新人教育
(前編)
1
執務室で、アルヴィスは一枚の書面と格闘していた。
否、一枚の書面を睨み付けていた。
「情けないねぇ。さっさと決断したらどうだい」
「……姉上は黙っていてもらおう。これは、私とアゼルの問題なのだ」
「やれやれ」
書面から一時たりとも視線を動かそうとはしないヴェルトマー当主に、ヒルダはわざとらしくため息をついた。
だが、その仕草にいちいちかまっていられるほど、アルヴィスに余裕はなかった。
何度も何度も書面を読み返し、果ては太陽の光に書面をかざす。
様々な角度から眺め、透かし、アルヴィスは書面を一心不乱に読んでいた。
書いてあることは何の変哲もない文章であり文面を、である。
「まったく、何を迷うんだい。アゼルにとって、絶好のタイミングじゃないか」
ヒルダの言うように、先日十二歳の誕生日を迎えたアゼルが社交界に出るには絶好の時期である。
十三歳で迎える再来年の年明けには、アゼルはバーハラの寄宿学校に行くことが決定している。
寄宿学校に入る前に社交界に顔見世を行うことは、公子クラスの常識であった。
アルヴィスもそれは充分に承知していた。
むしろ、アゼルの為にわざわざパーティーを開く計画まで立てていたのだ。
だが、たった一通の書面がアルヴィスの頭を悩ませていた。
「……ドズル公に先を越されたのが気に食わないのかい?」
ヒルダの指摘は的確だった。
途端にアルヴィスの渋面さが増す。
「まったく、ドズル公の嫡男の成人式なんだから、アゼルの門出としては充分過ぎる程じゃないか」
「たしかに格式で言えば文句はありません」
「だったら、何も迷うことはないだろう。アゼルをお前の代理としてパーティーに行かせる。問題ないじゃないか」
ヒルダがそう言うと、アルヴィスは感情を剥き出しにして執務机を叩いた。
だが、大きな音を立てたアルヴィスにも、ヒルダは全く動じる気配はない。
「要は、お前がアゼルの門出を見れないのが気に食わないんだろう」
ヒルダの言葉に、アルヴィスは憮然としながら、執務椅子の背もたれに体重を預けた。
普段は歳相応以上の老獪さを見せるアルヴィスも、ことアゼルのことに関してはただの若い兄貴だった。
珍しく歳相応の行動をとっている弟を笑い、ヒルダはソファから立ち上がった。
そして、そのままアルヴィスの前まで来ると、アルヴィスの手から招待状を抜き取る。
アルヴィスが取り返そうと手を伸ばすと、ヒルダは笑顔で言い返した。
「アゼルの後見役はあたしだろう?」
「……別に姉上でなくても務まります」
アルヴィスにとっては精一杯の反撃だったが、ヒルダには通用しない。
元々、ヴェルトマーでアゼルの後見役となれる人間は、今この部屋にいる人間の他にいないのだから。
それを充分に承知しているヒルダが、アルヴィスに何を言われようとも堪えるはずはなかった。
「アイーダも社交界へのテビューはしています」
「へぇ……ヴェルトマーの女将軍が後見役とは、アゼルも低く見られたものだねぇ」
ヒルダの言葉に、再びアルヴィスが返答に詰まる。
公子ともなれば、社交界デビューの後見役にもそれ相応の人材が選ばれることになっている。
いかにヴェルトマーを支える若き女将軍と言えど、アゼルの後見役には少々荷が重い。
社交界デビューの際には、必ず誰かの代理として出席すること。
そして最初のパートナーは必ず社交界に顔見世を済ませている異性であること。
この二つが大きな決まりであった。
よって、厳密に言えば、アゼルの後見役となれる人間はヒルダ一人なのである。
アルヴィスとヒルダの最初から勝敗の見えている戦いに決着がついた時、執務室の扉がノックされた。
アルヴィスが入るように指示を与えると、赤いマントを羽織り、やや正装めいているアゼルが中に入ってくる。
「兄上、アゼルが参りました」
「あぁ。呼びつけて済まないな」
「いえ……姉上がおいでだったのですね」
一礼から頭を上げたアゼルが、ヒルダの姿を見て頬を緩ませる。
その表情は、まだまだ少女のような幼さを残している。
「アゼル、久しぶりだね」
「姉上もお元気そうで何よりです」
「アゼルも元気そうでよかったよ。日に焼けて、頬が赤いじゃないか」
ヒルダの指摘どおり、庭いじりの好きなアゼルは頬が赤くなっていた。
一日数時間しか外に出ていなくても、太陽はそれだけでも充分にアゼルの肌を日焼けさせていた。
「今はオーガルの花がよく咲いています。姉上がお帰りの際にお渡し致しますね」
「あぁ、ありがと」
ヒルダとアゼルが微笑み合うのを邪魔するかのように、不機嫌な声でアルヴィスが二人の間に割って入る。
「ところでアゼル、コイツを読んでみろ」
そう言って突き出された書面を受け取り、アゼルはスラスラと書面を読み終えた。
