傷跡(後編)


 翌朝、昨日の拳崇の行動が心配になったアテナは、起床すると同時に拳崇の部屋に飛び込んだ。

 そこで彼女が目にしたのは、キチンと畳まれて整頓された布団と、煩雑であったはずが綺麗になっている
拳崇の所持品だった。

「嘘……どういうこと?」

 心に何か引っ掛かりを感じたアテナは、そのまま玄斎の所へと向かった。

 玄斎を叩き起こしたアテナは、玄斎に説明を求めた。

「拳崇は、拳崇は何処に行ったんですかッ?」

「……それを知ってなんとする?」

「決まってるじゃないですか。ここに連れ戻すんですッ」

「何の為に?」

「超能力がなくなったって、平和の為の修行を―――」

 アテナの言葉を遮るようにして、玄斎は吐息をついた。

「拳崇は自分の意志で山を下りたのじゃ。他人が口を挟めるようなものではない」

「ですが!」

 食い下がろうとするアテナに、玄斎は冷たく言い放った。

「ワシはもう、あの男をサイコソルジャー、椎拳崇とは認めんよ」

「……結構です!」

 怒りの表情を見せて踵を返したアテナを見やり、玄斎は拳崇の心を思った。

「拳崇、お主、帰って来るのか? 今のアテナにほだされるようでは、所詮、そこまでの男よ」

 

 

 アテナは早速荷造りを始めると、仕事のキャンセルをマネージャーに告げた。

 当然慌てるマネージャーの声を無視して、アテナは電話を叩き付けると、眠っているパオの寝顔を
見てから、山を下りた。

「絶対、拳崇は連れ戻すんだから」

 そう決心したアテナは、まずは拳崇の素性を知る為に役所へ向かうことにした。

 

 廃墟となって久しい村は、既に現存する建物はごく僅かであり、修復を必要としない家屋はなかった。

「……結構、永かったんやな」

 誰もいない村で、拳崇は一人で手頃な家の修復を始めた。

 材木はその辺の家を叩き壊せば、いくらでも手に入った。この村に来る途中で寄った街で道具を仕入れ、
拳崇は住むための最低限の空間を確保すると、村の中を回って生活必需品を揃えた。

 幸い、村は建物の損傷が激しいほかは、何とか一人で住む分の必需品はあったのだ。

「……パオ、怒っとるやろな」

 拳崇は調達したばかりのベッドに仰向けに寝転がった。シーツは先程洗濯して、他の洗濯物と一緒に
外に干してある。

 仰向けに寝ると、痛んだ天井に、次々と名前と顔が浮かんでは消える。
 静かにその衝動が収まるのを待った拳崇は、最後に自分の掌を見つめた。

「これでええんや。ワイが青龍の力を抑えられへん限り、迷惑かけてまう」

 ゆっくりと握り締められた手は、赤い血が滲むほどに締め付けられた。
 そうしていなければ、拳崇は自分の首を掻き切りたい衝動を抑えられなかったのかもしれない。
 自分の力を常にどこかに向けていなければ、青龍に飲み込まれるかもしれない。

 無数の強迫観念が、拳崇の中を駆け巡った。

「……何の為の修行やったんや……ワイは、弱いな……アテナ」

 忘れようとすればするほど、余計に浮かび上がるお姫様の笑顔。

 振り向いた一瞬に、拳崇だけに向けられた笑顔。
 ドジな拳崇を笑った、無邪気な笑顔。

 その全てが拳崇の中に蓄積されている。

 捨てようとすればするほど、逆に湧き上がる衝動。

 彼にとって、青龍を抑えるために必要な何かは、自らのお姫様にその衝動をぶつけること。
 ぶつけることを抑制すれば、それは青龍をのさばらせる結果となり、衝動を解放すれば、
その時もまた、青龍が自分の体を乗っ取ってしまうことを、拳崇は本能的に感じ取っていた。

 だからこそ、拳崇は道場を抜け出したのだ。

 

