兄貴


「ヨハルヴァ様、御相談したい議があります」

 ソファラ城の鍛錬室で汗を流していたヨハルヴァへ、彼の副官である武将がそう言って鍛錬室に入って来た。
 昔はランゴバルト卿の元で仕えていたこの老武将は、武勲には自信のあるヨハルヴァも一目置く存在である。

 勢いよく手斧を投げて正面の壁に突き刺すと、ヨハルヴァは額の汗を腕で拭いつつ、クロウの方へ向き直った。

「クロウ、どう言った用件だ? 見合い話ならもういいぜ」

 先日、押し付けられてしまったお見合いでは散々な目に遭ったことを思い出し、ヨハルヴァが苦笑して見せる。
 そのことに関してはクロウも多少の罪悪感があったのか、思わず微笑んでいた。

「まぁ、そのようなこともございましたな」
「酷い目にあったぜ。大体、兄貴と俺とがゴチャゴチャになってたじゃねぇか。迷惑な話だぜ」

 そう言いながら、ヨハルヴァは鍛錬室の隅においてある椅子の方へ歩を進めた。
 椅子に掛けてあった自分のタオルで顔の汗をふき、汗が流れ落ちている腕をぬぐう。
 クロウはヨハルヴァが一通り汗をぬぐい終えるのを待って、ようやく用件を切り出した。

「話と言うのは、現在のソファラの財政状況にございます」
「財政状況ねぇ……一任してある筈だろ」

 ヨハルヴァの言う通り、ヨハルヴァはソファラの内政に関しては、一切を部下に任せている。
 元々、ヨハルヴァは武将と言う方が相応しく、内政に関しては全くの素人である。
 ならば無理なことはせず、出来る人間に任せようと言うのがヨハルヴァの考え方だった。

「は……ですが、やはり多少のことは知っておいていただきませんとな」

 そのことは重々承知の上でのことなのだろう。
 クロウの表情は、ただ単に耳に入れる程度の用件ではなさそうだった。

 クロウのその表情をみて、ヨハルヴァは小さく嘆息をつく。
 ヨハルヴァの考えを尊重しつつも、クロウは度々、ヨハルヴァに課題めいたものを提出する。
 ドズル王家直系の男子として、為政者としての修行も同時に積まなければならないと言うのが彼の持論だった。

 そのクロウの親心は解っているつもりでも、ヨハルヴァにとってすれば耳の痛い話ではある。
 武勲だけで自分を示すことは彼にとって造作もないことだが、内政問題となると幼い時のツケが回ってくる。
 なまじヨハンと言う一風変わった兄の存在がいるために、ヨハルヴァにかかる周囲からの期待が大きくなっているとも言える。

「んで、何のことだってんだ」
「はい。最近の税収が極端に落ちているのは御存知ですかな」

 クロウの言葉を聞き、ヨハルヴァが顔をしかめる。
 その表情一つで、クロウはヨハルヴァに書類がまわっていないことを確信した。

「御存知ないようですな」
「あぁ……そんな話は聞いたことがねぇな」
「それでしたら、お教え致しましょう。この数ヶ月で約半分まで落ち込んでおります」

 さすがのヨハルヴァでも、こうも簡潔に言われては理解しないという方が難しい。
 頭の隅の方に眠っている記憶を叩き起こし、ヨハルヴァは辛うじて数ヶ月前の税収の金額を口にした。

「確か、八千だったかな」
「おおよその数値ですな。今は五千を割る勢いです」
「疫病が流行ってるわけでもねぇし、税率を落としたのか」

 税金と言うものは、基本的には納税者の数と税率によって変動する。
 疫病で大量に納税者が減っているわけではないので、ヨハルヴァの指摘は的確だった。

 だが、クロウはそれを否定した。

「いえ、税率は動かしておりません」
「じゃあ、どうして税収が落ちるんだ」
「大量の脱国者がいるからです」
「脱国者? どうしてそんなもんが増えるんだよ」

 ヨハルヴァの治世が悪いわけではない。
 全てを、それぞれの分野で有能な部下に任せるというヨハルヴァのやり方は、最近ではかなり良い方だ。
 グランベル本国からの移民者も徐々に増え、ソファラは田舎にもかかわらず比較的裕福な都市であった。

「わかりませんか……子供狩りの影響です」

 クロウはそう言うと、小さく息を吐いた。
 子供狩りという言葉を聞いた瞬間のヨハルヴァの瞳に、諦めにも似た無気力な光を見たせいなのかも知れない。

「子供狩りの影響じゃ仕方ねぇだろ。どこでもやってんだ。ウチだけの問題じゃねぇ」
「ですが、子供狩りを拒否なされているヨハン公の下には悲鳴を上げたくなるほどの移民だとか」