そして、何も考えていない表情で書面をアルヴィスへと返した。
「この日は何かありましたか? 留守番くらいはできますけど」
「俺も留守番させたいよ」
不機嫌さを全く隠そうとしないアルヴィスの頭を叩き、ヒルダはアゼルの手に書面を戻させた。
渋々アゼルに書面を戻したアルヴィスは、それきり椅子を半回転させてしまった。
「アゼル、お前がアルヴィスの代理としてそのパーティーに出席するんだよ」
「僕がですか?」
「そうさ。アゼルの社交界デビューとなるパーティーなんだよ」
突然のことに驚いたアゼルが目を瞬かせていると、背中を見せたままアルヴィスがアゼルの名前を呼んだ。
慌てて返事を返して背筋を伸ばしたアゼルに、アルヴィスは今までとは打って変わって落ち着いた声で話しかけた。
「ヴェルトマーの主君の代理ということは考えなくていい。お前の社交界への顔見世に過ぎん」
「はい。でも、後見役はどなたにお頼みするのですか? 母上はいませんし……」
「心配しなくても、あたしがいるじゃないか。アルヴィス、いいね」
どちらかと言うとアルヴィスへ言いきかせるように、ヒルダが声を大きくする。
兄が黙って頷くのを見て、アゼルはヒルダの方へ向き直って頭を下げた。
「よろしくお願いします、姉上」
「あぁ。アゼル、お前なら何も心配いらないよ。普段通りに接していれば問題はないからね」
そう言って、ヒルダはまだ背丈の低いアゼルの頭に手を置いた。
2
「入るよー」
言うが早いか、さっさと扉を開けて中に入って来た娘に、レプトールは頭を抱えた。
それを見かねたブルームが注意するが、ティルテュは小さく舌を出しただけで、部屋に入り直そうともしない。
「まったく……誰が育てたんだ」
「私の記憶が確かならば、ティルテュの父親は父上だったと思いますが」
思わず不満を漏らしてしまったレプトールは、ブルームにそう言われて口を閉ざした。
ティルテュは何のことかわからずに、話の先を促そうと、レプトールの顔を覗き込んだ。
「父様、具合悪いの?」
無邪気な娘を怒鳴りつけるわけにもいかず、レプトールは全体力を総動員して態勢を立て直す。
それを見て、ティルテュがようやく執務机の向かい側で直立した。
「用事があると言って呼んだ筈だな」
「はい」
「では何故、そのような普段着でこの部屋に入って来たのだ」
レプトールに指摘され、ティルテュは慌てて自分の服装を確認した。
しかし、彼女の視点では何一つおかしな点はない。
そのことをティルテュが口にすると、レプトールは再び額に手をやった。
「ブルーム、お前はこの状況を見てもティルテュを舞踏会に出せと申すか」
レプトールの言葉に、ティルテュがブルームの方を盗み見る。
ブルームは軽く微笑むと、ティルテュに説明を始めた。
「近々、ドズル卿の御子息が成人を迎えられ、記念として舞踏会を開くそうだ。私は、お前にその舞踏会へ出るよう父上に進言した」
「ドズル卿の御子息って、レックスって奴の成人式?」
「いや、ダナン公の成人式だ」
「あぁ、あの生意気な青髪のお兄さんね。それで、何で私が舞踏会に出るの?」
全く理解していない妹に、ブルームは内心不安を感じたが、彼には躊躇ってはいけない事情があった。
大事な人との約束があったのである。
「お前ももう十二歳になった。そろそろ社交界に顔見世を行う必要がある」
「社交界……でも、父様はこの家でするパーティーで出れば良いって」
そう言ってティルテュがレプトールに視線をやると、レプトールは執務机の上に招待状を広げた。
ティルテュがそれに視線を落とすと、レプトールは彼女が読み終るのを待たずに口を開いた。
「ドズル卿の息子の成人式だ。これを逃すと、お前の社交界への顔見世が一年遅れることになる」
「そうなの?」
ティルテュがブルームの方を向いて確認すると、ブルームは丁寧な解説を付け加える。
「慣例として、十二歳となった公女はその年の舞踏会に相応の身分の代理として出席する。お前の場合、母上の代理だ」
「なるほど。それで、私は母様の代理としてこの舞踏会に出ればいいのね」
「まぁ、そういうことになる」
ブルームの最後の言葉を横取りし、レプトールは娘に鋭い眼光を浴びせた。
その強い眼差しを真向から受けず、ティルテュは小さくお辞儀をした。
それを見たレプトールは、小さく吐息をついて子供たちを追い出す仕草を見せる。
「ティルテュ、ブルーム、下がって良い」
「はい」
「失礼致します、父様」
レプトールの二人の子供は執務室の扉を閉めると、寄り添うようにして歩き始めた。
ティルテュが一番慕っている兄弟は姉ではなく、長兄のブルームである。
「ねぇ、今度の舞踏会、アゼルも来るのかな」
