卒業間近
(前編)


「ねぇ、ユキちゃんだけどさ……」

「うん。最近、ちょっと元気ないよね」

「卒業が危ないんでしゅか」

「おシゲちゃんじゃないんだから」

 くの一教室の窓際に頬杖をついて外の景色を眺めているユキの背中を遠巻きにしながら、
卒業を控えたくの一教室の生徒たちが、ささやき声でユキの状態を案じていた。

 それもそのはずで、日頃から活発とは言えないまでも、決して無口ではないユキ。

 その彼女が、ここ一週間、まともに口をきいていないのである。

 親友のトモミでさえ、近寄りがたい雰囲気をまとっているのだ。

「はぁ……」

 ユキのついたため息に、教室にいた全員の視線が窓際へ注がれる。

 その視線の数をまったく気にせずに、ユキは窓から体を離すと、そのまま教室を出て行った。

「……トモミ、追いかけてよ」

 黙って出て行ったユキの仕草に、シオリが困惑した表情でトモミを促す。

 しかし、トモミにしたところで、あの様子のユキに声を掛けられそうにはなかった。

「そんなこと言われても」

「トモミ、親友でしょ」

「じゃあ、シオリこそ行ってよ」

「嫌よ。トモミ、何か聞いてないの」

 シオリの言葉に、トモミが首を横に振る。

「何も聞いてないわ」

 トモミに心当たりがなければ、他のメンバーにはさらに心当たりがない。

 確かに卒業を控えて気分が重くなるものかもしれないが、それにしてもユキの沈み具合は尋常ではない。

 心配そうにユキの消えた教室のドアを見つめるメンバーの顔にも、その沈痛な空気が伝染している。

「でも、理由なしにあんなに沈むかなぁ」

「卒業ってだけじゃなさそうだよねぇ」

 クラスメートの言葉に、トモミが少しだけ表情を和らげた。

「そうね。心当たりに聞いてみるわ」

 そう言って教室を出たトモミの足は、自然と食堂へ向かっていた。

 

 