 クロウのヨハンと言う言葉に目敏く反応し、ヨハルヴァが声を低くする。

「クロウ、何が言いたい」
「子供狩りについて、御再考をお願い申し上げます」

 そう言って頭を下げたクロウを、ヨハルヴァは立ち上がって厳しい目付きで見下ろした。
 ヨハルヴァの殺気にも似た視線を浴びながら、老武将は決して頭を上げようとはしない。

 若い城主の波動を跳ね返す雰囲気を、彼は醸し出していた。

「子供狩りはグランベル本国からも強く指示されている。ソファラだけが逆らうことはできねぇ」
「されど、ヨハン公は毅然とした態度で子供狩りを禁止していらっしゃいます。隣国なればこそ、その影響は免れますまい」
「兄貴のやってることはどうでもいい。例え民衆に恨まれようが、子供狩りは中止しない」

 話は終わりだと言わんばかりに、ヨハルヴァが足音を立てて鍛錬室を出て行く。
 顔を上げることなく主君を見送ったクロウは、他に誰もいなくなった鍛錬室で大きく息を吐いた。

 数分ぶりに持ち上げられた顔には、やや疲れが浮かんでいた。

「やれやれ……しかし、このままでは領民は全てイザークへ流れるだろう。それは御二人にとっても不幸」

 そう呟いて、クロウは開け放たれていた鍛錬室の扉をくぐって行った。

 

 


 子供狩りを提唱したのは、暗黒教団筆頭司祭のマンフロイである。
 アルヴィスによって容認された子供狩りは、全国民の平等な教育を掲げ、一斉に施行された。

 もちろん、エッダは住民の根強い反対ではかばかしい成果を上げられず、フリージは真っ向から拒否。
 シレジアとトラキア半島は辛うじて独立を保っているために、子供狩りは行われなかった。

 そうは言っても、大陸の大半がグランベル帝国の支配下にあり、大陸各地で子供狩りは行われている。

 

 

「子供狩りを拒否するわけにはいかないんだ」

 執務室の椅子に腰をかけ、ヨハルヴァは苛立たしげに机を拳で殴りつけた。
 その音に、執務室に入って来たばかりのメイドが慌てて用件を口にする。

「ヨハルヴァ様、国境警備隊の隊長が参りました」
「あぁ、通してくれ」

 ヨハルヴァのためのお茶を置いて退出するメイドと入れ替わるようにして、警備隊長が入ってくる。
 まだまだ若い警備隊長は、ヨハルヴァと歳も近く、日頃からくだけた間柄である。

「よぉ、ヴィンス」

 ヴィンスと呼ばれた警備隊長は、苦笑しながら敬礼を解いた。

「いきなりそう呼ばれると、自分の立場を忘れそうになる」
「いいじゃねぇか。どうせ級友だろ」
「そう言われると嬉しいが……何かあったのか?」

 ヴィンスの問いかけに、ヨハルヴァは軽く頷いてクロウから聞いた一件を話した。
 黙ってそれを最後まで聞いた後で、ヴィンスは小首を傾げながら口を開いた。

「国境の警備は絶えず行っているが、そのような場面に遭遇したことはないな」
「本当か?」

 クロウの言葉を否定されたような気がして、ヨハルヴァの口調が厳しくなる。
 それを特別厳しい口調だとも感じずに、ヴィンスは思い出すようにして話を続けた。

「ソファラから出ようと思えば、街道は一つだ。俺達が見逃す筈はない」
「確かにそうだな。それに、ガネーシャの連中が逃がしているとも思えん」
「だろう。あの辺は平坦な地形だ。たとえどんなに闇に紛れたとしても、何処かの高台から見れば発見できるだろう」

 自信を持って断定する警備隊長に、ヨハルヴァは困惑を隠し切れなかった。

「だがな、確実に税収が落ち込んでいる。どう考えても領民が減っているとしか思えなくてな」
「疫病が流行っているのではないのか?」
「その事実はない。クロウは子供狩りのせいだと言ってやがる」

 そう言ってヨハルヴァが苦虫を噛み潰したような表情になると、ヴィンスは肩をすくめた。

「何処に逃げると言うんだ。大体、何処に行っても子供狩りからは逃げられないだろう」

 ヴィンスの言う通り、逃げる街道はたった一つ。
 そこにはヴィンスたち国境警備隊が待ち構え、その向こうにはガネーシャの警備兵もいるのだ。

 例えガネーシャに逃げ込んだとしても、そこがグランベル領である限り子供狩りは行われている。
 更に言うならば、ソファラから唯一実施されていないフリージまでは限りなく遠い。エッダでさえ、砂漠の向こう側にあるのだから。