「そうだろうな。お前と同い年程度の公子や公女が集まるだろう。友達になれそうな相手を見繕っておけ」
「はーい」
そう答えたティルテュが次々と話しかけてくるのを適当にあしらいながら、ブルームは微笑んでいた。
3
ドズル卿の屋敷へ向かう馬車の中で、ティルテュはレプトールからしつこく注意事項を確認させられていた。
レプトールにはティルテュの他にも娘がいるが、これほど慎重に注意事項を確認した記憶はなかった。
「よいな。何があっても不用意に口を開くな。お前は口を開くと素が出てしまう」
「わかってます。丁寧な言葉遣いと無口でしょ」
「無口ですわね、だ」
早速娘の言葉遣いを訂正しながら、レプトールは馬車の窓から外の景色を見た。
景色から察するに、ドズル卿の屋敷までの距離はあと数分程度だろう。
その間に娘を教育し直す時間は、当然の如くない。
自分を落ち着かせるためにした深呼吸も、あまり効果はない。
たった一つの救いと言えば、今朝から一つも物怖じした気配を見せない娘の度胸だけだろうか。
そんなことを考えるレプトールを乗せたまま、馬車は無情にも速度を落とした。
ドズル卿の屋敷は、目前まで迫っていた。
一方、既にドズル卿の屋敷の手前で馬車を下りた赤髪の若い姉弟は、固くなる弟へ、姉が叱責を繰り返していた。
「まったく、しっかりしないか。それでもヴェルトマーの男かい」
「そ、そんなこと言われても……」
「情けないねぇ」
かくもすれば両手両足を一緒に前に出さんばかりのアゼルを見て、ヒルダは慌ててアゼルの肩を掴んだ。
辛うじて地面とのキスを免れたアゼルが照れ笑いをするが、明らかにその表情は引きつっている。
「こんなに土壇場に弱い子だったかねぇ……」
日頃のアゼルを見ている限りでは、アルヴィスとは違った才覚を示しているものの、ひ弱な少年ではない。
聡明な少年に見られがちな体力の無さも見られず、意外に外で遊ぶ時間が多い。
しかも実家にいる限りでは、どのような相手であっても丁寧さと物怖じしない心を持っているのだ。
「……ん? あれはフリージ公家の馬車だね」
自分たちの横をすり抜けて屋敷の門の前に横付けした馬車を見て、ヒルダはアゼルの手を引いて軽く駆けた。
引きずられてこけない程度には、アゼルの反応は鈍くない。
あっさりと停まっている馬車に追いついた二人は、馬車から下りて来たフリージ親子と対面した。
「お久しぶりでございます、フリージ公」
「おぉ、ヒルダ殿か。今宵はドズル卿の舞踏会に出向かれたのかな」
「えぇ。フリージ公もそうですのね」
儀礼的な会話を交わすヒルダとレプトールの隣では、正装したティルテュを見て、アゼルが頬を染めていた。
「うわ……ティルテュ、可愛いね」
「このドレス、初めて着るの。どんな感じ?」
そう言って微笑むと、ティルテュはくるりと一回転して見せた。
遠心力でわずかに広がった裾が、まるで落ち葉のように風に舞う。
裾のはためきが収まるまで、アゼルは言葉を失っていた。
「……ティルテュ、よく似合うよ」
「そう? 本当は裾がひらひらしたのって嫌いなんだけどさ、父様がこれにしろって」
「僕もそっちの方がいいと思うよ。ティルテュがそのドレスで踊ったら、みんなビックリするよ」
「じゃ、アゼル、一緒に踊ろうね」
そう言ってアゼルの手を取ったティルテュを、レプトールは慌てて押さえつけた。
同じように、アゼルもヒルダによって肩をつかまれていた。
「まったく、お前は……少しは落ち着くということを知らんのか」
「アゼルと踊る約束するぐらいいいでしょ」
「それくらいはかまわんが、まずはドズル卿に挨拶へ行かねばならん」
「わかってます。それじゃ、アゼル、また後でね」
そう言ってレプトールに手を引かれて屋敷の中に入って行くティルテュを見送って、ヒルダは隣にいるアゼルを見下ろした。
その視線を感じたアゼルが顔を上げると、ヒルダのニヤニヤした表情が待っていた。
「へぇ、どうやら本気みたいだね」
「な、何が?」
わかってはいるのだが、隠したくなるのが幼い頃の恋愛。
アゼルとて、まだまだ幼い少年である。
「あの子のことさ。ティルテュだっけ?」
「ティ、ティルテュが綺麗だったし……その、不安だったから」
そう言いながら足許に視線を落とした弟を、ヒルダは優しく抱きしめた。
アゼルが息苦しさに顔を上へ向けると、ヒルダは優しげな微笑を浮かべていた。
「もう大丈夫だね。あの子に感謝するんだよ」
「……うん。もう緊張してない」
「よし。じゃ、さっさと面倒な挨拶は済ませちまおう。後はあの娘の所でもヤンチャの所でも好きにしな」
そう言うと、ヒルダはアゼルの手を取って屋敷の中へ足を踏み入れていく。
彼女に続くアゼルの姿は、ヴェルトマーの当主の代理として立派なものであった。