 食堂の手伝い当番は、上級生にもまわってくる。

 それは卒業を間近に控えた彼らにとっても同様で、キリ丸は馴れた手付きでタマネギを刻んでいた。

「オバチャーン、終わったよ」

 奥で煮込みの準備をしている食堂のオバチャンに声を掛けて、キリ丸は流し台で手を洗った。

 冷たい水で手を洗うと、手拭いで手をふいて、一息いれる。

 顔を上げたキリ丸の前にいたのは、思案顔のトモミだった。

「あれ、トモミちゃん。早いね」

「あぁ、ちょっとね。キリ丸、ちょっと出てこられる」

「あぁ、かまわないけど」

 同じ当番の下級生に後を任せ、キリ丸とトモミの二人は食堂の裏にある薪割り場へと移動した。

 トモミが素早く周囲を見回し、誰もいないと確認してから、キリ丸へと話を切り出した。

「あのさ、ユキちゃんのことなんだけど」

「ユキちゃんのこと」

「そうなのよ。あの子、最近沈んでるみたいなのよ。それで、キリ丸は何か知らないかと思って」

 トモミの話に、キリ丸は小首をかしげた。

 元々、くの一教室とそれほどの交流があるわけでもない。

 トモミにわからないことが、キリ丸にわかるわけもなかった。

 少し考える素振りを見せてから、キリ丸は少し口元を尖らせて食堂の方を指した。

「そんなの、食堂のオバチャンに聞けばいいじゃないか」

「うーん、そうなんだけど……」

 躊躇う気配を見せるトモミに、生来からお人好しのキリ丸は、彼女のそばに寄った。

 トモミの顔を覗き込むようにして視線を合わせると、仕方ないといったように苦笑する。

「わかったよ。乱太郎たちにも訊いといてやるよ」

 キリ丸の申し出が、トモミの表情を緩めさせる。

 幾分か表情を和らげたトモミに、キリ丸が話はそれまでとばかりに戻ろうとする。

 それを呼び止めて、トモミはキリ丸の肩に触れた。

「それにしても、キリ丸が卒業するなんてね」

「それって、嫌味にしか聞こえないぜ」

「そんな意味じゃないわ。ただ、早いなって」

 トモミの言葉に寂しさが混じっていると踏んだキリ丸が、肩の違和感をそのままに、視線を空に上げた。

 緑の葉が出始めた木々の間からは、あと数週間もすれば、綺麗な花を咲き始めるだろう。

 そしてそれは、彼らの卒業がさらに間近に迫ったことを報せる合図となる。

「もうじきだもんな」

「本当に」

 キリ丸の動きにあわせて空を見ていたトモミが、キリ丸の肩から手を離す。

 それを合図に視線をあわせた二人は、どちらからともなく微笑みあった。

「キリ丸はさ、卒業したらどうするの」

「しばらくはバイトだな。土井先生の処にいつまでも厄介になるわけにもいかないだろうし」

「宿無しで生活するんだ」

「長屋はもう見つけてあるんだ。だから、そっちに移る」

 食堂から、白い湯気が上がる。

 忍術学園全員の腹を満たす、大量の米が炊き上がった合図だ。

 二人はゆっくりと歩き出しながら、話を中断する気にはならなかった。

「トモミちゃんはどっかの城の忍者だろ。やっぱり、くの一のエリートは違うねぇ」

「まぁね。何なら、雇ってあげてもいいわよ」

「こき使わされそうだから、ヤだね」

「あら、これでも他人には優しいのよ」

 舌を出して答えたキリ丸に、トモミは頬を膨らませた。

 一人前の忍者とは言え、まだまだ若い二人は感情を隠すことに長けてない。

 また、それも楽しいと思えるほどに、二人の仲間意識は強い。

「先輩、お先です」

 給仕当番だった下級生が、いち早く食堂で食事を始めていた。

 後輩たちの食事のにおいにつられるようにして、二人は食堂のオバチャンから定食を受け取る。

 まだたくさん席の空いている食堂の片隅に腰を下ろし、熱い味噌汁をすする。

 身体の芯から温まる食事を摂っていると、次第に顔見知りの生徒が食堂に姿を現しだした。

「オバチャーン、定食ちょうだーい」

「はいよ」

 活気を見せ始める食堂に、ユキの姿は最後まで見えなかった。

 

 


