテン越しに楽しくお喋りしてかなり賑やかだったので看護師さんに注意されたほどでした。
 主治医の先生にも恵まれました。 特に研修医の主治医の先生は優しく私が色々我が儘を言っても暖かく受け止めて下さいました。 退院に当たり、私は執刀医の先生に「もし、もし、理解して下さる方が現れたら結婚したいので抗がん剤は避けたいのですが。」と淡い期待を打ち明けました。 結果、希望を聞いて下さり抗がん剤は投与されませんでした。

 手術から約10ヶ月後、悲しい出来事が起こりました。 父が急死したのです。 
 69歳でした。 私の手術を見届け、経過良好を見て安心したのでしょうか・・・。 
 告別式の日は雪が舞い、あ〜、これはきっと父の涙なんだと感じました。
 その日から母との長い2人暮らしが始まりました。母は私を全面的にバックアップしてくれ、私はただ仕事に没頭できる毎日でした。

 それから数年経ったある検診日、「骨シンチの検査で胸骨にちょっと気になる影が見られます。」と告げられたのです。 転移なんて考えもしなかったのでちょっとショックでした。 その時は未だはっきり転移という判断が下されず暫く様子を見ることになりました。 そして、最初の手術から5年目、先生は色々検査結果を見て手術することを勧められました。
 あ〜、又手術か・・・。 それでも不思議と余りショックを感じませんでした。 
 ただ、又会社に2ヶ月ほど休暇をお願いしなければならないのが本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。 5年前、1週間ほどの休暇をお願いしていたのが、2ヶ月もかかり、どれだけ会社に迷惑をかけてしまったか。
 5年前は、退院後1週間ほど自宅療養の後初めて出社した時、皆にどんな目で見られるのかなあ・・・。 聞かれたらなんと答えたらいいのかなあ・・・。 不安で一杯でした。 でも、当時の上司は私の休んでいる間アルバイトの人を雇い、私が出社する前日に辞めてもらっていました。 そして社員の方々は誰一人として病気のことを聞くこともなく以前と全く同じ態度で接してくれました。 今思い出しても上司の暖かい配慮に胸が熱くなります。 

 最初の手術から丸5年後、1985年4月10日二回目の手術へ。 今回は胸骨の一部切除手術です。 1回目の手術の時は、手術室へ行く道中でなんとなく記憶が薄れた事を思い出し、今回はしっかり記憶に残そうと思いました。
 手術室はどんな所? どんな雰囲気? どんな準備がなされているの? 好奇心でいっぱいでした。 意識が薄れていくまで観察していたのを覚えています。 今から思えば変な患者だったと思います。
 手術の後は順調に経過しました。 ただ、今回は自力では起き上がれずベッドの足のほうの柵に紐を結びそれを引っ張って起きていました。 

 二回目の入院も1カ月余り続きました。 今回は何の躊躇もなく抗がん剤の服用を決断しました。 服用後翌月からぴたりと生理が止まりそれからは更年期障害のような症状との闘いが始まりました。 まさにホットフラッシュとの闘い。 
 徐々に来る普通の更年期障害ではなく突然やってきただけに体の準備が出来ていません。 体中の血液が逆流しているのではないかという感じでした。
 抗がん剤は経口薬で、エンドキサンと5FUという薬でした。 一ヶ月飲んで2ヶ月休止で5年間続きました。 さすがの私もこの一ヶ月の服用期間はしんどく通勤の満員の地下鉄はつらかったので、服用期間中、朝は殆んど毎日タクシーを利用していました。
 一回目の手術の後本社に異動になり念願の職に就くことが出来ました。 普通は病気を抱えていれば余り考えられない異動だったと思います。 新しい挑戦の機会を与えて下さった会社に心から感謝しています。 ただ、とても忙しい部署であったため体力的には少しきつかったのですが、この会社で頑張るしかないと決心していたので耐えられたのだと思います。 

