伊賀忍法伝
伊の章
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これはまだ、徳川家康が晩年の頃、伊賀の里(現在の三重県)で行なわれた壮絶な忍法合戦の物語……
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初夏をそろそろ迎えようとする紀州(現在の和歌山県)では、地域一体が霧に覆われていた。
紀州の山々に、大坂(現在の大阪府)との間にある葛城山脈にも濃い霧に覆われ、山をうっすらと幻想的に隠し、霧雨のじめじめした空気が紀州を覆っていた。
その紀州と大坂南部の境にある山脈の和歌山よりに、根来の里がある。
僧兵で有名な根来寺が存在し、現在では春の桜満開の時には、大勢の観光客で賑わう観光地になってはいるが、この時代は一度明智光秀の軍勢に攻め込まれおり、当時の鉄砲の弾痕が、柱に残っている。
だが、この寺の山奥には、現在も発見されていない場所がある。
鬱蒼とした木々の中、昼間でも光のうっすらとしか入らない山の奥に、小さな祠があり、その洞穴の奥には、数本の松明の炎で一〇坪程の空間を照らしている。
その中に、七人の山伏姿の男達が、松明の炎に顔を照らされ、赤々と険しい顔を闇に浮ばせ、正座して座っていた。
六人は、三〇前後の男で並んで座り、一人は子供の様に小柄だが、明らかに老人であった。
だが、背筋はしっかりとして、六人の前に立ち、錫状を持って六人の顔を見ている。
彼等は、根来忍法僧。
この根来寺には、僧兵と同時に、忍者までも存在する。
この地に忍者が存在する理由は定かではないが、徳川御三家の紀州藩の土地である以上、優秀な密偵が必要なために、存在しているのかも知れない。
ただ、噂では根来の僧兵に忍法を、忍術を教えたのは、伝説の忍者、戦国時代のメフィストフェレス、果心居士とも言われている。
それゆえに、僧兵と忍者が合体した異様の忍者、根来忍法僧が生まれたのだ。
戦国時代に置いても、忍者集団の双璧は、伊賀忍者と甲賀忍者である。
この二つの集団は、人知を超えた異様なる『忍法』で、全国に知れ渡り、その戦闘能力は想像を絶する。
人間とは思えぬ体力や精神力は、魔人と呼ぶに相応しい存在で、他の忍者集団を寄せ付けなかった。
……例外は、風魔と、この根来忍法僧だけであった。
個人戦闘能力の高い伊賀者。諜報や隠密に長け、集団戦法の甲賀者。その疾さは、まさしく風の魔である、風魔集団。
そして、最も異様で、不気味な存在は、この根来忍法僧であった。
老人は、静かに笑い、六人を見渡している。
物静かな笑みだが、暗闇で松明に照らされた顔は、怪しく顔を照らし、異様で奇怪な笑みに映って見えるのだ。
「来たか、我が精鋭の六人よ」
六人は頷き、それぞれが平伏し、名を名乗った。
「修羅坊、御、参り」
「火炎坊、推参」
「針鼠坊、参りました」
「水魔坊、此処に」
「大蛇坊、…御命令通り」
「雷神坊、御下命果たしまする」
異形の六人だ。それぞれが不気味な印象を与える。
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修羅坊は、逞しい肉体で、均整は取れているが、両腕が異様に長い。顔付きも一番山伏姿が似合っているが、見れば見るほど危険な存在だと誰もが気付くであろう。
火炎坊は、老人ほどではないが、小柄だ。
だが、毒蛇の様な逆三角形の顔をしており、口が耳の近くまで裂けている。
時たま、舌で口元を舐めて笑うので、凄みがある。
針鼠坊は、力士の様な弾力のある肥満体だが、見るからに怪力そうで、鉄の六尺棒を悠々と担ぎ、短い髪を時たま触り、笑っている。
水魔坊は、体格は普通だが、四肢が細長い。まるで昆虫の様だ。
その細長い腕の先の指も五指ともまた細長く、無表情なまま、老人を見ている。
大蛇坊は、この中で一番異様だ。
一番長身で、一番痩せている。そして両腕が肩から先が無いのだ。
長身だが、頭は小さく、丸い眼光が異様に光っている。
雷神坊は、巌の様に逞しい肉体で、腕も首も脚も眉も眼光も声も全てが太くて逞しいのだ。
その六人が同時に老人に、
「覇王坊さま」
と、恭しく頭を下げて言った。
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覇王坊と呼ばれた老人は笑いながら頼もしき部下を一人一人見つめ、
「……我ら根来忍法僧は、かつて伊賀と数十年前戦った」
六人は黙って頷くが、それぞれの顔に、怒りの表情が浮んでいる。
「我ら根来忍法僧の精鋭七人は、果心居士様に育てられた精鋭中の精鋭だったのにもかかわらず、たった一人の伊賀者、笛吹城太郎によって、全員倒された」
【注・『伊賀忍法帖』より】
全員の身体から殺気が噴出し、松明の炎も激しく燃え上がった。
「…その後、我々は伊賀と戦ったが、無残にも我々は負けてしまった」
覇王坊は、その時の生き残りであり、その悔しさを身にしみて知っている人物だ。
「だが、我々は復讐を果たさねばならない! 伊賀者に敗北を刻める少数精鋭が、…今そろった!」
全員が、ニヤリと笑い、再び平伏する。
「伊賀者を全滅させるのではない。…伊賀の姫君、朧を殺すのだ! ただ殺すだけでは駄目だ! その小娘を辱めろ! 嬲れ! お前達六人で、徹底的に嬲り続けろ! そうする事によって、伊賀の姫君を、我ら根来忍法僧の精を体内に流し込み、その後殺す事によって、初めて復讐は果たされるのだ!」
全員が立ち上がり、頷いた。
「行くぞ! 伊賀、鍔隠れの里へ! 復讐の刻は来た! 伊賀の朧を拉致して、嬲り、殺すのだ!」
瞬間、山伏姿の根来忍法僧達、七人は一気に飛び出した。
人知を超えた瞬発力と脚力で、山から飛び出し、濃霧漂う紀ノ川の岸に飛び出し、上流へと上がっていく。
その濃霧の中、一人が紀ノ川の流れに腕を叩きつけ、気合一声をあげた。
「根来忍法、『水粘土』!」
その瞬間、流れる川の水の一部が粘着力を持ち、粘土のようにかたまり、舟の形を作っていくではないか!
