朝日を見る前に


「はい、お祝い」

「ありがとうございます、先生」

「もう、先生じゃないでしょ」

「すみません、佐倉さん」

 親父の作った店を引き継いで、ようやく一年になる。
 世間でいう定年を迎えた親父は、お袋と一緒に海外へ移住していった。

 高校を卒業して三年間を外の店で修行していた俺は、引退を決意した親父に呼び戻された。
 そしてて半年間の店内修行が終わると、すぐに店のすべてを任された。

「でも、今日は平日ですよ」

「可愛い教え子のお祝いの日よ。明日なんて気にしないわ」

「それじゃ、今日は何から」

「シャンパン。銘柄は任せるわ」

 佐倉先生は、高校三年の時の担任だった。
 当時は二年目の若い先生で、今も別の高校で教壇に立っている。

「では、こちらで」

「ありがとう」

 セグラはスパークリングとしては安いけれど、炭酸もゆるくなく、佐倉先生の好みに合うはずだ。

「セグラかぁ……気を使わなくてもいいのに」

「あまりウチでは出ませんから」

「ノミネが飲みたかったな」

「洒落ですか」

「あたしの誕生日には入れといてね」

「夏休み中でしたよね」

「そう。いい季節でしょ」

 確かに、ノミネの定番は夏だ。
 先生が誰かを連れてきた時に、お祝いとしてノミネぐらいなら自腹を切ってもいいかもしれない。

「おぅ、二代目」

「いらっしゃいませ」

「ここでいいかい」

「どうぞ」

 近くに住んでいるという、親父の代からのありがたい常連さんだ。
 あまり長居をすることもなく、たまに奥さんと一緒に来ることもある。

「いつもの。ロックで」

「はい、ダニエルのロック」

 今日の突き出しはガーリックトーストだ。
 ツナはまだ油の処理が終わってないし、ツナ用の自家製のマヨネーズも今日は作っていない。

「次、何にしますか」

「トロイカ」

 トロイカ体制といえば、三巨頭だったかな。
 カクテルのトロイカも、三種類を等量混ぜてシェイクするところから名前がついている。
 ウォッカのボトルを手にしたところで先生の授業を思い出した俺は、ちょっぴり茶目っ気を出してみた。

「キングギドラです」

「……レモンを浮かべただけのトロイカじゃないの」

「ダメですかね」

「せめて色を考えなさいよ」

 オーブントースターのタイマーが鳴ったことを幸いに、俺は奥に引っ込んだ。

「はい、突き出しです」

 先に先生に、それから常連さんに。
 近くのパン屋に教わったこのトーストは、家で食べても飽きない味に仕上がった自信がある。

「二代目、カクテルなんて作れたのかい」

「シゲさんが、いつも頼まないだけですよ」

「まぁ、昔は飲んでたけどなぁ」

「定番なら、ラスティー・ネールですか」

「スコッチだけでいいや」

「オールド・パーですか」

「ラフロイグで」

「結局、いつものじゃないですか」

「飲み慣れんもんは飲み慣れん」

「ロックですか」

「ストレート」

 注文に答えて、ストレートで提供する。
 チェイサーを継ぎ足して、時計に視線を向ける。

「次、いいかしら」

「はい」

「アップル・ショコラ。トイレ、借りるわね」

「どうぞ」

 カクテルの用意をしている間、シゲさんがぼそりと呟く。

「今は若い子もこんな店にくるんだな」

「もう酔ったんですか」

「いや、二代目の一周年記念だろ、その花」

「えぇ」

「その花の匂いがな、あの若い子の服についてた」

「……あの方に、いただきました」

「スイートピーか」

「えぇ。よくわかりますね」

「ウチの女房がそういうのが好きでな。花言葉もよく聞かされたもんだ」

 そういうと、シゲさんはいつものようにグラスを手前に置いてから席を立った。

「帰るわ」

「おやすみなさい」

「あの若い子がプライベートなら、店、閉めとけ」

「どうして」

「スイートピーの花言葉はな、別離とか門出だ」

「別離と門出」

「もしかしたらと思ってなぁ」

「お節介ですよ、シゲさん」

 転勤で来れなくなるとかなのかなぁ。
 職場の帰りに寄ってくれてたのなら、そういうこともありえる話だ。

「初代なら、そういう気のまわし方をしたもんだ」

「ダメな二代目ですいません」

「本当、ダメダメだな」

 シゲさんを店の外までお見送りして、窓のシャッターを半分だけ下ろす。
 ちょうど雨が降ってきたから、それをいいわけにしてもいいだろう。

 


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