 その後幸いにも転移の兆候がなく、年一回の定期検診を同じ大学病院の同じ主治医の先生に20年間受け続けることが出来ました。 20年を過ぎた時その検診制度は終わりました。 「今のところ特に異常はありません。良かったですね!」と言われ先生とお別れすることになりました。
 大学病院の検診はなくなったものの、その後も市民検診を年一回受け続けました。
 不安のない幸せな毎日の生活の中で、母も歳を重ね80歳を過ぎていました。少しずつ老人性認知症が現れ始めましたが、生活に支障が出るほどではありませんでした。 それでも少しずつではありますが進行しているのは確かでした。 
 仕事の代わりはあっても最愛の母の代わりはない。 なんとしても母を守りたい。 
 長年勤めさせて頂いた会社を辞める決心をし、以前から勉強を始めていた日本語教師になる事にしました。 正に、教える事は学ぶ事です。 色々な国の生徒から色々な事を学ばせて頂きました。 本当に楽しく有意義な第二の人生でした。 私の出掛けている時間帯はヘルパーさんにお願いし、決して母を一人にすることはありませんでした。 デイサービスに通った数年も、ボランテイアを兼ねてそうっと母を見守りました。 幸い近くに兄夫婦が住んでいたので色々助けてもらいました。 
 母の認知症も極端に進行することなく、ホームドクターの暖かいサポートを受けながら88歳の天寿を全うしました。
 退職後は母中心の生活だったので、母を亡くしてからは体調をすっかり崩してしまいました。 母を頼り、精神的に自立できていなかった事を随分反省しました。そして、やっと自分の生活リズムを取り始め、落ち着いた日々を取り戻しつつありました。 

 今から6年前。 最初の手術から27年。 それは最愛の母を亡くして3年ほど経った市民検診で「肺に影があります。」と言われ、「えっ、何のことでしょうか?」と先生に聞き直しました。 「正しく判断する為にはCTを撮った方が良いでしょう。」と言われ予約を取って帰宅しました。
 予約日に行き検査を終わって先生から、「肺に多発性の転移が見られます。」
 エ〜、今になって何で? 今さら? 全く予期していなかった事だけに頭が真っ白になりどう歩いて家にたどり着いたか覚えていません。 ぼんやり思い出せるのは、親しくしているおばあちゃんの部屋へ立ち寄って「肺がんみたい。」とまるで夢遊病者が適当な事を口走りながら歩いていたようです。なぜそんな事を言ってしまったのか・・。 
 その夜は一人でいるのは余りに不安だったので親しくしている友達の部屋へお邪魔させてもらって10時頃まで一緒に居させてもらいました。 
 後日、立ち寄らせてもらったおばあちゃんは「誰が肺がんだったの?」と聞かれ、その時は正気に戻っていたので、「あっ、親戚の者です。ご心配をおかけしすみませんでした。」と嘘をついてしまいました。

 再発が判明してから大学病院(前回とは異なる)の腫瘍内科でホルモン治療を続けています。
 この6年間色々インターネットで検索したり、テレビのがん関係の番組を録画したり、友人から情報を入手したり、自分なりに勉強しました。 友達の中には余り知識を付けないほうがいいという人もいましたが。
 4年半続けていたホルモン治療も、ここ1年腫瘍マーカーが上昇し続けているため薬を代える事になりました。 私はどうしてもセカンドオピニオンを受けたく、恐る恐る先生にお願いしたところ、快く紹介状を書いて下さいました。
 セカンドオピニオンの先生のご意見をいろいろ聞かせて頂いた上で、今の病院におまかせしようと決心しました。