水で出来た舟は七人を乗せ、紀ノ川の上流へと上っていく。
彼等は奈良に入り、そこから月ノ瀬村に向かい、伊賀へと向かうのだ。
根来忍法僧の復讐の刻は来た!
※
伊賀忍者達の隠れ里、鍔隠れの里は、深い山奥の盆地にある。
見た目は庄屋屋敷のようだが、それはあくまでも偽装であり、中には色々と工夫されている。
その屋敷に初夏の気配を感じさせる日差しと草の匂いが取り囲み、縁側で一人の老婆が座りながら眠りこけるように、うとうとしている。
白い老婆だ。
髪の毛は光沢の無い白髪であり、着物も仏に着せられるような死に装束の様に白い着物を着ている。
縁側で汗を薄く滲ませながらも、うとうとしていたが、縁側の奥から人の気配と新茶の香りが漂い、薄く目を開ける。
「朱絹かえ?」
「はい、お幻様。お茶が入りましたわ」
若い女性だ。
瓜実顔の美女で、細いしなやかな美しい肢体と、物静かな笑みを浮かべている。
まるで三日月の様な美女だ。
三日月の様に細く、白く、優しい感じを漂わせている。
朱絹と呼ばれた若い嫋やかな美女は、お幻の背後に座り、お盆の上に乗せた湯飲みをお幻の前に置いた。
まるで仲の良い姑と若い女房の様にも見える。
物静かに、年老いた顔を笑わせ、ありがたくお茶を飲みながら、
「そう言えば、今年もそろそろ最終鍛錬に入っておる頃じゃの」
「はい、お幻様。私の年には、私を含めて二人しか生き残りませんでしたけど、今年は七人生き残っているようですわ」
「そうかえ、朱絹、そちの妹はどうじゃえ?」
朱絹は多少の安堵の笑顔を浮べ、
「はい、紅雪は無事に生き残っています」
肩を揺らして老婆は笑う。
「そうかえそうかえ、姉妹そろって優秀な忍者じゃな」
だが、笑いは直ぐに止まり、深刻な顔に変わった。
すると、朱絹も冷静と言うよりは、冷徹な眼差しになり、老婆の言葉を待つ。
「……その七人に、凶星が七つ近づいておるわ。…七人を鍛錬しているのは誰え?」
「はい、天膳さまです」
「ほう、天膳かえ」
その名前にお幻は、片眉を上げ、静かに笑う。
お幻は、現在の伊賀忍者の頭目である。彼女こそが、伊賀忍者達の最高指導者であり、首領であり、母親でもあるのだ。
そのお幻が唯一自分と同格に扱う者はただ一人、薬師寺天膳である。
一般には知られていないが、忍者の世界では、彼の名は知れ渡っている。
伊賀に恐るべき魔人がいる。その名は薬師寺天膳。
噂しか聞こえないが、伊賀者達は、彼の存在を畏怖と驚愕を持って仕え、敵はその名前だけで警戒するのだ。
「…まあ、天膳がおれば大丈夫だろうが、私の鷹を飛ばしておくれや、朱絹。それと念の為に、一〇人ほど腕利きの男を、彼等の鍛錬場所へ送ってくれないか…。ああ、別にお前が言ってもいいぞ」
「はい、仰せのままに」
朱絹は平伏し、お幻の言葉を次々と的確に行動を開始した。
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伊賀と柳生の里の間に、深い渓谷がある。
地元の人々も近づかない場所で、深い森と、深い谷と、高い山と、流れのきつい川がある。
人は近づかないが、鳥獣達は数多く生息し、自然の息吹と、景観がこの地を支配しており、この場所は伊賀忍者達の鍛錬所として使われている等とは、当の伊賀忍者達しか知らないのだ。
その深い渓谷の滝の傍で、一人の男が座っていた。
高さは現在のメートル法で言えば、一二mほどの高さの上から川の流れが急下降した滝があり、周囲に水飛沫を散らせ、下は深い淵があり大きな円状の湖なり、そこから再び南へ川となって流れている。
険しい濁流の滝が、下の岩を砕き、小さな湖を作り、(実際は沼と言う。大きさの度合いによって、沼と湖と分けられ、人為的に作られたものは池と呼ばれるが、清流の印象を与えるため、筆者は敢えて湖と書かせていただきたい)そこには深い滝の底が見えるほど澄み切っており、湖の周囲二四〇m程は岩や砂利、砂に覆われ、その周囲は森に囲まれている。
その男は砂地の上で座り、湖底を見ていた。
やや小太りな身体ではあるが、女性の様な柔らかい線も感じさせる男だが、年齢は計りかねない。
若々しい野心的な笑みを浮かべているが、同時に老獪で狡猾な笑みにも見える。
切れ長の眼光も、若者の輝きもあるが、老人の落ち着きすら感じさせる。
色白というより、青白い死人の様な肌は、瑞々しくも見え、老人の様にも乾いて見える。
真に不思議な存在感の男だ。
総髪を綺麗に整え、湖の底に見える七つの影を見つめている。
男は笑いながら、手裏剣を手にして何時でも投げれる体勢をし、微動すらしない。
底の七つの影は水面には揺れて見えるが動いてはいない。
この光景を最初から見ていれば驚くであろう。
その七つの影は人であり、若者達だ。
しかも、湖底に沈んで今の時間で言う一時間は沈んでいるのだ。
これこそ、伊賀忍者の最も過酷な基本技、『無息の術』の訓練だ。
この訓練に耐えれず、息が切れ湖面に顔を出した瞬間、男が情け容赦なく手裏剣を額に打ち込み、殺す。
この修行で既に三人はこの男に殺されている。
男の名前は、薬師寺天膳。
その名前を伊賀以外の忍者集団が聞けば思わず唸るだろう。
伊賀の重鎮。伊賀の魔神。伊賀の覇者。
彼の名前は、敵に畏怖を与えさせ、警戒させる。
彼の戦闘能力を知る者はいないが、それは彼と戦って生き残った者がいないからだ。
天膳は、口元を緩ませ、手を二回叩いた。
すると、七つの影は湖底から浮かび上がり、二つの影は水面から飛び上がり、五つの影は水面にゆっくりと顔を出した。
「よし、全員『無息の術』は合格だな。見事であったぞ、紅雪、鬼頭双之助、蛍火、土蛇、…筑摩小四郎」