 そう考えたヴィンスは、何とか脱走する家族を思い描いて、更に首を横に振った。

「無理だな……それに、子供の足で砂漠を渡れる筈がない」
「……でもな、逃げ場はあるんだぜ。イザークでは子供狩りが行われてねぇんだ」

 ヨハルヴァの言葉に、ヴィンスの動きが一瞬止まる。
 しかし、次の瞬間には目の前の机に両手をついて、ヨハルヴァに詰め寄っていた。

「ちょっと待て。イザークの今の城主は……」
「あぁ、兄貴だ」

 一瞬の沈黙が流れた後、ヴィンスは頭をかきむしってクルクルとその場でまわり始めた。
 昔から混乱するとまわる癖があるのを知っているヨハルヴァが、その首根っこを押えつける。

「落ち着け」
「いや、だが、ヨハン先輩、本当に何を考えてるんだッ。昔から変な人だとは思っていたが……」

 まわることは止めたが、ヴィンスの両手は自分の髪の毛をつかんだままである。
 ヨハルヴァは静かに、冷えてしまった自分のお茶に手を伸ばした。

「あのフリージの女将軍でさえ、教団から睨まれて嫌がらせを受けてると言うのに、何を考えてるんだッ」
「兄貴の頭の中は一度解剖しなくちゃならねぇな」
「落ち着いてる場合かッ。まだ本国からの通達が来ていないうちに、思いとどまらせなければ」
「……無理だぜ。あの兄貴が、デカイことをやる時は頑固だからな」

 ヨハルヴァとヨハンは幼い時から今のように犬猿の仲なのではない。
 二人が成人していくにつれて、二人の間に考え方の違いが生じ、それ故に反目しあうようになったのである。

 言ってみれば、至極当然の成り行きだった。

「だが、どうするつもりなんだ? いくらドズル王家の直系だと言っても、本国に逆らっていい筈がない」

 ヨハンとヨハルヴァはドズル王家の直系。
 事あれば、ヨハンはドズル公爵家の頂点に立つ可能性もある人物である。
 そんな人間がグランベル本国に牙を向いたとなれば、その制裁は想像に難くない。

「兄貴の真意を確かめる。ヴィンスは、その間の留守を頼むぜ」
「あぁ、それくらいなら任せてくれ。だが、どうやって行くつもりだ? ガネーシャ領を通って行くのは……」

 ガネーシャを統治しているハロルドはヨハルヴァ達の監視役でもある。
 子供狩りを禁じているヨハンの所へヨハルヴァが向かうのは、体制への反逆と取られてしまう。

 ヴィンスの懸念は尤もだった。

「いや、山を……」

 ヨハルヴァの言葉が止まる。
 それと同時に、ヴィンスが気付いた。

「山か……」
「だが、万年雪の残る高山だぞ。リボー城の辺りならともかく、ソファラからイザークへは無理がある」

 ヴィンスの言う通りだが、ヨハルヴァは自分の着想に自信を持っていた。
 それは、すぐに確信へと変わる。

「この目で確かめてみる」
「ヤメロとは言わないが、気をつけろよ。イザーク王家の残党が潜むって噂だ」
「問題ねぇよ。何度あの山で遊んだと思ってるんだ?」

 そう言って口許を曲げてみせたヨハルヴァに、ヴィンスは微笑を返した。
 それは少し諦めの入った笑顔だったが、ヨハルヴァが頑固なことはヴィンスもよく知っている。

「まぁ、心配はしない。だが、充分に気をつけてくれ」
「あぁ。悪いが、後のことは頼んだぜ」
「任せてくれ」

 ヴィンスが危惧したイザーク王家の残党に関して言えば、ヨハルヴァは絶対に安心だった。
 何故なら、ヴィンス達国境警備隊を山から遠ざけていたのは、他ならぬ彼だったのだから。

 

 


 ヨハルヴァの吐く息が白くたなびく。
 イザークはそれほど雪深いという地方ではないのだが、標高が高い。
 ヨハルヴァの頑強な体でさえも突き抜ける程の冷たい空気が、嫌が上でも今いる地点の標高の高さを教えてくれる。

「……あの辺か」

 道無き道を記憶を頼りに歩きながら、ヨハルヴァはある隠里を目指して山道を進んでいた。

 イザーク王国が滅亡した時、イザーク王国に縁のある者はそのほとんどが追手の手を逃れていた。
 それは単にイザーク王家の者たちの個人技量が、グランベルの兵士を大きく上回っていたからである。
 結果として、ドズル軍は多くのイザーク王家の者をとり逃していた。

「上手く会えればいいけどな」

 ヨハルヴァは見覚えのある木に少し安堵の息をつきながら、一人の少女の笑顔を思い出していた。

 

 

