新人教育
(後編)
4
「あら、あの子……」
「エーディン様、どうかいたしましたの?」
取り巻きと共にダンスホールを眺めていたエーディンが漏らした呟きに、取り巻きの一人が反応する。
その言葉には反応せずにダンスホールから目を離さないエーディンを見て、取り巻きの一人がその視線の先を探す。
彼女の視線の先にいたのは、赤髪の少年だった。
「あの赤い髪の子? 結構可愛い感じのする」
「えぇ。初顔のようね」
大人顔負けの風格でワイングラスを傾けながら、エーディンがそう言った。
興味があると感じたのか、取り巻きの中の事情通が、すぐにアゼルのデータを口にする。
「ヴェルトマー公爵の弟だそうよ。今日はアルヴィス様の代理と言ったところね」
「そうなんだ。さすがはパノ。耳が早いわ」
「まぁね」
自慢気に軽く肩をそびやかしたパノーラを見て、エーディンがさらに質問を口にする。
「後見役はどなた?」
「ヒルダ様」
「あのヒルダね……」
エーディンの瞳が妖しく揺れる。
それを感じた、取り巻きの中でも一番気弱な少女が制止を口にした。
しかし、エーディンは口許に微笑を浮かべると、取り巻き達を見回した。
「あのヒルダの顔に、泥を塗りたくはありませんこと?」
「ま、確かにあの女は気に入らないけどね」
グリシルの言葉は彼女たちの率直な思いだった。
エーディンを始めとした彼女たちは、ヒルダよりも三歳年下の年代に当たる。
別にヒルダが彼女たちのように徒党を組んでいたわけではないが、ヒルダは事あるごとに彼女たちの上に立っていた。
「あの女、年上であることをいいことに言いたい放題。気に入りませんもの」
「言えてる。少しぐらい愛敬があってもいいのにね」
「そうよね。冷たい目でこっち見てくれちゃってさ」
エーディンにとって、ヒルダは非常に邪魔な存在だった。
絶世の美女と評判の高い彼女でさえ、ヒルダの前では霞んで見えるのだ。
絶対年齢の差ではない何かがヒルダにはあった。
そして、それこそがエーディンの一番気に食わないところでもある。
「そう言えばさ、ヒルダ様ってあの弟のことが殊のほかお気に入りなんだって。私、聞いたことがあるわ」
「そうなんだ。じゃあ、弟君には可哀想だけど……」
「えぇ。恥をかかせてあげましょう。もちろん、社交界の先輩としての忠告ですけどね」
そう言って微笑むエーディンは、さすがに絶世の美女。
まさしく至高の芸術作品であった。
「それでは、貴方達も適当に男を見繕って来なさいな」
虫も殺さぬような表情をまとい、エーディンは取り巻き達の見守る中、ヒルダへ向かって歩き出した。
5
最初のダンスを終えて、ティルテュとアゼルを送り出したヒルダは壁の花となっていた。
寄り付こうとする男はいても、彼女の視線が全てを物語っていた。
「今日はまだヒルダ嬢と踊れそうにないな」
「あぁ。やっぱり弟君のことが気にかかるんだろう」
男たちが気付いている通り、ヒルダの視線はアゼルを追い続けている。
ティルテュと踊っているアゼルは、今のところ何の問題も起こしてはいなかった。
「お久しぶりです、ヒルダ様」
そんな中で突然に声をかけられ、ヒルダが面倒臭そうに視線をまわす。
「……ユングウィのエーディンだったね」
「覚えていただいているとは、光栄ですわ」
そう言ってドレスの裾を軽く持ち上げて会釈したエーディンから視線を外し、ヒルダは持っていた扇を鳴らした。
「残念だけど、女と踊る趣味はないよ」
「私もですわ」
エーディンの答えに、ヒルダは扇の先をエーディンへと向けた。
「だったら、さっさと行きなよ。壁の花になるには勿体無いじゃないか」
そう言って扇で追い払う仕草をして見せたヒルダに、エーディンは微笑を向けた。
そして、ヒルダがその真意をはかろうとした矢先に、エーディンが口を開く。
「折角の機会ですので、弟様に紹介していただこうかと思いまして」
「アゼルにかい?」
「えぇ。ユングウィの公女として、ヴェルトマーの公子様に挨拶はいたしませんと」
曲が終わり、ダンスホールからアゼルとティルテュがヒルダの方へ歩いて来る。
ヒルダは二人が笑顔でいるのを確認して、小さく息をついた。
だが、ヒルダが安堵している間に、二人はヒルダとエーディンのいるところへ到着していた。
この時点で、ヒルダは選択肢を失ってしまった。
残された選択肢はエーディンの思惑通りだ。
「……アゼル、ちょっとおいで」
「はい」
近くにいたコックから料理を受け取っているティルテュから離れ、アゼルがヒルダの側に立つ。
その正面には、エーディンが微笑を浮かべて待っていた。
「アゼル、こちらがユングウィのエーディン公女だ」
「ヴェルトマーのアゼルです」
そう言って頭を下げたアゼルに頭を下げ返して、エーディンはにっこりと笑った。
「エーディンと申します。失礼ですけど、このような場にいらっしゃるのは初めてかしら」
「はい。今日が初めての社交界です」
「まぁ。それにしては随分としっかりしていらっしゃるわ」
「ありがとうございます」