最後の筑摩小四郎には、特別な感情をこめて言う。
小四郎は彼の直属の部下であり、彼の秘蔵の弟子なのだ。
そして水面から飛び出し、近くの水面から顔を出す岩の上に飛び移った逞しい肉体の若者と、宙でなんと停止している若者にも目を向けた。
「王虎獣蔵、夜叉丸」
岩に飛び移った逞しい若者は、王虎獣蔵と呼ばれ頷き、空中に停止している若者は夜叉丸と呼ばれて不敵に笑った。
実際には浮いているのではない。ぶら下がっているのである。
見えないが、彼の右手甲から黒い紐が上にある木の幹に絡まり、夜叉丸はその黒い紐に捕まり、宙に停止していたのだ。
若者と言うよりは紅顔の美少年である。
桜色の頬、漆黒の美しい髪、燦々と輝く黒瞳、均整獲れたしなやかで俊敏性を感じさせる美丈夫な身体と言い、全身が青春美の結晶とも言うべき存在だ。
夜叉丸の左手甲から黒い紐が伸び、天膳の傍の木に絡みつき、そこから夜叉丸は天膳の前に黒い紐を通して飛び移り、そのまま平伏する。
すると王虎獣蔵も、岩から九mは離れている夜叉丸の横に一気にすべる様に飛び移り、平伏する。
残りの五人もそれぞれ水から出てきて、天膳の前ですわり、平伏した。
「うむ、今年は七人生き残ったか。…優秀だ。普段は三人ほどなのだが」
天膳は冷笑し、生き残った七人を見て頼もしそうに眺めている。
伊賀は毎年若者達をこの地に集めて、最終試験を行なう。
伊賀の忍者として相応しいかどうかの試練をだ。
業火に包まれた小屋の中で、炎が鎮火するまで小屋から出てはいけない修行。木々の上を飛び移り、地を踏まずに移動する修行。この地の底にある洞窟の中を食料も水も無しで八日生き残る修行などである。
その過酷な修行の中で毎年生き残るのは一〇人に一人。
この死の荒行に生き残れば、中忍として、幹部となれるのだ。
忍者は、過酷な者だ。下忍や、奴隷階級の忍者などは死を前提に作戦を立てられる。
そう、使い捨ての命の忍者だ。
だが、幹部になれば、自分の死に場所を選べる。それは魅力的なのだ。
だが、夜叉丸は別の意味で中忍になりたかった。
中忍は忍者として他の色々な自由も与えられる。
その中で、彼はある一つの自由が欲しくて、それを手に入れたのだ。
「ようやった。これでお前達は、伊賀忍者の中忍だ。そして伊賀忍者に相応しい素晴らしい忍法を習得した強者達よ、宿命に候うがよい」
薬師寺天膳は笑うと、立ち上がり軽く背伸びをして、軽く、
「休憩だ」
そう言った。
※
天膳が川沿いに歩くと、背後から合格した若者の一人、彼の秘蔵の弟子、筑摩小四郎が黙ってついてきた。
田舎臭い印象を与えるが、荒武者の印象も与える若者だ。
無造作に伸びた髪を適当に切りそろえているので、より荒武者の風格が漂っている。
「小四郎、よう生き延びてくれたな」
背後も見ず、ただ笑いながら天膳は呟く。
「はい、天膳様に幼い頃から鍛えられた俺には、この程度の修行など、児戯に等しいです」
「ふ、こやつ」
天膳は笑い、頼もしい直属の部下に感心した。
小四郎は不敵な笑みを浮べ、ただ黙って天膳について行った。
※
深い森の中で、一人の少女が木にもたれて溜息をついた。
忍び装束の姿であり、先ほどの生き残りの蛍火である。
日本人形の様に背中まで延びた綺麗な黒髪と、可憐な印象を与える少女で、あの過酷な修行を生き残ったとは思えぬほど可憐だ。
だが、その蛍火のしなやかな左腕には、なんと毒蛇が巻きついていて、少女の肩のあたりで顔を置き、チョロチョロと毒々しい青紫の先の裂けた舌を出している。
「お前、暫くどこかにお行き」
蛍火が話しかけると、毒蛇は少女の腕から離れ、地面を這いながらこの場から離れていったではないか。すると彼女は蛇を操れるのか?
その通りである。それどころか、蟲類も操れる忍法の所有者だ。
彼女はそのまま木に背中を預け、緑光浴の眩しい日差しを浴び、微笑した時、その光をさえぎる者が現れた。
彼女は可憐な瞳を開けると、目の前に夜叉丸が幹から黒い紐でぶら下がり、降りてきたのだ。
夜叉丸は笑い、そのまま着地し、右手甲に幹に絡ませていた紐を解き、まるで生き物の様に手甲に絡み付いていった。
「…やったな、俺達」
先に夜叉丸が口を開くと、蛍火も紅潮しながら微笑し頷いた。
「夜叉丸どの…」
二人はそのままお互いの肢体を抱きしめあい、生き残った事を素直に喜んだ。
そう、中忍になれば許される自由は、中忍同士の色恋沙汰である。
他では許されず優秀な子孫を残すために、伊賀は忍者同士の恋愛を許さない。
だが、優れた才能を持つ者同士、中忍同士なら話は別だ。
特にお幻様はこのことには寛大であり、別に小言も無く許している。
夜叉丸も、蛍火も、幼い頃から忍びとして生まれ、伊賀忍者の宿命を背負ってその運命を受け入れて、死の使命に従うつもりであった。
だが、その二人も、お互いの恋慕を止める事は出来ず、日に日に恋心を募らせていったのだが、二人が結ばれるには中忍しかないのだ。
それを悟った二人は過酷な修行に耐えるために、必死に鍛錬を積み、中忍になる事を目指し……今、報われた。
二人は無言のまま抱き合い、言葉には出さなかったが、自分の命より大事な存在が、自分の腕の中にある事を悟ったのだ。
夜叉丸は、蛍火の髪の毛に顔を埋め、蛍火は紅潮しながらも、夜叉丸の胸に顔を埋め、二人はそのままお互いの生命の鼓動を感じながらも、このままでいたいと願った。
だが、その時、夜叉丸の左手甲から黒い紐が地を疾走し、地面をえぐった。
夜叉丸も蛍火も飛び、その地を見つめると、そこに何と地面から上半身が生えた人が居るではないか!
