朝日を見る前に

(後編)


 

 シゲさんを見送って店内に戻ると、トイレから戻った先生が元の席でグラスを揺らしていた。

「今日、もう看板なの」

「いえ、少し雨が降ってきていたので」

「迷惑なら言ってよ。すぐに帰るから」

「店は五時までやってますから」

 カクテルを作って、先生の前に出す。
 一口目を大きく飲むのは、先生の癖だ。

「うん、美味しいわ」

「初めて作りましたけどね」

「ゴディバのリキュールよりも甘みが弱いのかしら」

「そうですね。ビターテイストなので、ウォッカで割ってみてもいいかもしれませんね」

「少し苦過ぎるんじゃないかしら」

「研究しておきます」

「よろしく」

 話している限りは、いつもの先生と同じだ。
 何か言いにくいことを隠しているわけでもなく、妙に陽気なわけでもない。
 体調が悪い時はグラスのペースが遅いけれど、今日はどちらかと言えば体調もいい時のペースだ。

「先生、四月からは学校を移るとか」

 他に誰もいないのだから、少しだけ生徒に戻ってみよう。
 あくまでもカウンターの中と外という立場は残したままで。

 そう考えた俺は、卑怯にもグラスを拭きながら尋ねていた。
 あくまでもバーのマスターが常連さんの近況を話題に乗せる風を装ったのだ。

「どうして」

「いや、四月は異動される人も多くて」

「あたしは変わらないわよ」

「そうですか」

「もしかして、来なくなるとでも思ったの」

「いやぁ……少しだけ」

「心配しなくても、ちゃんと来てあげるわ。もちろん、暇な時だけだけどね」

 異動というわけではないらしい。
 もしかしたら花言葉っていうのも、シゲさんが勘繰っただけなんじゃないのか。

「あ……もしかして、スイートピーか」

 そう言うと、先生はグラスを空けた。
 いくら度数が低くても、本当にカパカパと空けるなぁ。

「へぇ……そういうところまで気がまわるようになったのか。いやぁ、立派になったものね」

「まぁ、こういう仕事してますから」

「高校時代は朴念仁だったのに」

「成長しましたかね、少しは」

 シゲさんに出したグラスを流しへしまって、先生の空けたグラスへ手を伸ばす。

「次、何にしましょう」

「ラム、何かあったっけ」

「ラムですか。ストレートなのか、カクテルか」

「ストレートなら」

「ロンサカパがありますよ」

「美味しいの」

「美味しくなかったら薦めません」

「他には」

「珍しいところなら、ザヤもありますけど」

「ロンサカパで」

「ストレートでいいですか」

「貴方のお薦めでいいわ」

「ハーフで試して、飲み比べしてみますか」

「ラムはそう何杯も飲めないわね。普通にストレートでいいわよ」

 香りを楽しんでもらうために、ショットグラスではなく口径の大きいリキュールグラスにラムを注ぐ。
 グラスをまわして香りを立たせ、先生の前に置く。

「どうぞ」

「ラムの香りね。ホワイトラムなんて、目じゃないわね」

「一緒にしないでください。これはストレートで飲むためのラムなんですから」

 俺の言葉に微笑んで、先生がグラスを傾ける。
 さすがに一気に飲んだりしないところは、先生も緊張して飲んでくれているのか。

「美味しい……極上の黒砂糖のアクを抜いて寝かせた感じがするわ。これは美味しい」

「サラリとしてるでしょ。もっとサラリとしたものもありますけど、入荷が難しくて」

「入ったら教えなさいよ。飛んでくるわ」

 満足してもらえたようだ。
 時計の針が十二時をまわって、かけていたCDが二度目のリピートを繰り返し始めた。

「何か聞きたいもの、ありますか」

 いつもはお客様に聞かないけれど、今日はもう誰も来ない。
 来たとしても気心の知れた常連さんだけだからかまわないだろう。

「洋楽でいいわ。落ち着いたメロディーのものを」

「はい」

 CDを入れ替え終わると、先生がチェイサーのグラスを掲げていた。

「チェイサー」

「はい」

 二口ほどチェイサーを飲んで、先生は笑った。

「可愛い教え子に、奢ってあげたいんだけど」

「いただきます」

「好きなの、飲んでいいわ」

「じゃあ、ラムをもらいます」

 ロンサカパのXO。
 あまり香りの残らない、後味のすっきりしたラム。
 まぁ、先生に自腹を切るノミネの前借りということで。

「何気にXOがあったのね」

「バーですから」

「次、そっちにして」

「先に飲まれますか」

「後でいいわよ。乾杯しましょ」

 グラスを持ち上げると、先生がグラスを高く掲げてきた。
 軽くあわせてから、ありがたく口に含む。

「お誕生日、おめでとう、支倉君」

「ありがとうございます。覚えていてくれたんですか」

「当然でしょ」

 思わず、グラスを傾ける手に力が入った。
 もう少しゆっくり飲むつもりだったのに……もったいない。