 少女は短く活動的な黒い髪をしていた。
 だが、それだけならば隠里に訪れたヨハルヴァの目を引くことはなかっただろう。
 ヨハルヴァの目を引いたのは、少女の異常なまでの俊敏さとしなやかな動きであった。

「兄さん、あの娘……」

 ヨハルヴァが自分の隣にいるヨハンの腕を引くと、ヨハンは笑顔で頷いてみせた。

「速いだろう。スカサハの双子の妹らしい」
「スカサハ?」
「あぁ。イザークの遺児らしくてな。この間、街で会った時に友達になった」

 ヨハンがそう言った時、二人の姿を見つけたらしいスカサハが手を振りながら走り寄って来た。
 思わずヨハンの背後に隠れながら、ヨハルヴァはしっかりとスカサハを観察する。

 少女よりも茶色がかった短髪は、手入れが雑なのかまとまりがない。
 そして何よりも目を引くのは、彼が腰に差している大きめの剣であった。

「よぅ、ヨハン」
「あぁ。久しぶりだな、スカサハ」
「本当にまた来てくれるとは思わなかったぜ」
「何を言っている。私は約束を破るような男ではない」

 ひとしきりヨハンと会話を交わしたスカサハは、一段落着くとヨハルヴァへ視線を移した。

「この子は?」
「弟だ。ヨハルヴァという」
「へー、お前の弟か。お前と違って男前だな」
「おい」

 ヨハンの不満そうな言葉を無視して、スカサハがヨハルヴァに手を差し出した。
 ヨハルヴァがその手を握り返すと、スカサハが強引に彼を自分の前に引っ張り出した。

「俺はスカサハ。よろしくな、ヨハルヴァ」
「あ、あぁ……よろしく」

 馴れ馴れしいスカサハに驚きながら、ヨハルヴァは歩きだした二人の後ろをついて行く。
 前を歩く二人は何やら話しているのだが、その言葉は緊張しているヨハルヴァの耳には入ってこない。

 三人がしばらく歩いていると、ヨハルヴァの耳に甲高い金属音が響いて来た。

「……やぁッ」
「遅い。剣に振られるな、手元を絞れ」

 ヨハルヴァに聞こえた金属音は、ラクチェとシャナンの交わした剣の擦れあう音だった。
 真剣な二人の様子を、スカサハとヨハンの二人は楽しそうに眺めている。

「前よりも腕が上がったようだな」
「最近はかなり速くなってきてる。速さだけなら俺よりも上だな」
「それでは、私が勝てる相手では無くなりそうだな」

 そう言いながら眺めている二人とは違い、ヨハルヴァは間近で見る少女から目が離せなくなっていた。

 ヨハルヴァがかつて受けたことのない何かを、ヨハルヴァは少女から受け取っていた。
 その何物かも判らない何かが、彼を少女に釘付けにする。

「……テェッ」
「惜しい」

 ラクチェの渾身の払いを、シャナンは剣を盾にして受ける。
 そのまま力で押したラクチェの剣を、シャナンはあっさりと剣の上で滑らせた。

 ラクチェの剣が地面へ滑り降りた瞬間、シャナンの剣がラクチェの頬を突いていた。

「ここまでにしよう」
「はい……ありがとうございました」

 剣を納め、一礼したラクチェに代わり、ヨハンが前に進み出る。
 ヨハンを目にしたシャナンの口許に一瞬だけ微笑が浮かぶが、ヨハンが一礼すると同時に微かな喜の感情が消えた。

「セィッ」
「甘いよ」

 ヨハンの一撃をシャナンが紙一重でかわす。
 ヨハルヴァの目から見ても、先程よりはシャナンの余裕がなさそうである。

「嘘だ……こんなに強いの?」

 思わず呟いた言葉に、汗をぬぐっていたラクチェが不思議そうな顔で聞き返した。

「アンタ、ヨハンの弟でしょ。アイツの強さ、知らないの?」
「兄さんがいつもより違う……」
「アイツ、少なくとも今のアタシより強いよ」

 隣に立っているラクチェのことを気にもかけずに、ヨハルヴァの視線はヨハンを追っていた。

「さすがに正攻法では強いな」

 ヨハンの打ち込みを難なくかわしつつ、シャナンの足の動きが滑らかになっていく。
 ヨハンの動きが徐々に誘われるような動きになってゆき、ヨハンは攻める手を止めて、大きく後ろへ退いた。