その人、若者は苦笑しながら、
「いやいや、お二人さんがそんな仲とは、…お熱い事で」
のっぺりした顔の、垂れ目が特徴の若者だ。
「土蛇!」
夜叉丸は叫び、黒縄の紐を両手から出し、構える。
「待て待て! 夜叉丸!覗いたのは悪かったが、俺は土の中を『泳げる』忍法だから仕方ないだろう!」
「理由にはなっていないぜ、なあ蛍火」
「ええ、」
蛍火も無表情のまま、両手で印を結ぶ。
すると、突然土蛇は全身に焼け付く痛みを感じた。
「わ!」
土蛇は、土から飛び出し、泥まみれの忍び装束を手で払う。
その彼の身体には大量の蟻が彼に絡み付いているではないか!
これこそ、蛍火の蟲使いの忍法である。
「わ、悪かった! 許してくれ蛍火!」
数百もの蟻に襲われては、土蛇も悲鳴を上げずにいられない。
その滑稽な姿を見て蛍火は口元を手で隠して笑い、夜叉丸も肩を揺らして笑いだした。
※
忍者の階級は大雑把に、頭領、上忍、中忍、下忍、奴隷とある。
頭領は、すなわちその集団の指導者であり、現在伊賀忍者は、お幻である。
上忍は、数名存在し頭領のいない間の指揮を取ったり、指揮権もある人物で、薬師寺天膳がこれにあたる。
奴隷は、死ぬ事を前提とされた捨て駒集団で、生き残る事を許されない。
下忍はそれよりは優遇されるが、下層の者だ。
だが、中忍になると、下忍を従わせ、ある程度の指揮権もある。
そして、お幻さまのお目通りも叶い、重要な任務にも当てはめてくれる。
そして中忍になれば、活躍すれば上忍にもなれる!
それが鬼頭双之助には嬉しかった。
鬼頭双之助は、生き残った七人の中では、忍者と言うよりは、武士という印象を与える逞しい肉体と、気品と精悍さが融合した若者だ。
滝の傍の岩に腰を下ろし、彼は腰に差した太刀を前におき、溜息をつく。
笑っている。精悍な顔が微かに笑い、誰かに問いかけた。
「やったな…これで中忍だな」
そう呟くと、なんと同じ口から、双之助自身が返答したではないか。
「ああ、やったね兄さん。僕と兄さんがいる限り、鬼頭双之助は、無敵だよ」
「そうだな」
まるで一人芝居、独り言の様に呟く姿に、知らぬ者なら驚くだろうが、傍にいる紅雪、王虎獣蔵は気にもせず、湖の畔で座っていた。
紅雪は、朱絹の妹で、なるほど姉に似た美少女だ。
大人びた風格と、理知的な優しい瞳が印象的だ。
その彼女に、巌の様に、逞しく、異様に筋肉が発達した大男が問いかける。
大男だが、まだ一八の若者である。腕や脚、手と足が異常に大きく、顔も険しい。
他の者が、忍び装束姿だが、彼だけは、野暮ったく田舎臭い毛皮の衣服を着ている。
その名の如く獣の様だ。
「紅雪。君の姉に続いて、姉妹そろって中忍だな」
「ええ、姉さまとね」
紅雪は、くすりと笑い、微笑する。
三人が何気なく時間を過ごしていると、土蛇の悲鳴が聞こえてくる。
双之助は身構え刀を抜く体勢をし、紅雪は右手の手刀を天にかざし、重蔵は低い体勢で四本足の獣が獲物を狙うような構えに入った。
そのとき、土蛇が、三人の前の地面から飛び出し、水に飛び込んだ。
その身体に数百の蟻が噛み付いていたが、水に飛び込んでからは身体から離れ水に流されていく。
水中から顔を出し、大きく息をしてから愛嬌のある垂れ目が、真剣に、
「蛍火の奴め、俺を殺す気か! 俺を蟻を使って食い殺そうとしたぞ!」
「また、要らぬ事をしたのであろう」
双之助が苦笑しながら構えを解くと、同じ口から再び柔らかい声が、
「兄さんの言う通りだ。蛍火は可愛い顔して怖いからね」
「…言ってろ、『双次郎』め」
土蛇は、悪意無い捨て台詞を吐き、水から出てくる。
「ああ、蟻に噛まれると、暫くかゆいからな。もう痒くなってきたぜ」
紅雪が苦笑しながらも裾から、貝殻に入った膏薬を出してやり、
「はい、痒み止めよ。自分で塗りなさいね」
「へえへえ、紅雪が塗ってくれてもいいのじゃない?…股間まで噛まれているのだから」
ぶつぶつ言いながらも膏薬を貰い、噛まれたところを塗っていくが、全身に塗ったほうが早そうだ。
「…夜叉丸と抱き合っていたぞ。…あの二人、そんな仲だったみたいだぞ」
紅雪が、近くの流木に腰を下ろしながら、
「いいじゃない、中忍になったのだから」
「…お互い生き残った喜びだな」
獣蔵も続けて答え、砂利の上に座る。
「それを見たから蟻の餌にされかかったのだろう? そういう時は、覗かないで去るのが礼儀だろうが」
双之助があきれて言うと、同じ口から柔らかい声で、
「そうだよ、兄さんの言う通りだよ。それに夜叉丸は色男だからね」
「そうだな、土蛇より、夜叉丸を選ぶよな、女なら」
一人芝居の言葉に、土蛇が勝手に言ってろと呟きながらも、…獣蔵の異様な反応に気付いた。
いや、土蛇だけでない。紅雪、双之助も、空を見上げて微動すらしない獣蔵に気付いた。
「…獣蔵」
双之助が静かに尋ねると、透き通った空を見上げながら、
「鷹が来る。…お幻様の鷹だ」
その瞬間、四人の下に、薬師寺天膳と筑摩小四郎の二人が木々の上から飛び降りてきて着地した。
天膳は笑い、左腕を水平に伸ばす。