 日が傾き始めた頃、ようやくアテナは拳崇の生まれ故郷に辿り着いた。

 一軒だけ煙の立っている家に近づき、そっと中の様子を盗み見る。

「誰もいないじゃない」

 気が抜けたようにそう呟いたアテナは、背後に人の気配を感じて振り返った。

「何でや? なんでワイを追いかけて来たんや……アテナ」

「拳崇!」

 近づこうとするアテナに、拳崇は手に持っていた洗濯物を投げつけた。アテナが怯んだ隙に、拳崇は
全力で駆け出した。

 が、当然テレポートの出来るアテナの移動能力に勝てるはずもなく、拳崇はすぐにアテナと向き合った。

「どうして逃げたのよ。私をずっと守ってくれるんじゃなかったのッ」

「……」

「黙ってないで答えてよ。拳崇は約束を守らないような人だったのッ? そんな、そんな人に私は…!」

 泣きそうになるアテナに近づかずに、拳崇は答えた。

「約束を破ったりはせん……今のワイがアテナの側にいることが、アテナを汚すことになるんや」

「わかんない! ずっと一緒にいて、どうして拳崇が私を汚すことになるのよッ」

「アテナ、ワイをよう見ろや」

 拳崇の言葉に、アテナは拳崇を凝視する。
 すると確かに、アテナの目には拳崇がボヤけて見えた。

 目を凝らして見ると、拳崇の肉体と精神の間にある微妙なズレ。それが拳崇をボヤけさしていたのだ。

「何なの……これは?」

「ワイの正体や。アテナには言ってへんかったけど、ワイの中には青龍が巣食っとる」

「青龍が? どうして青龍が拳崇を苦しめるのよ」

 アテナの疑問は至極当然だった。
 ある場所では神として崇め奉られる青龍が、拳崇を苦しめる理由は見当たらないのだから。

「この村をこうしたんは、ワイの中の青龍なんや。破壊衝動ってやつや。全滅させてもた」

「拳崇……」

「アテナの側にいたら、この破壊衝動はアテナに向かってまう。好きなものを壊したいんが……今のワイや」

「逃げ出した理由は、それなの?」

 アテナはもう、拳崇を見ていなかった。

「あぁ……どうしようもないんや。この10年間、青龍を必死に抑えてきた。でも、もう限界やねん」

「……わかった。もう何も言わない。今夜だけ、泊めて」

 アテナは拳崇の返事も聞かずに、拳崇の脇を抜けてさっきの家の中に入って行った。

 その姿を見ようともせず、拳崇は食事の用意へと戻った。彼の頭にはもう、アテナの泣き顔しか映っては
いない。

 

 

 食事を終え、拳崇は眠った。

 アテナも特には拳崇に話し掛けることもなく、二人は無言で寝床についた。

 

 

 そして翌朝、目覚めた拳崇の隣には、別部屋で眠っていたはずのアテナがいた。

「アテナ?」

「破壊の衝動って、単に欲情なわけね」

 冷めた口調で拳崇を見上げたアテナに、拳崇は返す言葉がなかった。

「まさか……」

「えぇ……痛かったわよ。初めてだったんだから」

「アテナ、ワイ、もうアカンわ」

 拳崇はそう言うと、突如自分の首を締め始めた。

 慌てるアテナを目で制し、拳崇はアテナに告げた。

「ワイが今から青龍を呼び出す。アテナは青龍に乗っ取られる寸前でワイを殺してくれッ」

「ちょっと、拳崇ッ」

「ワイは、ワイは欲望のままにアテナを汚したんやッ。生きてる価値なんてあるかいッ」

「誤解よ、拳崇!」

「慰めはいらんッ」

 見る間に拳崇の表情が険しくなっていき、徐々に柔らかな表情へと変わる。

 アテナの焦りは酷かった。表情が柔らかくなっていくことは、既に拳崇の意識が分離し始めたことを
意味している。アテナの声も、こうなっては届かないのだ。

「拳崇ッ、冗談なのよ! 貴方に出て行かれるのが嫌で、私はッ」

 拳崇の表情が緩む。

 アテナは必死で拳崇の腕にしがみついた。しかし、腕はそう容易くは外れない。

「拳崇、拳崇!」

 恐るべき精神力で、拳崇は最後まで自分の首を締め続ける。いや、自分ではなく、青龍のいる肉体を。

「拳崇……」

 拳崇の意識が抜け、膨大な力が湧き上がる。

 青龍だった。

「……青龍なんかに負けて、私を一人にして、許さないから!」

 そう言ってアテナが手にしたのは、昨晩拳崇が使っていた包丁だった。

「拳崇、すぐに行くから……地獄の果てまで追い詰めてやるわ。この私を袖にしたんですもの」

「キサマ、ナニヲスルキダ?」

 覚醒したばかりの青龍が、肉体を把握するまでの時間を稼ごうとするが、嫉妬に燃える瞳をしたアテナは、
静かに青龍を貫いた。

「ガッ?」

「アンタみたいな化け物に、拳崇を取られるなんて思ってもみなかったわ……せいぜい苦しみなさいな」

 無情にも拳崇の肺を抉り取るように包丁を抜き出したアテナは、力なく倒れた拳崇の肉体を踏みつけた。

「拳崇は私の物なの……誰にも渡さないわ」

 拳崇が口を僅かに開くが、声にはならなかった。

 

 拳崇の絶命を見届けて、アテナは包丁を丁寧に洗い、野菜を使ってその切れ味を確かめた。

「……いいわ」

 その包丁を握り締めて、ゆっくりと拳崇の肉体の前に跪く。

「地獄の果てまで追いかける……拳崇、逃がさないから。貴方は永遠に私と一緒にいるべきなのよ」

 喉に一筋の線。

 紅いチョーカーが、アテナの首に巻き付く。

 血塗られていない手が、拳崇の美しく拭かれた指先を絡め取る。

 重なる肉体。

 

 

「……遅かったか」

 愛弟子のオブジェのような姿を見た玄斎の表情が歪んだ。

 無言で背を向けた玄斎は、持っていた油に火を点けた。
 二人を炎が包み込み、跡形もなく消し去っていく。

 村を出た玄斎は、空に向かって話し掛けた。

「いつかあの世で会おうぞ……のぉ、拳崇」

 

 

 嫉妬に狂った女神、女神の嘘を信じた従者。

 彼らの悲劇は必然なのか。

 

 神様は男女を造り、何をしたかったのだろうか。

 悲劇を見たかったのか? 愛に破滅する姿に愉悦するためなのか。

 

 ……fare la ninna nanna.

 

<了>