「……ようやくこの間合いに気付いたか」
「さすがに五度も失敗すれば」

 ヨハンの返事に、シャナンが剣を上段に構えた。

「では、そろそろステップを上げようか」
「望むところ」

 それまでは殺気を感じさせていなかったシャナンの剣が、鋭さを増す。
 逆にヨハンの足の捌きが、何かに圧倒されているかのように小さくなっていく。

「シャナン様、かなり本気だぞ」
「それは……見たらわかるけど。どう違うの、兄貴」

 ラクチェの質問に重なるように、ヨハルヴァの視線がスカサハへ向く。
 二人の視線を受けて、スカサハはヨハンから視線を外さずに答えた。

「踏み込みの鋭さが違う。今までは意識的に半歩進めないでいた。
 それが変わっただけで、剣の振りの鋭さ、切り返しの速さが格段に変わる。
 ヨハンの奴、まだあのスピードに耐え切れてない」
「兄貴、何でそこまでわかってるの?」
「ヨハンの踏み込みが完全に抑えられている。斧のようにリーチが無い武器は、踏み込みの鋭さと長さで全てが決まるんだ」

 スカサハの言葉が終わるや否や、ヨハンの手から斧が飛んだ。
 咄嗟にかわしたと見えたシャナンだが、ヨハンが捨て身の突撃とばかりに態勢を低くした時には、剣の切っ先を向けていた。

「……読んでいたんですね」
「お前のタイミングの取り方は読めているからな。正攻法が多いお前なら、斧を投げつけると読んでいた」
「まだまだかないませんか」

 そう言って頭を下げる兄の姿を見ながら、ヨハルヴァは体が熱くなるのを感じていた。

 

 

「ヨハルヴァじゃない。どうしたの?」

 隠里を眺められる位置にいて、しばらく懐古し過ぎていたのだろうか。
 ヨハルヴァが声に視線を上げると、剣を携えたラクチェがヨハルヴァの方へ歩いて来ていた。

「ラクチェ……いたのか」
「まぁね。何となくヨハルヴァが来そうな気がしてさ」
「嬉しいねぇ。以心伝心って奴かな」
「バーカ。そんなんじゃないって」

 初めて会った時からは想像もつかない程、二人の間には親密な空気が流れていた。
 それはヨハルヴァ自身が変わったせいでもあるし、二人が出会ってからの時間が築き上げたものだ。

「ちっと気がささくれ立っちまってんのさ。ラクチェに会わなきゃ、どうにもならねぇくらいにな」
「バッカじゃない。アタシなんかの顔見たって意味ないよ」

 呆れた顔をしているラクチェに微笑んで、ヨハルヴァはここに来た理由を告げた。

「話が聞きたくってな」
「アタシに? 言っとくけど、結婚してくれって話ならこの場で斬るわよ」

 何度も言われたことなのだろう。
 剣の柄に手をかけたラクチェの瞳は笑っていない。

「まさか。さすがに、そんなことでここまで来やしねぇよ」
「どうだか。んで、話って?」

 依然として柄に手をかけたまま、ラクチェが態勢を変えた。
 そのままの態勢では例え剣を抜いたとしても斬りかかれない態勢になって、ラクチェはヨハルヴァに先を促した。

「子供狩り……どう思ってる?」
「悪法よ。あれは明らかにセリス様を探すための口実だわ。もっとも、今はそれだけじゃなくなってるけど」

 即座に言い切り、ラクチェは柄から手を離した。
 ヨハルヴァの瞳が、更に迷い始める。

「今は教団の洗脳手段と言いたいのか」
「それ以外に何があるわけ? 要は教団の配下として洗脳して、教団に逆らえないようにしてるだけじゃない」
「……そうか」

 ここまできて、ようやくラクチェはヨハルヴァの異変に気付く。

「アンタ、どうしたの?」

 普段はいつでもツッコミにも等しい強力な一撃を食らわせるために空けている距離を、ラクチェは取り払った。
 思わずそばに寄ってしまうほど、ヨハルヴァは袋小路の中で更に小路を作っているようだった。

「……いや、兄貴が……子供狩りに抵抗したんだ」
「ヨハンが? そんなことして、アイツは無事なわけ?」

 いかに日頃のヨハンの変人っぷりを知っているとはいえ、ラクチェは驚きを隠せなかった。
 ヨハンは公爵家の継承資格保持者でもあり、現在はイザーク城を治める一国の主である。

「そいつを確かめに行く途中だ。その前に、何か会いたくなっちまってな」
「そう……悩み、取れた?」

 そう言って笑いかけてくるラクチェに手を伸ばそうとして、ヨハルヴァはその手を押えつけられた。

「調子に乗らない。さっさとヨハンに会いに行ったら?」
「ケッ。言われなくてもそうするよ」

 そう言い返して立ち上がったヨハルヴァに、ラクチェが心配そうに声をかけた。

「ヨハルヴァ。アンタは無茶しないでよ」

 ラクチェの言葉の意味がわからずに振り返ったヨハルヴァに、ラクチェは少し間を置いてから答えた。

「アンタは無茶できるような奴じゃない。ヨハンは無茶したって退き際を知ってるからいいけど」
「俺が兄貴よりも大人しいって言うのか?」
「そう言うわけじゃないけど。とにかく、アンタまで無茶して変なことになったら、アタシたちも辛いしね」
「それが言いたいだけかよ」