すると皆が見えるまで近づいてきた鷹が、急降下し、天膳の腕に翼を休めた。
その鷹の足元に結び文がされていて、天膳はそれをはずし、鷹を飛ばした。
鷹は今度は、何時の間にか戻ってきた蛍火の肩に止まり、その傍にいる夜叉丸も、その鷹の頭を指で撫でてから天膳を見る。
天膳は文を広げ、黙読していると、周囲の新しい七人の中忍達は、黙って天膳の言葉を待った。
「……お幻さまからの文だ。…お幻さまの予知夢で、七つの凶星が我らに近づいているらしい」
全員が黙って聞いている。
「…西からだ。伊賀鍔隠れの里に怨念を向け、禍々しい恩讐をこめて近づいてくるそうだ」
すると、一番血気盛んな筑摩小四郎が、若々しく豪快に笑い、
「どこの馬鹿だ。伊賀に喧嘩を売る鼠は?」
「甲賀のムシケラどもか?」
甲賀の名前は、彼等にとって最も忌まわしい名前だ。
四百年に渡る怨敵同士であり、最も憎むべき存在だ。
四百年前に何があったかは彼等は知らないのだが、幼い頃から甲賀を憎み、殺す事を叩き込まれた彼等にとって、そんな事はどうでも良いのだ。
天膳も、不快な顔をしたが、直ぐに冷静に判断し、
「いや、甲賀なら東か北から来る。……」
「柳生では?」
紅雪が尋ねると、
「いや、柳生は確かに西にあるが、お互い徳川家に仕える家柄。それに柳生宗矩様は、我等が主君、服部半蔵様と親しい。そのような事をなさるとは思えぬ」
首をかしげながらも、
「お幻さまは、主力部隊をこちらに向かわせると言っている。その間に我々が戦おうが、偵察しようが、見張ろうが、殺そうが、殺されようが、好きにするが良いと言っておられる」
すると、七人は笑い出した。
それがどうした? 我ら忍者は、死に候う運命であり、宿命であり、使命だ。
死ぬ事は恐れはしない。それに我々は若者だが、伊賀だ。伊賀忍者だ。
半分はまだ人を殺していないがそれがどうした?
殺した経験のある者達は、最初の殺人でも、何のためらいも無く殺せた。
そう、幼い頃からの教育で、人を簡単に殺せる、あせる事もない!
そして殺しの経験の無い者達も、なんのためらいもなく人を殺せるだろう。
天膳も、冷笑しながら、
「よし、それなら一度偵察してみるか。蛍火」
呼ばれた蛍火は無言で頷き、肩で休んでいる鷹を飛ばした。
「後は鷹が敵を教えてくれる。獣蔵、鷹を見ていてくれ」
「はい」
獣蔵は、五感が異常に鋭いのだ。
視覚は鷹。聴覚、嗅覚は狼。そして筋力は羆に匹敵する!
異常なまでの野外生活と劣悪環境の修行を行なう内に身に付けた忍法である。
「少し、接触するのもよかろう、小四郎、土蛇。ついて参れ。残りはここで待機しろ」
全員が頷き、天膳が走ると、その後を小四郎が着いていき、土蛇は、土に潜りながら地中から着いていった。
※
薄暗い靄のかかる山奥で、七人の山伏の姿を見ることが出来る。
街道から外れ、村からもかなり外れた山奥である。普通の山伏ではない。
そう、根来忍法僧達だ。
小柄な老人の覇王坊は、先頭に達、木々の上を飛び交い、山猿の如く移動し、他の六人もそれに遅れずについていく。
そして七人が広めの獣道に降り立ち、そこで停止した。
山の七合目あたりで、木々も高く、鬱蒼とした大地の草も露を乗せて瑞々しく青々としている。
一番先頭に立つ覇王坊の姿が、一番後方の修羅坊が視覚ではうっすらと見える程度であったが、忍者には大したことでは無い。
「伊賀者か、…あの時儂はまだ、空牙坊と名乗っていた時じゃな。あの時の伊賀との戦いは凄まじかったわ」
覇王坊は苦笑しながら歩き出すと、他の六人も黙って着いていく。
「大蛇坊、先に行け。お前が一番隠密に向いた忍法を持っている」
「はい」
両腕の無い大蛇坊が頷き、疾走しながら霧に消えていく。
「さて、他の者は、『海鳴り』をちゃんともっておけよ」
他の皆も頷き、小型の法螺貝を腰に持っているのだが、それを首元にぶら下げる。
ただの法螺貝ではない。
生娘の肉体を燃料として、焼き、乾燥させた法螺貝だ。
焼く前に生娘の血を法螺貝に塗り焼く。
すると、根来特有の呪詛を呟く事により、他の同じ法螺貝、『海鳴り』を持つものに自分の意思を伝える事が出来るのだ。
「覇王坊様、……二人の人影が近づいております」
法螺貝から声が聞こえる。大蛇坊だ。
「…そちらに近付いております。足の運び、この霧の中での動き、忍者と思われます」
「よし、伊賀者と見てよいだろう」
覇王坊は、白髪と白髭を揺らしながら、薄ら笑いを浮かべる。
その瞬間、他の五人は散開し、その地に覇王坊だけが残った。
そして霧の中、東から二人の人影が近付いてくるが、覇王坊の存在に気付き、脚を止める。
薬師寺天膳、筑摩小四郎であった。
覇王坊は、山伏のふりをするつもりでいたし、相手も最初は話しかけるつもりであったのだろう。
だが、覇王坊と薬師寺天膳の目があった瞬間、二人は凍りついた。
「…空牙坊!」
「薬師寺天膳! まさか!?」
それが決戦の合図だった。
「小四郎! 飛べ!」
天膳の合図に迷うことなく、小四郎は腰に差していた大鎌を抜き、怪鳥の如く空を飛んだ。
だが、そこに敵がいた。小柄で口の裂けた男。
火炎坊だ!