 運動場さえも軽く埋め尽くすほどの一面のドカ雪は、忍術学園の機能を簡単に止めてしまった。

 シーズン最後と言える時期のドカ雪に、学園総動員の雪かき作業が始まる。

 屋根の上から運動場まで。

 食堂のオバチャンお手製のぜんざいをご褒美に、全員が自分たちの分担を片付けていく。

 くの一教室の生徒たちにしても例外はなく、ユキは一人で見張り櫓の雪下ろしを手伝っていた。

 すぐそばでは、忍犬のヘムヘムが大事そうに鐘を磨いている。

「寒いわねぇ」

「ヘムッ」

 思わず愚痴をもらしたユキに、ヘムヘムの叱責が飛ぶ。

 手にしている雑巾を突きつけられ、ユキは意地の悪い笑顔を浮かべ、冷たくなった指先をヘムヘムへ向けた。

「ヘ、ヘムっ」

「待ちなさい、ヘムヘム。ヘムヘムの毛皮って暖かそうよねぇ」

「ヘムっ、ヘムヘムッ」

 冷たい手を突き出したユキと、あわてて逃げ出したヘムヘムの二人が、狭い櫓の上で追いかけっこをはじめる。

 二人が追いかけっこをしている間にも、次々と掃除完了の声が学園内に増え始める。

 いつまで待っても終わりの鐘が鳴らないことを不思議に思った教師が、乱太郎を使いに出していた。

 彼が顔を出した時には、ユキがヘムヘムを隅に追いやったところだった。

「……ユキちゃん、何やってるの」

 乱太郎が声をかけた隙に、ヘムヘムがパッと逃げ出す。

 もう一つの鐘のある見張り櫓へと向かったのだろう。

 櫓と櫓を結ぶ塀の上を、器用に駆け去って行った。

「あぁ、もぅ」

 その背中を悔しげな表情で見送って、ユキは乱太郎に、ヘムヘムの置いていった雑巾を投げ渡す。

 一瞬だけ口をヘの字に曲げて、乱太郎が雑巾を受け取った。

「で、何をすればいいの」

「適当に鐘でも拭いといて」

 そう言いつけると、身軽に身を翻す。

 次の瞬間には、櫓のそばへ雪の落ちる重たい音が再開された。

 乱太郎がため息をついて鐘をふき始めて間もなく、別の見張り櫓からの鐘の音が掃除時間の終了を告げる。

 屋根の上に上がった時と同様に軽やかに降りてきたユキが、前髪についていた雪を払いのけた。

 そして、雑巾片手にユキの準備が終わるのを待っている乱太郎に、手にしていたスコップを渡す。

「これもお願いね」

「どうして私が、ユキちゃんの掃除道具まで持たなくちゃいけないのさ」

「男の子でしょ。文句言わないの」

「それとこれとは」

 文句を言う乱太郎を尻目に、ユキは櫓を下りるための梯子に手をかけた。

 それを見た乱太郎が、言っても無駄なことと口をつぐむ。

「……乱太郎はさ、卒業するのよね」

 梯子に手をかけたままの体勢でそう尋ねてきたユキに、乱太郎はスコップを持ち直しながら、肯定を口にした。

「そうだよ。少し早い気もするけど、卒業は決まりかな」

「そう」

 そう答えて、一向に梯子を降りようとしないユキに、乱太郎は怪訝そうな表情を浮かべた。

 少し重く感じるようになったスコップを静かに下へおろすと、その場で彼女の様子を眺める。

 注意深く見てみれば、彼女の視線は階段の下を見ているようで、どこか虚ろにも感じられる。

 深い付き合いではないが、長い付き合いではある。

 その視線だけでも、乱太郎が彼女の心配をするには十分だった。

「ユキちゃん」

「乱太郎は……卒業したらどうするの」

 乱太郎の言葉に無理やり重ねられるようにして発せられたユキのセリフが、乱太郎に小首を傾げさせる。

「どうするって、私は家に帰るだけだよ」

「家に帰るんだ」

「帰るよ。父ちゃんと母ちゃんが待ってるし。忍者の仕事は、どこにいたって探せるから」

 乱太郎は実家にいる両親のことを思い浮かべていた。

 先祖代々由緒正しいヒラ忍者の家系とはいえ、少なからず忍者の仕事はまわってくる。

 ヒラ忍者と言っても、あの年齢まで生き延びている分、相応の実力はある。

 乱太郎も実家にいながら、たまに来る仕事で腕を磨こうと考えていた。

「忍者の仕事、決まってないんだ」

「悪いのっ」

 不機嫌になった乱太郎が、下におろしていたスコップを、再び手に持ち上げた。

 一向に動こうとしないユキのそばまで寄ると、不機嫌さを丸出しで詰め寄る。

「あのさぁ、降りないのだったら、早く場所を変わって」

 しかし、乱太郎の言葉にも、ユキは動く気配を見せなかった。

 それどころか、梯子をつかむ手に力が入ったかのように、小刻みに肩を震わせている。

「ユキちゃん」

「乱太郎、仕事……したくない?」

「それはしたいけど」

「だったら、要人の護衛なんてのもできるかしら」

「頑張るよ。でも、要人の護衛なんて仕事、新米の私なんかにくるかな」

 すっかり足を止めてしまっていた乱太郎は、ユキが突然振り返っても被害を受けることはなかった。

 ただ、驚きに目を瞬かせるのみ。

「じゃ、決まりね。卒業式の後、すぐにあたしの護衛だからッ」

 それだけのことを早口で言い切ると、今度は一瞬で見張り櫓から走り去っていく。

 一人残された乱太郎は掃除道具を抱え、仕方なく、梯子の二往復をしてから食堂へ向かわざるを得なかった。