 そう言い返して肩を竦め、ヨハルヴァはラクチェに背中を向けた。
 歩きだした背中を、ラクチェの声が追いかける。

「絶対無茶だけはしないでよ。アンタ、可能性と引き換えに限度を知らないんだから」
「……あぁ。忠告、感謝するぜ」

 片手を挙げてそう答えたヨハルヴァの背中が見えなくなるまで、ラクチェはその場に立ち止まっていた。

「バカ……好きじゃなきゃ、そんな忠告しないって」

 ほんの少しだけ、周囲を見回す。
 人の気配はおろか、動物の息遣いさえ聞こえない。

 どうやら、ラクチェの言葉は誰にも聞かれていた様子はなかった。

「言えればいいんだけどね……面と向かって」

 一抹の寂しさを覚えながら、ラクチェは隠里へと戻り始めた。

 今の彼女が彼に付いて行くことは躊躇われた。
 なぜなら、彼女のもとにはイザークから届けられた、教団幹部のイザーク下向の情報がもたらされていたのだから。

 

 


「ヨハン様、教団の連中が北西のザイルの町に現れたそうです」
「遂に来たか。街道を閉鎖し、国境警備隊には森の中を注意させろ。イザークから彼らを出すな」
「ハッ」

 通常業務をこなしていたヨハンの許に駆けつけて来た部下を再び伝令に走らせ、ヨハンがマントを羽織る。

「ヨハン様、近衛隊の出撃準備整いました」
「戦闘配備にしておいて正解だったな。よもや、戦闘になることはないだろうが」

 そう言いながらも、ヨハンの表情は硬い。
 ヨハンが教団幹部のリボー到着から危惧していたことは、どうやら現実になりつつあった。

「町へ向かう。全力でついてこい」
「はい」

 ヨハンを先頭に、ヨハン直属のイザーク隊が町へ向かって街道を疾走する。

 町までは約三十分。
 ヨハンが到着するまでに教団側が子供狩りを完了させられる見込みはない筈だった。

 

 

 ザイルに到着した教団幹部は部下に命じて、片っ端から子供狩りを開始した。
 リボー城主・ダナンの進言によって森の中を進んだ彼らは、イザークの国境警備隊に見つかることなくザイルへと到着していたのだった。

「さっさと子供狩りを済ませろ」

 フードの中に隠れてその素顔を見ることはできないが、そのことがかえって彼の恐ろしさを醸し出している。

「いやぁッ」
「離せよ、クソジジィ!」

 悲鳴を上げながらも、力ずくで次々と荷馬車へと詰め込まれていく子供たち。
 彼らを阻止しようとした役人は、既に教団幹部の黒魔術によって絶命していた。
 一般人が教団幹部クラスの魔道士に戦いを挑むことは、無謀の一言である。