エーディンの微笑みに、アゼルが恥かしげに俯いた。
その様子を見ながら、ヒルダは表情をしかめていた。
エーディンの思惑がわかってしまったのである。
逆に言うと、場の流れはエーディンの思惑通りに進んでいた。
アゼルはエーディンに少なからず興味を持ち、最悪でも礼儀として踊りへと誘うだろう。
踊りの場に出てしまえば、エーディンがアゼルを失敗へ追い込むことは容易である。
それだけの場数を踏み、また技術の点に関しても彼女には自信があった。
ただ一人、場に入り損ねたティルテュの目の前で、エーディンとアゼルはダンスホールへと向かったのである。
何も言えずに二人を見送る羽目になってしまったティルテュから皿を受け取り、ヒルダはティルテュを自分の隣に呼び寄せた。
すぐに呼びかけに応えたティルテュが、睨み付けるようにダンスホールへ視線を向ける。
それに気付いたヒルダは、黙ってティルテュの視線を自分に向けさせた。
「……何ですか?」
あからさまに感情を曝け出してくるティルテュの両頬を押さえ込み、ヒルダは身体を屈めた。
そうしてティルテュと視線の高さを合わせると、ヒルダは両手をティルテュの頬に当てたまま話を始めた。
「気に食わないみたいだね」
「当然。あの女の人、誰なの?」
「ユングウィの公女さ。絶世の美女になる器だよ」
「心はブスね」
あっさりと言い切ったフリージの公女に、ヒルダは心からの笑顔を見せた。
そして、押さえていた両頬を柔らかく揉む。
ティルテュがその手を振り払うと、ヒルダは姿勢を直して壁に背をもたせかけた。
「そこまで言い切ったのは、アンタが初めてだよ」
そう言って笑うヒルダの隣に同じように背をもたせて、ティルテュは料理を口に運んだ。
弾力のあるエビは、ティルテュにとって格好の鬱憤晴らしの材料だった。
「エビに当たっても仕方ないだろう」
「アゼルもアゼルです。何であんな女の人と……」
「そりゃ、ユングウィの公女様に失礼なことはできないよ」
ヒルダの言葉にも、ティルテュは苛立ちを隠そうとはしない。
エビをフォークで突き刺しては、キツイ視線をホールへと飛ばしていた。
それを苦笑しながら見ていたヒルダは、近くにいた給仕にカクテルを頼むと、ティルテュと同じようにホールへ目をやった。
そして、ふと真顔に戻ると、ティルテュの肩を突付いた。
「よく見なさい。あれがダンスの戦いさ」
「ダンスの戦い?」
訳がわからずに尋ね返したティルテュに、ヒルダは丁寧に指を差して教えた。
「さっきから、エーディンが混んでいる方へ行こうとしているだろう。混んでいるとミスを起こしやすいのさ」
「それって……」
「あたしに恥をかかそうって言うんだろうね。アゼルもよく耐えてくれてるけど、どこまでついていけるか」
だが、ティルテュの目には、全く区別がつかない。
元々、そのような高度な戦いは初めて社交界に出た人間がわかることではない。
「そんなの……アゼルが可哀想じゃない」
「あたしが嫌われてるのさ」
「何で?」
ティルテュの質問に、ヒルダの口許が緩む。
辛うじて舌なめずりを押し留めたヒルダは、ゆっくりと口を開いた。
「あたしは戦場に立てない人間に爵位は不要だと思ってる。戦ってこそ、公爵の位があるとね」
「それで?」
「こんなダンスでの戦いなんてのは余興に過ぎない。命をかけられない人間に、価値はない」
そう言い切ると、後は歯止めが効かなくなったのか、ヒルダは軽やかに口を動かしていく。
「あたしは城の中で隠れている偶像なんて認めない。戦士として、兵士を率いて戦うことこそが公爵家に生まれた者の義務だ。
命を賭けて戦うからこそ、公爵家としての存在価値がある」
「……よくわかんないけど、自分の身は自分で守るってこと?」
「こんなところで収まってしまう人間は、所詮そこまでさ。本当の公爵と言うものは、外でも中でも戦えなきゃいけない。
どちらか一方だけと言うのは、未熟な証拠だよ」
そこまで言うと、ヒルダは一転して笑顔でティルテュの肩に手を置いた。
「男だから、女だからってのはないんだ。それぞれの人間に与えられた戦場で戦い続ける。
それが生きている人間の務めなんじゃないかってことさ」
「……戦い続けるんですね」
「あぁ。何の為でもかまわない。親の為、兄の為、恋人の為。お金の為だっていい。何かの為に命をはれる女になりな」
ホールの音楽が鳴り止んだ。
それに気付いたヒルダが視線をやると、アゼルが無事にエーディンの手を引いていた。
「あたしは、アゼルの為に命をはれる女以外にあの子をやるつもりはないからね」
そう言って笑ったヒルダが離した手を掴み、ティルテュがヒルダを見上げた。
何かを待つ表情で見返してくるヒルダに、ティルテュはしっかりとした表情で口許を上げた。
「アゼルは誰にも渡さないから」
「……楽しみにしてるよ」
アゼルの声が二人を呼んだ。
それに笑顔で応えながら、ヒルダはティルテュ=フリージの名を深く心に刻み付けていた。
可愛い弟を任せられる、愛する妹として。
<了>