 再発が判明して6年近く経ちました。 年と共に体力は落ちてきていますが、今の所無症状で自分ががん患者であることを時々忘れるほどです。
 再発以来、色々な民間治療の情報を探し受けました。 大学の先生方はあまり民間治療には興味を示されませんでしたが、私は何らか僅かの効果でも現れれば・・・、
 少しでも進行を食い止められればと切に願い、主治医の先生に数回紹介状を書いて頂き民間治療を受けました。 
 再発が判明して一番に受けた民間治療は免疫細胞療法でした。友人のお父様がやはりがんを患っておられ、その友人に免疫細胞療法と言う治療があることを聞き、早速パソコンでクリニックを調べ1クール受けました。 
 次は、樹状細胞療法です。 これは友達が新聞の記事の中で見つけて勧めてくれました。 そのクリニックは東京都内にあり、ちょっと通院は無理だなあ・・と思って、ネットで探していると関西に初めて同じ内容のクリニックがオープンしている事を知り、早速予約を取り1クール受ける事にしました。 この2つの治療は自己の細胞を治療に用いる為、殆んど副作用がありません。 残念ながら、保険が効かないため両方とも1クール大体150万円くらい掛かりました。 
 その他に超高濃度ビタミンC療法も良いという情報を聞き受けました。 これは一回1万円でした。一年近く受けたと記憶しています。 これは字の如く、超高濃度のビタミンCを一時間くらいかけて点滴します。 その他に、友達の患者さんから、保険が利く温熱療法(ハイパーサーミア)も良いと聞き一年ほど受けました。 
 現在までに、再度、免疫細胞療法と樹状細胞療法をそれぞれ前回と違うクリニックで受けました。かなり高くつきましたが、老後の楽しみにと貯めていた貯金を当てる事にしました。 このような民間治療が厚生労働省の保険適用になる日が来る事を願っています。
民間治療は副作用が殆んど無く、患者にとってはとても楽な治療です。 ただ、治療効果のデータが出ていない為効果の有無はわかりません。 でもやってよかったと思っています。 しかし、残念ながら今もマーカーが上がり続けております。

 主治医の先生からCT画像やマーカーの数値をみて、抗がん剤に切り替えなければならない段階に入ったと言われかなりショックを受けました。
 いつかはこんな日が来るだろうとは思っていましたが、症状がない為安心していました。 本当に「がん」という病気は何十年経っても決して安心できるものではないと思い知らされました。 覚悟するのに暫く時間がかかりました。
 信頼している友人に相談させて頂き、暖かいアドバイスを受け感謝しています。
 ある記事の中に「副作用を恐れて抗がん剤治療を受けないのは、事故を恐れて電車や車に乗らないのと同じ。 絶対一度は受けるべきです。」という言葉が決心する後押しの一つになりました。

 私はここ数年、がん以外に色々な病気・症状を抱えています。 パニック障害、尿路結石、緑内障、骨粗しょう症、めまい症、腰痛・・等など。
 一人で生きていて寂しい時や不安な時も多々ありますが、多くの友人の暖かい励ましは何物にも代えがたく本当に、本当に心から感謝しています。 
 抗がん剤を受けるとなればどんな辛い症状が現れてくるか分かりません。 辛くて途中で挫折してしまうかもしれません。 何が起きても泰然自若でいられるよう心掛けなければと思っていますが、果たしてそう出来るでしょうか・・・。
 「天は自ら助くるものを助く」 自立して奮闘・努力する者を天は助けて下さり幸福をあたえて下さるそうです。 更なる精神の修養が必要と思っています。

 再発以来、「人生とは?」「生きるとは?」「命とは?」「生き甲斐とは?」「夢とは?」 時々、哲学的な話を聞いたり、本を読んだり、成功者のインタビューを聞いたりして、心に残った色々な言葉をランダムに書き綴っています。
 将来、姪たちや後輩達が困難にぶつかった時、その言葉を読んで少しでも心軽くなってもらえればと思っています。
 これから始まる抗がん剤治療は今まで経験したことの無い未知の世界の事です。勿論、不安でいっぱいですが、何とか辛い日々の生活の中で小さい幸せを見つけていければ!と思っています。

 医療の現場は日進月歩です。
 京都大学の山中教授がiPS細胞の発見で昨年ノーベル賞を受賞されました。今後どんな新技術、新療法が生まれてくるか分かりません。
 明日の素晴らしい新薬を期待して、これから始まる抗がん剤治療を頑張りたいと思っています!!
                             
                     大阪府 coco−mico 
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