小さな火傷

(前編)


1

「ファイア!」
「甘いッ」

 茶色い地面の端々に、微かに緑色を示す雑草が生えている。

 赤レンガで囲われたその空間のほぼ中央に一人の青年が立ち、その前方に幼い少年が倒されていた。

「どうした、これで終わりか?」

 青年が肩で息をしている少年にそう言い放つと、少年はその真紅の瞳に力を宿した。

 青年と同じ、真紅の瞳と紅い髪が、彼らが兄弟であることを物語っている。

「もう一度、お願いします、兄上」

「よかろう。全力で来い、アゼル」

「いきますッ」

 アルヴィスに向けて右手を突き出し、アゼルが紋章を唱え始める。

「遅いッ」

 魔法の発動に時間がかかっているアゼルへ、容赦なくアルヴィスの炎が襲い掛かる。

 唱えていた紋章の文句を変えて、辛うじて防御結界を紡ぎ出すアゼル。

 

「……一撃を耐えただけでは、合格点はやれぬと言った筈だな、アゼル」

 防御結界のおかげで後方へ吹き飛ばされただけに済んだアゼルを見下ろして、アルヴィスがそう告げる。

 背中から落ちたのか、起き上がることができずに、ただうつ伏せに態勢を変えただけのアゼルが、

なんとか口を開いた。

「……申し訳ありません、兄上」

「謝罪の言葉はいい。その力を見せてみろ」

「……もう一度、お願いします」

 そう言って立ち上がろうとしたアゼルの左足が崩れ、アゼルは左手を地につけた。

 それを見たアルヴィスは、それまで放っていた気合いを解くと、アゼルの身体を抱き上げた。

 魔道士を志すアゼルの身体は、それと言った肉付きもしておらず、アルヴィスが軽々と持ち上げられるのだ。

「今日の戦闘訓練は、これで終いだ」

「……はい」

「夕食まで休むがいい。夕食後には、経済学の先生が来て下さることになっている」

「はい」

「まずは、昼食にしよう。今日は何だったかな」

「卵のふんわか焼きだそうです。アンジェがそう言っていました」

 アルヴィスの腕の中で微笑ましい笑顔を見せるアゼルに、気難しいヴェルトマー当主も微笑を漏らした。

 彼の唯一の肉親であるアゼルは、彼の中で最も大事な存在である。

 

 

2

 厚さのある絨毯ゆえにおこる微かな足音を聞き、ブルームは執務机から立ち上がった。

「おかえりなさいませ」

「留守居役、御苦労だった。何事もなかっただろうな?」

「はい。何一つ、事故もなく」

 先程まで彼が座っていた執務机には、本来ならばこの城の城主、レプトールが座っている筈である。

 それをレプトールが王都へ出向かねばならなくなった為、次期当主であるブルームが留守居役をしていたのだ。

「それで、ティルテュの姿が見えんようだが?」

「はぁ。今日もどこかに遊びに行ったようです」

「元気が良過ぎるのも、困ったものだな」

 そう言いながら、レプトールは立ったまま、執務机の上の書類に目を通し始めた。

 さすがにまだ若いブルームでは、雑多な仕事を処理しきることはできないのだろう。

「……まぁ、城の中で過ごすことしかできない女になるよりは、よほどマシだがな」

「母上から見れば、ティルテュは異端でしかないようですが」

「あの女は、もはや用済みだ。気にすることはない」

 事あるごとにティルテュの生活態度を叱る妻の顔を思い出したのか、レプトールの表情が歪んだ。

 それを感じ取りながらも、ブルームは実の母に対するフォローを忘れない。

「母上は、ティルテュを女らしく育てたかったのでしょう」

「あの娘には素質がある。城の中に留まるだけでは我慢できないバイタリティもある。あの女は、それを認めん」

 レプトールはあっさりとそう言い捨てると、ブルームに書類を突きつけた。

「お前も、城の中に閉じこもるような妻は娶るなよ」

「……気を付けておきましょう」

 突きつけられた書類を手にし、ブルームは一礼をして退出していく。

 それを目線で追いかけることなく、レプトールは執務机に座った。

「あのお転婆娘め、一体何処を遊びまわっておるのやら」

 そう呟くレプトールの表情は、娘を愛する父親の顔であった。

 

 

3

 ティルテュはフリージ家当主、レプトールの三番目の子供である。

 兄と姉が一人ずつ。兄であるブルームとの年齢差は八歳と、少し年齢が離れている。

 対して、アゼルの方はヴェルトマー家当主、アルヴィスの異母弟で、家督相続の確率は更に低い。

 アルヴィスとは六歳離れているだけなのだが、既に社交界で名声を上げている兄とは程遠い。

 アゼルにとって、アルヴィスは兄であると同時に保護者でもあり、両親のいない二人は同じ屋敷で暮らしている。

 

