act 1 :「出会いました」
日常は、いつもつまらない。
一体、どれだけの出来事が、私の心を満たしてくれるというのか。
変わり映えのない通学路に、退屈な授業。
ほんのわずかなアクシデントをもたらしてくれる昼休みさえ、私の心を揺さぶることはない。
帰宅すれば、ありふれた食事に聞き飽きたセリフ。
まるでハムスターのようだ。
足掻くように走り続けているつもりでも、傍から見れば同じ場所をまわり続けているだけ。
今日だって、退屈な学校から帰ってくれば、母親の小言が待っていた。
「、宿題は終わったの」
「そのうちね」
帰ってきて一時間だよ。
シャワー浴びて、ゆっくりする時間にしかならない。
帰ってきてすぐに宿題に手をつけるなんて、今時の小学生でもやりゃしない。
「早く済ませてしまいなさい」
「わかってるわよ」
うるさい母親だ。
こんなに小言くさい彼女が、どうやって親父と付き合ってたのか、不思議でしょうがない。
どっちかって言えば、親父とはソリがあわないような気がするんだけどね。
……おいおい。こっち、睨んでるよ。
おっかないなぁ、もぅ。
「やるわよ。やればいいんでしょッ」
大体、高校生にもなって宿題をやらなくちゃいけないのかねぇ。
名門女子高か何か知らないけど、高校生にもなって宿題を出すか、普通。
普通は出さないよ、ホント。
しかも、これが素行点に響くっていうんだから、結構タチが悪い。
まともになんて、やってられないわけ。
でもまぁ、適当に流しているあたしが言うのもアレなんだけどね。
小煩い母親のいるリビングから逃げ出して、自室にこもる。
会社の社長業をやってる親父のおかげで、ウチは結構大きな屋敷に住んでいる。
そのせいか、二階の自分の部屋に入ってしまうと、もうリビングの声は聞こえない。
食事に呼び出されるときも、携帯電話で呼び出されるか、メイドさんが呼びにくるくらいだ。
「でもね、いつまでも大人しいちゃんだと思ったら大間違いだからね」
この日のために用意しておいた、山登り用のロープ。
これをベランダの先に括りつけてしまえば、あとはこれを伝って降りるだけ。
こんな日のために、せっせと握力だけは鍛えておいたのだ。
もちろん、このスマートな体形には、無駄な脂肪なんていうのは一切ないのも自慢の一つだ。
……まぁ、少しは欲しい部分もあるけどね。
「さて、準備オッケー」
うむ。ロープの結び方も、練習したかいはあるかな。
グッと引っ張っても、ロープの結び目が解ける心配はなさそうだ。
これなら、十分にこの部屋からの脱出も可能だ。
家の中を通って外に出るのは、メイドたちの目があって難しい。
その点、この方法なら誰にも見つかることなく、外に出られるってわけ。
携帯電話を部屋に置いておけば、電話で呼び戻される心配もない。
今の世の中、財布さえあればってのは嘘だけど、携帯さえなければ連絡がつかないことが多いしね。
ベランダに伏せるようにして、辺りを確認する。
「右よし、左よし……よしっ」
幸い、今は庭に出ているメイドもいないみたい。
これなら楽勝ね。チョロイもんだわ。
誰も、深窓の御令嬢で通っているアタシが、よもやベランダからロープ一本で逃げ出すとは思うまい。
両手両足をしっかりとロープに絡ませて、ゆっくりと下へ降りていく。
十分に鍛えたつもりだったけど、握力は結構キツイ。
物を握るのと体重を支えるのとでは、ちょっと違うのかな。
「……ん。もう…少し」
すぐ下に、地面が見えた。
手入れされている芝生の上なら、少し高くから飛び降りても平気…の筈。
アタシは思い切ってロープから手を離した。
軽い浮遊感があって、オシリから地面に着地する。
何かの本で読んだけど、なるべく平べったい部分で着地したほうが、怪我が軽くてすむらしいのだ。
うむ。すばらしい博識ッ。
「イテテ……さて、と」
ちょっぴり痛いオシリをさすりながら立ち上がろうとすると、目の前には見知らぬ手。
何か、手を差し伸べてくれてるみたいだから、とりあえず手を重ねた。
すると、決して無理やりではないけれど、力強く引っ張ってくれた。
「あ、ありがとう」
「さんですね」
「えぇ、そうよ。アンタは?」
「今日からこちらで家庭教師を勤めさせていただきます、と申します」
アタシの手を取っている少し年上のお兄さんは、そう言って微笑んだ。
見たところ、大学生かな。
縁なしメガネに、少し眺めの髪。着ている服は黒スーツだ。
どっちかって言うと、これから友人の結婚式に出る、ややアマちゃんな坊っちゃん。
「さんね。妹の家庭教師かしら」
「さんの家庭教師です」
はて……家庭教師なんて、雇った記憶はない。
一体、どういうことなんでしょう。
少なくとも、昨日まではそんな人、いなかった筈。
「困っていらっしゃるようですけど、まずは家の方に挨拶をしなければいけませんので、案内してもらえますか」
せっかく抜け出してきたのに?
また、逆戻りかいな。
アタシは小さくため息をつくと、預けていた手を離した。
どうやら、コイツはアタシの家庭教師らしい。
大方、お節介な母親が雇ったんだろうけど。
「二階からロープ一本で下りてきたんですね。いやはや、逞しい」
「行くわよ。それから、そのロープのこと、言いつけたら即効でクビにしてやるから」
この手のタイプは、釘を刺しておかないと大変なことになる。
何気なしに致命的なことをポロリとこぼすタイプと見た。
アタシはあからさまに怒りながら、その男の先に立って玄関へと戻りだした。
逃亡の第一歩から他人に会うし、おまけにそいつのために玄関に逆戻り。
はぁ……ツイてない。