火炎坊の小刀と小四郎の大鎌が刃を交え金属音を響かせ、二人は宙で飛び散った。
小四郎は近くの幹に飛び移り、脚で幹に引っ掛け、身体を回転させぎわに手裏剣を火炎坊に放った。
だが、裂けた口をさらに横に広げ、小刀でそれを切り払い、近くの大木に隠れる。
「やるな、小僧!」
「根来だな、来い、紀州の山猿が」
※
地上では、木々の生い茂る雑木の中、天膳と覇王坊が平行して牽制しあっていた。
「空牙坊! 三〇年ぶりだな、…老いたようだ」
不敵な笑みに、覇王坊は思わずうなる。
「貴様、……本当の天膳か?」
無理も無い。彼はまだ空牙坊と名乗っていた三〇年前、伊賀と根来の戦いで、彼は薬師寺天膳と刃を交えたのだ。
あの時、天膳の姿は間違いなく、『今の天膳』そのままなのだ!
「子供か?」
素直な気持ちを言うと、天膳は笑う。
「老けすぎたな、空牙坊。もしかして空牙坊の父親か?」
薄気味悪い笑みを浮べ、天膳は間合いをつめ、忍者刀で斬りかかった。
「ふむ!」
覇王坊は横に飛びながら、御椀ほどの大きさの円盤を懐から片手に一個づつ持った。
ただの円盤ではない。その円盤の周囲に刃が幾つも付いている大型の手裏剣だ。
その円盤を時間差で天膳に投げつける。
すると円盤はまるで意思を持っているかの様に、自在に弧を描き、天膳に襲い掛かるではないか!
だが、天膳は鼻で笑い、刀で弾き返し、間合いを下げる。
弾かれた円盤は再び覇王坊の手に戻り、再び投げられる。
今度は大きく弧を描き、天膳の背後から襲い掛かるが、突然天膳の姿は、消え去った。
「何!?」
円盤を手に戻し、天膳の立っていた場所に移動すると、そこには空洞があった。
自然の洞穴であろうか、人一人入れる穴が真下に延びている。
(く、この円盤は目に見えていないと操れぬ)
だが、その後直ぐに笑い、会心の笑みを浮かべた。
(だが、地の利は儂に有り。何故儂が、空牙坊から、覇王坊に名前が変わったか、分からぬようだ)
近くでは大蛇坊と火炎坊だけが残り、他の四人はこの地を早くも突破した。
彼等の目的は此処で伊賀者と戦う事ではない。
伊賀に復讐を果たす事だ。
その復讐とは伊賀の姫君を、根来の淫欲の生贄にする事だ。
それに残っている小四郎には、火炎坊と大蛇坊で決着がつくと思ったのだ。
だが、今のところ、小四郎は火炎坊しか気付いていない。
火炎坊は腰に差していた松明を手にし、火打石で油を染み込ませた先端の布に火をつけ、松明に炎を灯した。
その松明の炎がこの靄の中、小四郎の目に見えた。
(け、馬鹿野郎。場所を教えているものだ)
小四郎は血気盛んな顔に、笑みを浮べ、一気に間合いをつめ、大鎌を抜いた。
その瞬間、突如として松明の炎が、竜の如く宙を飛翔し、小四郎に襲い掛かった。
「何!?」
小四郎は思わず、身を伏せて躱すが、松明の炎から次々と炎の竜が小四郎に焼き尽くさんばかりに襲い掛かってきた。
「見たか、伊賀者。これぞ根来忍法『火炎卍(かえんまんじ)』」
火炎坊が得意げに笑い、裂けた口が更に裂ける。
そう、火炎坊は炎があればそれを飛ばす能力を持っているのだ。
小四郎は地面に降り立ち、大鎌を背後に戻し、頭上の火炎坊を睨む。
「く、俺も忍法を使わねば勝てぬか!」
「ほざけ! 俺の忍法の前では、どんな忍法も…無力!!」
再び火炎の竜が吠え、小四郎に向かって襲い掛かった。
だが、小四郎は避けようともせず、口先を尖らせ、息を吸った。
瞬間、火炎の竜は突如として破裂音と共に四散し、砕け散ったではないか!
「何!?」
火炎坊は驚きながらも再び火炎の竜を放つが、再び炎は途中で砕け散った。
そのとき、自分の足をそえる幹の根元が砕け、彼は足場を失い地面に落下しはじめた。
だが、火炎坊は羽根の様に地面に着地し、小四郎を睨む。
「き、貴様!」
「へ、伊賀忍法『吸息の旋風』。とくと味わえ、根来の破戒僧!」
再び口を尖らせ、息を吸い込む。
すると危険を察知した火炎坊は頭を横にずらし、頭のあった場所に松明が移動した。
その瞬間松明は無残に砕け散り、炎も消滅した。
そう、小四郎の忍法は無敵の攻撃技である。
距離を選ばずに、大きな動作も必要がない。息を吸うだけなのだ。
彼は厳しい鍛錬の末に、一定空間の一部の空気を吸い、その場所を真空状態にする事を可能にしたのだ。
その結果、真空になった場所は、カマイタチ現象を起こし、周囲の物体を砕け散らすのだ。
鎧も盾も関係ない。
鎧ごと、盾ごと、敵を砕け散らす防御不能の攻撃忍法なのだ!