「ふぅ、結構時間がかかったわ」

 朝から馬車を走らせて、ティルテュは昼頃にようやくアゼル達の住む屋敷に着いた。

 本来ならばヴェルトマー城に住む筈の彼らは、アルヴィスが未だ王都で仕官している為、屋敷に住んでいる。

 ヴェルトマー城は信頼できる親戚に預け、王都とフリージの中間にある町外れに屋敷を構えているのである。

「アゼル、いるかな?」

 レプトールが王都に縛られている間は、ブルームも遊び相手はできない。

 活発に動き過ぎる娘を嫌っている母親の手から逃れる為に、ティルテュはここ数日、アゼルの家で遊んでいた。

 

「こんにちは」

 ここ数日ですっかり顔馴染みになったメイドと挨拶を交わし、ついでにアゼルの居場所を尋ねる。

「ところで、アゼルは何処にいるの?」

「昼食が終わり、アルヴィス様は執務室で仕事を。アゼル様は花壇の方にいらっしゃいます」

「そう、ありがとう」

 早速駆け出そうとして、ティルテュが後ろを振り返る。

「そこの馬車、勝手に使っちゃっていいからね。買い物とか、適当に用事押し付けといてね」

「まぁ……いつもすいません」

「いーの、いーの。どうせ、待ってるのは暇だろうしね」

 ティルテュの言葉に、まだ若い御者が軽く手を振って応えた。

 彼もまた、ティルテュの世話を長く務めるフリージの兵士である。

 

 

4

 メイドの予想通り、アゼルは庭で庭師の真似事をしていた。

 つばの大きな麦藁帽は、アルヴィスが庭いじりの好きなアゼルに買ってやったものである。

「アゼル、遊びに来たよ」

「あ、ティルテュ」

 同い年の友人としてはレックスと言う、ドズルの三男坊がいるのだが、家が遠い。

 泊り込みで遊びに来る友人と違い、ティルテュは日帰りで遊べる友人として、よく遊んでいる。

「どうしたの、そのほっぺた?」

 影のせいではないだろう。

 明らかに青い頬を見つめて、ティルテュが心配そうに尋ねた。

「今朝、戦闘訓練で兄上の魔法を避け切れなかったんだ」

「相変わらず、厳しいのね、アルヴィスって」

 十二歳と言えば、まだまだ女子の方が成長が早い。

 保護者でもある兄を呼び捨てにするティルテュに苦笑しながら、アゼルは手早く庭道具を片付けた。

「兄上も、僕の為にやってくれてることだし」

「でも、変ね。アゼル、あんなに強いのにさ。アルヴィスって、化け物なんじゃない?」

「はは……」

 辛辣なティルテュに言い返せる筈もなく、アゼルはただ苦笑を浮かべ続けるのだった。

 

 

5

 いつものように他愛ない会話から、追いかけっこ、休息、会話を繰り返す。

 ティルテュにしてもアゼルにしても、年が離れている兄弟と暮らしている分、同い年との遊びは楽しい。

 