「あぁ……スッキリした」

「終わりですか」

「そうね。美味しいお酒で終わるのも大事よね」

「チェイサー、いりますか」

「いい。次、カイピロスカ」

「カイピリーニャじゃなくて」

「それをウォッカでお願い」

「はぁ……初めてですけど、いいですか」

 終わりじゃないのか。
 結構な杯数いってるけど、大丈夫なのか

「支倉君」

 ライムを潰している最中に名前を呼ばれて、俺は視線だけを上げた。

「帰りたくない」

「ダメですよ、帰らないと」

「帰っても一人だし」

「実家じゃなかったですか、先生」

「弟が結婚してね。追い出された」

「一人暮らしですか、今」

「そうよ。昨日、引越しが終わったところ」

「タクシー、呼べますよ」

「呼ぶほどの距離じゃないわ」

「一応、先生も若い女性ですから気をつけてくださいよ」

「支倉君が送ってくれるなら、帰ってもいいかな」

「冗談はそこまで。酔ってるなら、これで最後ですよ」

「チェイサー、コーラにしてよ」

「特別ですよ」

 先生に最後の一杯とコーラを出して、出したままになっていたラムのボトルを引き上げる。
 今日はもう、閉めてしまおう。

「店の外で待たれるのと、中で待たれるのと、どっちがいいのかしら」

「酔い覚ましなら、そこのソファでもいいですよ」

「眠りそうね」

「タクシー、呼びますから」

「本当に歩いて帰れる距離だから」

「でも、先生」

「たまには恩師の言うことを聞きなさい」

 確かに、雰囲気は酔ってない。
 ただ、いつもと言動はかなり違ってる。

「ふぅ……ごちそうさま」

「では、こちらで」

「はい」

 一万円を受け取って、お釣りを返す。
 先生の手の動きはいつもと変わらなかった。

「支倉君は、どうやって帰るの」

「自転車ですけど、待ってもダメですよ」

「嘘おっしゃい。看板の電気、随分前に消したでしょ」

「見えてるわけないじゃないですか」

 少しドキッとした。
 先生の言うとおり、看板の電気は消していたのだ。

「ダメよ。半分下ろしたシャッターから漏れる光の量が最初と違ってるわ」

「……よくわかりましたね」

「これでも、貴方の担任だったからね」

 何か関係があるのだろうか。
 そんなにわかりやすい性格してたっけ、俺は。

「貴方の性格も、貴方のまわりに集まってくる人の性格も、それなりに当てられるわ」

「お節介でお人好し、ですか」

「そして、年上タイプが集まってくるのよ」

 先生の言うとおりですよ。
 よく見ていることで。

「早く、店の片付けをしてきなさい。朝ご飯、奢ってあげるから」

「とことん帰らない気ですね」

「そうよ。教え子を連れまわすのは恩師の特権なんだから」

「まったく……」

 迷惑な話だよ。
 待たせるわけにもいかないので、必要最小限の片付けを終わらせて、先生を先に外へ出す。

「ほら、行くわよ」

「今日限りにしてくださいよ」

「当たり前じゃない」

 自転車を押して、先生の隣に並ぶ。
 先生の服から、控えめな香水の香りが鼻をくすぐってくる。

「駅向こうのファミレスでいいわね」

「かまいませんよ」

 先生の歩くスピードは、自転車を押していてもさほど問題にならないペースだ。
 歩いて十分ほどのファミレスまで、俺はただ黙ってついていく。

「……支倉君、金津さんって覚えてるかしら」

「えぇ、学級委員長」

「結婚するってさ」

「……知ってます」

「貴方だけよ、二次会に来なかったの」

「仕事が忙しくて」

「店は閉まってたわね」

 別に何か理由があったわけではない。
 ただ単純に、見たくなかったんだ。彼女の花嫁衣裳を。

「高校時代を振り切ってないの」

「さぁ、未練はないですよ」

「心配してたわよ、あたしが」

「……すみません」

「謝るくらいなら、クラスメートの前で笑顔の仮面をつける練習くらいしておきなさい。
 たとえ何があってもそれができてこそ、一人前のバーテンダーでしょ」

 そう言うと、先生が俺の頭を叩いていた。
 軽くさすりながら、思わず流れていた涙を拭う。

「さぁ、日付は変わって年度も変わったわ。ここから先は大人になった支倉君を堪能しようかな」

「男としてみてくれるんですか」

「さぁね。とりあえず、朝日が昇る前に朝食食べて、人が動き出したら家に帰る。
 その間にあたしの連絡先が聞けたなら、男としてみてあげる」

「うわ、三十路の人に上から見られてるし」

「まだ二十代よ。失礼な」

 そう言って俺を叩こうとした先生の手をつかんで、俺は強引に腕を組ませた。

「もう……それくらいの根性があるなら、ちゃんと出てきなさいよ」

「はい」

 朝日が昇るまでは、あと一時間ぐらいか。
 まぁ、世間慣れしていない先生のアドレスを聞くには、十分な時間だろう。

「さて、何を食べましょうか、佐倉さん」

 

 

<了>