三度息を吸いだすと、火炎坊は一気に後方に全力で飛び、回避する。
火炎坊のいた場所で空気の破裂する音が響き、小四郎は火炎坊に向かって疾走する。
「おのれぇ!」
まさか、このような若造に、これほどの力があるとは火炎坊は思わなかったようだ。
(だが、俺は死ぬわけにはいかぬ! 他の者ならともかく、俺は……)
火炎坊は、木々に捕まり回転しながらも小四郎に煙幕玉を投げつける。
「ちっ逃げる気か!」
小四郎は、疾い。若い肉体に相応しい、そして天膳の秘蔵の弟子だ。
だが、いくら疾くても、火炎坊は熟練の忍者だ。
若い小四郎を見事に撒き、逃走に成功した。
※
だが、火炎坊の前に、のっぺり顔の男が、地中から現れたではないか。
「何!」
土蛇だ。
土蛇が、地中から出した腕には手裏剣が握られ、それが火炎坊に投げつけられる。
根来僧は、木々に隠れて疾走する中、地中から上半身を出しながら付いてくる土蛇の姿があった。
「奇怪な!」
火炎坊は、手裏剣を投げ返すが、地面に突き刺さるだけで、土蛇は地中に潜んでいったではないか。
「おのれ!」
根来僧は、上空に飛び、木々の上に飛び乗る。
土蛇も、顔だけを土から出し、相手を確認すると、再び地中に潜った。
土蛇は地中を水の中の様に泳げる。
泳ぐというより、走るのだが、土の中を疾走し、相手の背後を取るのだ。
だが、移動できるのは土や砂利だけで、岩や木は移動できないようだ。
火炎坊が周囲を見渡すと、法螺貝から声が聞こえる。『海鳴り』だ。
「大蛇坊?」
火炎坊が問いかけると、法螺貝から微かに大蛇坊の声が聞こえる。
「そうだ、お前は仲間を追え。お前が死なれては、我々も後が面倒だ。ここの三人は俺と覇王坊様の二人でやる」
「…頼むぞ」
「うむ」
火炎坊が木々の上を飛び交い、猿の様に、怪鳥の様に飛び交い、味方の走っていった方へ急いでいく。
それに気付いた土蛇が、地面に姿を現し、追いかけようとする中、彼の前に、木々の影から長身痩身の山伏姿の男が現れた。
そして、両腕が肩から無い異形の姿で、小さな頭と、その丸いギョロリとした眼光が土蛇を睨む。
「根来者か!」
「そう、俺は大蛇坊。貴様を地獄に送り込む男だ」
「はん、俺は土蛇だ」
「興味ない、明日には忘れている」
その言葉に土蛇の愛嬌のある顔が、険しくなり、一気に間合いをつめて、手甲に仕込まれていた鉤爪を出して襲い掛かった。
それを素早く躱し、大蛇坊は、大木の背後に隠れた。
「逃がすか!」
土蛇も横に飛び、視界に大蛇坊を確認しようとした瞬間、異形の光景が彼の目に映った。
※
その大木に大蛇坊が、滑らかに絡みつき、螺旋回転をしながら木を昇っていくのだ!
人間の間接では考えられないほど滑らかに曲線を描いた全身が、まるでその名前の示すとおり、大蛇の様に木にからみついて螺旋回転をしながら昇っていくのだ。
寸胴の蛇。まさしく大蛇坊!
「ば、…化け物めぇ!」
土蛇は叫びながらも手裏剣を投げつけるが、大蛇坊はそれを躱し、枝に身体を巻きつけ、気配を絶ちながら移動していく。
蛇という生物は、人間でも簡単に捕まえれるほど、動きは早くない。
だが、気配を絶って行動し、気付かれぬように移動するのには優れている。
大蛇坊は、まさしく蛇だ。気配を絶ち、移動の気配すら感じず大木の枝の密集地に隠れ、違う木に気付かれぬように移動している。
滑らかに、ゆっくりと全身を這わせて、全身で木々に絡みつきながらだ。
人間の腕ほどの枝に四回転ほど全身を絡ませて、木の葉の影から敵の位置を確認し、微動すらせずに、土蛇の動きを見る。
土蛇は、周囲を警戒しながら、跳躍し、一〇メートルほど離れた木に飛び移った。
すると根来忍法僧の異形者は、ゆっくりと移動を開始し、気配と枝を揺らさずに、違う木に移動し、その木の頂上付近にゆっくりと登っていく。
木に密着しながら登っていくのだ。
これはさすがに発見されにくい。
(若造が、俺の忍法が『蛇身化』だけだと思っているな)
蛇の如く木に巻きつきながら移動し、頂上付近から枝を伝わり、再び移動を開始する。
土蛇は、このままではヤバイと思ったのか、地面に降り立った。
そして、地中に潜り、敵の動きを待つ事にした。
根来の大蛇と、伊賀の地中に潜む蛇!
その異形の忍法合戦は、沈黙と緩やかな時の刻みの中で行なわれた。
二匹の人の形をした蛇が、相手に気付かれず微動すらせず、風と鳥獣達の声が僅かに聞こえるだけの空間に潜んでいる。
どれほどの時が流れたであろう。
近くで啄木鳥の、木を連打して打つ音が聞こえ出した頃、その啄木鳥の突然飛び去る羽ばたき音が聞こえたと同時に、その木の根っ子の土から、土蛇の顔が現れた。
息を吸い、静かに周囲を見渡す。
(奴め、どこに隠れた)
地中に潜む全身から。微かな振動を感じ、その振動は木から伝わってくる。
そのとき、土蛇は、はっとした。
啄木鳥は何故飛び出した?
彼が顔を出したまま上を見上げると、その木にとぐろを巻いて木に捕まりながら降りてくる大蛇坊の顔が見えた!