「……あー、たのしぃ」

「ティ、ティルテュ、ちょっと休憩しない?」

 先に根を上げたのは、主導権を握られっ放しのアゼルのほうだった。

 ティルテュにしても、やはりそろそろ疲れが来たのか、素直にアゼルの言葉に従う。

「お茶、飲みに行こうか」

「多分、アンジェが用意してくれてる筈だよ」

「じゃ、屋敷に戻ろ」

 腰を下ろしていたアゼルの手を取り、二人は仲良く手をつなぎながら、屋敷のテラスへ戻った。

 テラスではアンジェが既にお茶の用意を済ませており、ティルテュの御者が、先にお茶をもらっていた。

「あ、アンタ、何休んでるの? 兄様に言いつけるからね」

「どうぞ。ティルテュ様がアゼル様の手を取っていたことを話しますから」

「ム……」

 レプトールはそれほどティルテュの言動に厳しい男ではないが、怖いのは母親のほうである。

 それこそ、一週間の謹慎では済まされないかもしれない。

「アンジェ、買い物は済んだの?」

「はい、こちらの方に馬車を貸していただけたもので」

 そう言って兵士の方に片手を開いたアンジェを見て、アゼルは兵士に頭を下げた。

「申し訳ありません。ありがとうございました」

「いえいえ。公子様に礼を言われる程では。ティルテュ様、公爵家の子息とは、このような方を言うんですよ」

「……まるで、礼儀作法がなってないみたいじゃない。あたしだって、ちゃんと礼できるもん」

 そう言って習いたての礼をしてみせるティルテュに、アゼルが軽く指摘を加える。

「ティルテュ、左手も握ったままじゃ駄目なんだよ。軽く開いて、武器を持ってないって示さなきゃ」

「え? そうなの?」

 ティルテュがアンジェを見ると、アンジェはティルテュの方に微笑んでから一礼をしてみせた。

 確かに、ティルテュとは左手の角度が違っている。

「なるほど……よくわかったわ」

「いいえ。これから嫌と言う程するようになりますよ」

「なんか、面倒臭そう」

「礼儀作法というものは、一生ついてまわりますから。特にティルテュ様くらいになると」

「うーん……やだなぁ」

 

 その時、困った表情を見せるティルテュを微笑んで見ていた兵士が、ちょっとした異変に気付いた。

 庭の奥の方を凝視するように立ち上がった兵士の表情に、三人が気付く。

「……どうなさいました?」

 三人の気持ちを代表するようなアンジェの言葉に、兵士は状況を伝える。

「曲者のようですね。異様な妖気が漂って来ています」

「侵入者かな。刺客かも知れない」

「私、アルヴィス様に御報告してまいります。アゼル様とティルテュ様は屋敷の中に避難を」

 そう言って走って行ったメイドを追うことなく、ティルテュは兵士に命令を出した。

「先に行って様子を見て来なさい。できれば、処理して」

「勿論です」

 腰に差していた剣を確認し、兵士が庭の奥の方へと走っていく。

 それを見届けて中に入ろうとしたティルテュがアゼルの袖を引いても、アゼルは動かなかった。

「アゼル?」

「すれ違いになった時に困るから、兄上が来るまでここにいる」

「危ないよ」

「大丈夫。まだ近くに気配はないよ。それに、窓を閉めれば……」

「入られないと?」

「えッ?」

 突如、背後から聞き慣れない声と共に男が姿を現す。

 突然のことに悲鳴を上げることすら出来ずに、二人は固まっていた。

「フッ、この屋敷に一人で来るほど、甘く見てはいない」

 男が背中から抜いた剣が、ピタリとティルテュの首筋に当てられた。

 ティルテュの方が、男に近い位置に立っていたのだ。

「ティルテュ!」

「大声を出すな。俺の仕事はアルヴィスの抹殺。貴様にはその人質になってもらう」

「なら、ティルテュは離せ」

「残念だが、そうもいかん。人質だけで、正面からアルヴィスと戦うわけにもいかんのでな」

「ひ、人質の人質ッ?」

 ようやく声を出したティルテュの声は、かすれて、今にも消えそうだった。

 その声を聞いたアゼルの紅い瞳が、険しさを増す。

「……嫌ァ!」

 あまりの恐怖に涙をこぼすティルテュ。

 その涙と同時に、ティルテュの電撃が暴走する。

「な、この娘、魔法をッ」

「離してぇーッ!」

 感電したように、男の手からティルテュが放り投げられる。

 ティルテュが男から離れた瞬間、アゼルの両手に炎が宿った。

「ファイア!」

 アルヴィスの扱う炎のように打撃力まであるわけではないが、アゼルの炎は違った能力を持つ。

 相手の何かを吸収して、爆発的に相手を燃やすのである。

 殴り倒す事は不可能でも、炎を相手に擦り付けることは、幼いアゼルにも可能だ。

「うわッ」

 自分の左足から炎が上がり、男は慌ててテラスの外へ飛び出した。

 それを追って飛び出そうとしたアゼルの手を、ティルテュが必死に掴む。

「アゼル、ダメッ。殺しちゃう!」

 炎を宿したままの両手にしがみつきながら、ティルテュが必死にアゼルを引き止める。

 その間に、ようやく戻って来た兵士が、男を斬り捨てた。

「お怪我はッ?」

「大丈夫。アゼルも、大丈夫?」

「……うん。ごめん、ティルテュ」

 火が消えたかのように大人しくなったアゼルに安堵したティルテュを、戻って来たアンジェが抱きしめた。

「……曲者は始末しました」

「ありがとうございます。アゼル様も、ティルテュ様も御無事で何よりでした」

 そう言って、自ら身体を離したティルテュの手を見たアンジェが顔をしかめる。

「火傷ではありませんか。どうなされたのです?」

「うん……アンジェ、包帯巻ける?」

「もちろんです。話は巻きながらお聞きしましょうか? アゼル様も一緒においで下さい」

 無言で頷いたアゼルを連れて、アンジェは医務室へと二人を連れて行くことにした。