「……若造が。生意気にも我等に刃向かうとはな」

 自らの子供狩りの業績の悪さからイザークへと派遣された魔道士は、そう呟くと御者へ進むように手を振った。

 馬の嘶きがして、大きな車輪が動き出す。
 任務を終えてようやく一息つこうとした魔道士に、今度は大きな罵声が掛けられる。

「腐れ僧侶ー!」

 今までは浴びせられることのなかった罵声に彼が背後を振り返ると、町の人間が多数、彼らを包むように立ち上がっていた。

「フン、命知らずが」

 手っ取り早く、広域呪文を発動させようとした魔道士は、今まで受けたことのない殺気を感じて思わず顔を上げた。

「そこの一団、誘拐の現行犯で処罰する。申し開きがあれば申してみよ」

 馬に乗った若者が、そう言って魔道士を睨み付けていた。

 若気の至りか。
 妙な使命感に満たされた、世の中の動きを読めない愚か者が。

 そう思いながらフードを取って教団幹部の印たる額の紋章を見せた魔道士に、若者は再度繰り返す。

「申し開きがあるならば、この場にて申し開きを許す」
「我は教団幹部、ヨムである。現在、子供狩り執行中である。無礼であろうが」

 てっきりその言葉で引き下がると思われた若者は、逆に斧を構え出した。
 慌てたヨムがもう一度声を出そうとした瞬間、御者が悲鳴を上げて馬から滑り落ちた。

「何ッ」

 御者の落ちた音に振り返ったヨムは、御者が落ちているのを見て激昂した。
 だが、ヨムに突きつけられたのは、ヨハンの凛とした指示だった。

「この領内での子供狩りは禁じられている。いかに教団幹部と言えど、法を破りし者に人権はないと思え」
「な、何だとッ? 貴様、正気かッ」

 魔力を溜めることも忘れ、ヨムが馬上のヨハンへと食ってかかる。
 しかし、ヨハンは全く気にする様子も見せずに、部下に一団の捕縛を命じた。

「……そうか、貴様がヨハンとか言う若造だな」
「その通り。悪いが、子供狩りを許すわけにはいかない」
「教団に背くことになるのだぞ」

 ヨムの思いつく最大の脅し文句も、ヨハンはどこ吹く風だ。

「私は教団に仕えているのではない。私が仕えるのはグランベル王であり、イザークの民のみだ」
「き、貴様ッ……それがどういうことか解っておるのだろうなッ」
「騎士として、城主として当然のことをしているまで」

 ヨハンの言葉に答える前に、ヨムの両腕を騎士が捕まえる。

「無礼者がァ!」

 魔力を暴発させ、周囲の人間を吹き飛ばす。
 ヨムとて幹部にまで上り詰めた人間である。そう簡単に雑兵に捕まる実力の持ち主ではない。

「……皆、離れていろ。この者は私が始末をつける」

 そう言って部下を下がらせたヨハンに、ヨムの陰湿な魔力が襲い掛かる。
 右足をつかまれたような感触を受け、ヨハンは思わず態勢を崩した。

「ヨツムンガルド!」

 ヨムの手から放たれた黒い魔術がヨハンを襲う。
 辛うじて直撃を逃れたヨハンが、斧をヨムに投げつける。

「甘いわッ」

 魔力の障壁で斧をあらぬ方向へ弾き返し、ヨムが再び攻撃のための魔術を練る。
 ヨハンにダメージは少なそうだが、ヨハンは周囲の人間に被害が及ぶことに気を使い過ぎていた。

 

 

「何やってんだよ、バカ兄貴!」

 ヨムの放ったヨツムンガルドを、ヨハンは誰かの体当たりによって難を逃れた。

「あんなもん、まともに食らったらいくら兄貴でもヤバイに決まってんだろ」
「……ヨハルヴァか。どうしてここにいる?」

 戦闘中にもかかわらず、本当に不思議だから尋ねたという感じの兄を、ヨハルヴァは苛々しながら怒鳴りつけた。

「目の前に集中しろよッ」
「ま、そうだな。ヨハルヴァ、手斧を投げるから、その隙を狙え」
「あ、あぁ」

 三度、攻撃態勢に入ったヨムの先手を取って、ヨハンの投げつけた手斧がヨムに魔力を使わせる。
 魔力の障壁が崩れ落ちると同時に、ヨハルヴァの一撃がヨムを切り裂く。

「殺すなよ」
「……わかってる」

 ヨムの急所を殴りつけて、ヨハルヴァが斧を納めた。

 ヨムが崩れ落ちると同時に、遠巻きにしていた騎士たちが縄を持ってヨムの許へ走る。
 彼らがヨムを縛り付け、ヨハンはようやく息を吐いた。

「助かった」
「……俺だって、兄貴の死ぬところを見たいわけじゃねぇよ」
「それは私も同じことだ」

 そう答えて馬のいる方へ戻ろうとしたヨハンの腕を、ヨハルヴァの逞しい腕が捕まえる。
 その腕を不思議なものでも見るような視線で見たヨハンに、ヨハルヴァは厳しい口調で詰め寄った。

「だったら、何で子供狩りに対抗する? 兄貴は自殺したいようにしか見えねぇよ」
「……それを聞きに来たのか」
「あぁ、そうだよ。馬鹿げたことはやめろ。大人しくしてなきゃ、誰がラクチェを守るんだよッ」

 腕をつかんでいた手を胸倉へと位置を変え、ヨハルヴァは締め上げるようにしてヨハンに迫った。
 弟よりも背丈が高いため、ヨハンが吊るし上げられることはなかったが、それでもヨハンは爪先立ちになる。

「確かに我々が城主の地位を追われれば、山にいる彼女を守ることはできなくなるな」
「それがわかってんなら、とっとと危ない橋を渡るのを止めろッ」
「それはできない相談だな。私は領民のために命をかけねばならない。子供狩りなど、許すわけにはいかない」
「どっちが大事なんだよッ。ラクチェやスカサハたちと、名前も知らない領民とッ」

