傷跡


「クソッ……オレに入ってくんなや!」

 寝ているはずの体を、何かが駆け巡っている。

「オレは……オレは」

 目を開けようとしても、それは叶えられなかった。
 圧倒的な力の前に、椎 拳崇の肉体は汗を噴き出し、その筋肉を硬直させてゆく。

「ヤメロ……ムダナテイコウダ」

「オレは、オレは椎拳崇だ!」

 

 朝、日課のランニングを終えた麻宮 アテナは、同じ道場で同じ屋根の下で暮らしている男が、
ようやく起きて来るのを見つけた。

「もぅ、また寝坊して。―――ケンスウ、おはよッ」

 いつもなら飼い主に呼ばれた犬のように、尻尾を振る如くに笑顔で答える彼は、静かに手を挙げた。

「おぅ……」

 鈍感の帝王と呼ばれるアテナも、さすがに彼の異変に気付いた。

「どうしたの? 元気ないみたいね」

「ん? そうか? バリバリやで」

 そう答える彼の表情は、死者のように青く、汗が光っていた。
 ジメリとした汗が。

「ケンスウ、やっぱり具合が変よ。薬、飲んだの?」

「……アテナの心配することやない」

「え……ちょっと」

 アテナの声に振り向きもせず、拳崇は重い足取りで廊下の奥へと去って行った。

「ちょっと、どういうこと?」

 アテナの呟きは、真に拳崇の体を心配していた。

 

 その日、朝食を終えて道場に姿を表した拳崇の雰囲気は異様だった。
 緊張感がヒシヒシと伝わり、まるで殺気を放っているかのように周囲を威圧する。

「……うぁ」

 その日は組み手の練習をする予定だったパオは、拳崇の前に立ったまま硬直し、遂には三人の師匠、
鎮 玄斎に練習の中止を申し渡されたのだ。

 

 

 拳崇が姿を消した後、アテナはパオを部屋に寝かせて道場に戻って来た師匠に今日の拳崇を尋ねた。

「お師匠様、今日の拳崇、変じゃありませんか?」

「確かに。あれほどの殺気を放っておった。パオには刺激が強過ぎたようじゃな」

「最近、超能力が使えなくなったりしてスランプだったのかと思っていたのに、今日のケンスウは……」

 アテナはその後の言葉を飲み込んだ。

”別人”

 言いたくなかったのだ。仮にも長く一緒に育ってきた彼を、変身したようにいうことは。

「……アテナ、パオの面倒を頼む」

「はい」

 素直に道場を出て行ったアテナの気配が消えると、玄斎は息をついた。

「あの殺気は、まさに人外のもの。拳崇、お主、もしやな……」

 そう呟くと、玄斎は拳崇を拾った経緯を思い出していた。

 

 初めて会った時、拳崇はボロボロの服を着て、廃墟と化した街に佇んでいた。

 玄斎が声をかけると、その少年はゆっくりと虚ろな瞳を開いた。

「おじいさん、誰?」

「ワシはここから南の山に住んどる老子じゃよ。泣き声がしたんでな……山を下りてきたんじゃ」

「……早く逃げた方がいいよ。ここは、青龍に狙われた街だから」

「青龍に? この破壊は、青龍の力なのか?」

「今のうちに逃げてよ」

「ふむ。じゃが、お主はどうするのだ?」

「僕はここに残る。ここの住人だし、青龍をここにいさせなきゃいけないから」

 少年はそれだけ言うと、再び虚ろな瞳を閉じた。

 玄斎は立ち去りがたい何かを感じ、夕刻までその地に留まり続けた。

 

 そして、夕陽が沈むと共に、少年が立ち上がった。

「フム、コヨイハタビビトガヒトリカ」

「な、なんじゃ、この脳に直接送られて来る響きはッ」

 慌てて周囲を見回すが、どう見ても玄斎の側には例の少年しかいない。

「まさか、この子供が……!」

「オレノコエヲキイテタオレナイトハナ」

「冗談じゃろ? お主が何故その少年に取り付いているかは知らんが、お主程度ではワシを殺せんよ」

 そう言いながら、玄斎はそれまでは隠していた自分の気を放出していく。
 少年の背後に、モヤモヤとした気が溜まり、それが徐々に形付けられていく。

「ム……青龍か」

 まるで少年の背中から生えたかのような竜神に、玄斎は一歩退いた。

「ニゲルカ?」

 からかうような竜神の言葉に、玄斎は普段は閉じられているような目を見開いた。

「お主は封じる。その少年を救うのがワシの仕事じゃでな」

「オモシロイ」

「やってみるかの?」

「ヤライデカ!」

 

 拳崇は全員が寝静まったのを気配で感じ取ると、殊更物音を立てないようにして自分の部屋を抜け出た。

 そのまま道場を突っ切り、下山する為の階段へと達した。

「スマン……アテナ」

「謝るくらいなら、面と向かって謝ったらどうじゃ?」

 予期せぬ声に、拳崇は慌てて周囲を見回した。
 月の光の中に、白い髭が浮かび上がる。

「逃げ出すのか?」

「……お師匠はん、知っとるんやろ。ワイの正体」

「それは、青龍がその身の中に巣食っておると言うことかの?」

「……怖いんや。ワイの超能力がなくなったのは、青龍の封印が解け始めた前兆や」

 拳崇の言葉に、玄斎は自分の倍にも育った、かつて少年だった、青年の肩に手を置いた。

「今のお主は、一人でも青龍を抑えられるはずじゃ」

「多分、それはわかっとる。でもな、アテナがいたら……ワイは青龍を抑えられん」

 拳崇に振り払われた手をそのままに、玄斎は既に階段を下り始めた愛弟子に向かって諭すように告げた。

「一人で逃げても何もならんぞ。孤独の辛さは、お主が一番わかっているじゃろ?」

 何も答えずに背を向け続ける青年に、玄斎は少し声を荒げた。

「お前一人が、一人になればいいというものではないッ」

 月の光の中に、拳崇の背中が消えた。

「半人前が……アテナはお主の思う程、強い娘ではないのじゃぞ」

 誰もいない階段に向かって話し掛ける玄斎の表情は、わずかに泣き崩れていた。

 

 

後編へ