 ヨハルヴァの腕が疲れたのか、ヨハンはあっさりとその腕を逃れた。
 ヨハルヴァ自身も力を緩めていたのだろう。彼が更に突っかかる気配は見せなかった。

「国の基本は教育にある。教育の基本は家族であり、社会だ。ならば、子供狩りなど愚かなことだと解るだろう」
「だ、だがッ」

 上手い反論を見つけられなかったヨハルヴァを見て、ヨハンは静かに諭すように言葉を続けた。

「ラクチェたちが正しいかどうかは、私には判断出来ない。だが、少なくとも彼らを敵視することは間違っていると思っている。
 そして、彼らを敵視しない、本当に自分の意見をもって判断ができる人間を育てるには、教団の集団教育では問題があり過ぎる。
 私が考えているのは、それだけのことだよ。自分の正しいと思うことを正しいと言える社会。それが私の求める真の国のあり方だ」

 ヨハルヴァに反論する隙を与えずに話し続けたヨハンは、照れた仕草一つ見せずに部下への指示を与えた。
 その様子を目の端で追いながら、ヨハルヴァは自問を禁じえなかった。

 何が正しくて、何が間違っているのか。

 その答えは、ラクチェと自分との距離を詰めるために必要なものかも知れない。
 少なくとも、彼女は自分よりも真っ直ぐにものを見ているのだから。

「……兄貴」
「ほら、あの子たちの顔を見ろよ。笑ってるだろ」

 相変わらず唐突な会話だと思いながらも、ヨハルヴァはヨハンに言われるままに助け出された子供たちへ視線をやった。

 泣いている子が多いが、それは恐怖から開放されたことに泣いているのだろう。
 立ち直りの早い子の中には、自分を助け出してくれた騎士たちの周囲で、笑ったりじゃれついたりしていた。

「あれが本当の騎士と領民のあり方だと私は思っている」
「あれが?」

 ヨハルヴァには伝わっていないと感じたのか、ヨハンは言葉を付け加えた。

「理不尽なものから領民を守る。それが騎士だ。王に忠誠を誓うよりも大事なことだ。
 私は、彼らに忠誠を誓われるような王でありたいと願っている」
「兄貴……」

 子供から目を離して、ヨハンを見る。
 彼は子供ではない別の何かを見つめているようにヨハルヴァには感じられた。

「ラクチェとスカサハは私の良き友人だ。大切な人間だ。だが、私には騎士たちが彼ららしくあるためにしなければならないこともある。
 そのためには自分の命を懸けることにもなるだろう。ラクチェやスカサハを裏切ることになることもあるかも知れない。
 だけどな、それが騎士として、ドズル家の嫡男として生まれた者の責務だと思っている。人間が生まれつき持っている業だ。
 他人に押し付けるわけにもいくまい」

 ヨハンはいつになく饒舌だった。

 彼もヨハルヴァの前ではあまり多くを語らない。
 それを考えると、今日のヨハンは異常だった。

 混乱した頭で、ヨハルヴァができたのはほんの少しの反論だけだった。

「俺は……ラクチェを裏切りたくねぇな」
「それでいい。お前はそれでいいんだ」

 ヨハンはそう言うと、馬の背に飛び乗った。

「ヨハルヴァ、せっかくだから馬車を使わしてもらおう。お前、御者をしろ」
「あぁ、いいけど」

 ヨハルヴァが御者台に座ると、近くにいた少年が隣の席を奪う。

 それを笑って許しながら、騎士たちが怪我を負った子供や、小さい子供たちを荷馬車に乗せる。
 歩ける、元気な子供は騎士たちと一緒に歩き始めていた。

「俺は……誰を裏切っていいなんて思えねぇよ。兄貴は結局、親父を裏切ってる。」
「お兄ちゃん?」
「俺は、誰を信じればいい? ラクチェ……俺は答えを求めちゃいけないのか?」
「お兄ちゃん、馬、止まっちゃったよ」

 少年の無邪気な声が、ヨハルヴァの両手を動かした。
 だが、再び動き出した荷馬車の御者台の上で、ヨハルヴァは一人で呟き続けていた。

「俺は……今のままでいたいのか。ラクチェも兄貴も、何で先を見るんだよ」
「……お兄ちゃん?」

 ヨハルヴァの呟きに異様なものを感じ取ったのか、少年がヨハルヴァの顔を覗き込む。
 驚いて顔を上げたヨハルヴァに、少年が無邪気な笑顔を見せる。

「お兄ちゃん、悩んでたって仕方ないよ。とにかく、今はお家に帰りたい」
「あぁ、大丈夫だ」

 迷うことはない筈だ。
 無茶をする兄貴も、俺を心配してくれたラクチェも、俺が逃げ出さない限りはそこにいるんだから。

 ヨハルヴァの手が、再び馬に前進を促す。
 無邪気に御者台から周囲を眺める少年の歓声が、ヨハルヴァに手綱捌きを教えていた。

 

<了>
<平成15年2月7日 改訂>

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