その大蛇坊の口が開き、大量の唾液が飛び、それが土蛇の顔にかかった瞬間、土蛇が焼け付く激痛を顔面に感じ、悲鳴を上げた。
唾液は肌を青白く変色させ、眼光を溶かして肌を焼き尽くす。
土蛇の悲鳴はすぐに止まった。
悲鳴は生きている証。悲鳴がなくなったということは、その証が無くなったのだ。
顔が解かされ、骸骨を半分出した状態で、土蛇はそんな無残な骸を、土から出して、絶命したのだ。
その上から、大蛇坊が飛び降り、地面に着地し、自分の倒した伊賀の若い忍者を見て笑った。
「俺の唾液は、毒蛇の数倍は猛毒の毒液だ。これに耐えれる肌は俺だけだ」
不敵に笑い、倒した敵の顔に足で踏みつけて、
「伊賀の土蛇。この根来忍法僧の大蛇坊が討ち取ったり」
※
悲鳴を聞き、筑摩小四郎が飛んできた。
木々の上空を燕のように疾走し、木の根っ子から無残な骸を出した土蛇の死体を見つけ、思わず叫ぶ。
「土蛇!!」
すぐに着地し、無残な仲間の遺体を見て唖然とする。
お互いに、この過酷な修行を生き残った仲間だ。
忍者は家族や親が死んでも泣く事は許されない。だが、その掟を守るには、筑摩小四郎は若すぎた。
彼は拳を地面に叩きつけ、周囲を見渡す。
すると近くの大木に、刃物で文字が刻まれた表皮があった。
『根来忍法僧、伊賀へ復讐を果たし候。真の目標は、朧を嬲り、根来の血で汚すものなり。
覇王坊、修羅坊、大蛇坊、雷神坊、針鼠坊、火炎坊、水魔坊』
この刻んだ文字に、小四郎は憎悪の炎で全身の血をたぎらせる。
仲間を殺された恨みもある。だが、それより彼を怒らせたのは、朧様の事だ。
伊賀の姫君、朧は、お幻様の孫娘で、次期伊賀の党首だ。
だが、体術はおろか、剣術や忍法ですら物にならなかった忍者の姫君とは思えぬ少女だ。
忍者としての悲壮感や、陰湿な物はなく、春の日差しの様な柔らかく明るい天真爛漫な少女だ。
そして小四郎にとっては、誰も汚す事は許されない神聖なる姫君だ!
横恋慕しているわけではない、秘かに想っている訳でもない。ただ、伊賀忍者として、姫様を敬愛し、尊重し、守るべき存在なのだ。
その聖なる姫様を汚すとは、なんと憎むべき敵であろうか!
覇王坊、修羅坊、大蛇坊、雷神坊、針鼠坊、火炎坊、水魔坊。
その七人の名前を何度も口にして繰り返し、覚えたとき、彼は口先を尖らせ息を大量に吸った。
その瞬間、刻まれた表皮は砕かれ、大木の砕き、激しい轟音と共に大木は崩れ去った。
周囲の鳥獣は悲鳴を上げて逃げ出し、そこに怒りの忍者だけが残った。
荒武者の印象を与える若者の顔は悪鬼羅刹となり叫ぶ!
「根来の破戒僧ども! この轟音が聞こえるか! これが俺のお前達に対する宣戦布告状だ! 近くにいれば俺を見ろ! 遠くにいれば俺の叫びを聞け! この筑摩小四郎! 決して貴様達を生かして根来に帰さぬ!」
※
覇王坊は洞穴の上から振動を感じた。
「何?」
老人は、洞穴に入り、薬師寺天膳を追いかけている。
しかし、中は複雑に入りこみ、さすがの覇王坊も迷うほどであった。
「やむえん、一度外に出るか」
覇王坊は踵を変えようとした瞬間、この狭い洞穴の道の背後から殺気を感じ、殺気と反対側に突っ走る。
背後から薬師寺天膳が刀を抜き、斬りかかってきたのだが、驚異的な勘を持つ覇王坊に気付かれ、忌々しく想いながらも、不敵に笑った。
この洞穴はかつては地下水道であったのだろう。
天膳でも立ち上がり、平気で歩けるほど広いが、中は薄暗い。
わずかな光苔の輝きが、僅かに人間の影を浮ばせているだけだ。
だが、天膳や覇王坊には、『明るすぎる』。
「ここは、伊賀の修練所。若い伊賀者も迷い、死ぬまで出れなくなる事もあるほど広いぞ、空牙坊」
「ほほう、確かに広いな。だが、懐かしい名前だ。空牙坊か」
「円盤を、自由に操れるからこそ付けられた名前であったな」
「その通り、だが今の儂は、覇王坊だ」
「御大層な名前だ!」
天膳が間合いをつめ、一気に斬りかかるが、覇王坊も錫状で弾き返し、近くの穴へ飛び込む。
それを見て、天膳は笑う。
「大空洞に入ったな。よかろうそこがお前の死に場所だ!」
その穴に飛び込み、二〇坪はあるような広大な空洞の中に、二人の忍者が降り立った。
「無駄だ、空牙坊。…いや、覇王坊。地の利は私にある。覚悟しろ」
刀を構え、不敵な笑みを浮かべる天膳。
天膳の剣術は、伊賀でも五本指に入る。
本人も、
「剣だけの勝負なら、俺に勝てる伊賀者は、鬼頭双之助だけであろう」
そう呟いている。
確かに、天膳の剣術を見抜いた覇王坊は彼の恐ろしさを知ったが、それでも笑っていた。
「地の利?それは儂にあるぞ天膳」
「ほほう、俺はこの地下道を知り尽くしている。お前は知っているとでも?」
「いや、知らぬ。だが、ここは儂に有利じゃ。お前の死は確定した」
「面白い! やってみろ!」
天膳が冷笑し、間合いを詰めた瞬間、覇王坊は大きく息を吸い、上半身を異様に膨らませた。そう、まるで風船の様に。
その奇怪な状況に、天膳の動きが止まった。警戒したのである。
「根来忍法、『黒死疫』!」
老人が叫んだ瞬間、老人の口から大量の息吹が吐かれた。
異様な悪臭を漂わせ、その疾風の吐息は天膳に吹きあたる。
「なにを……うぬぬっ!」
自分の身体の異変に気付いたのはその時であった。
強烈な吐き気と共に、のどが痛み、顔がむくみ、黒い斑点が全身に浮かび上がる。
口から、目から、鼻からどろりとしたどす黒い血が流れ出し、天膳は糸の切れた人形の様に、倒れ伏せてしまった。
疾風の息を吐き終えた覇王坊は笑う。
「儂はな、毎日、鼠、百足、ゴキブリ、虻等の動物の生肉をすりつぶした団子を食し、その結果、口から即死させる疫病の息を吐けるようになったのじゃよ」
自信タップリに言うが、天膳は反応しない。
当然である。天膳の顔は青白くむくれ上がり、手は水分を失い干からびて死んでいたのだ。
「これが、薬師寺天膳? 他愛も無い。……いや、儂が強くなりすぎただけの事か」
確かに、この忍法は狭いところでは有利だ。
だが、広くても結果は同じであろう。
何しろ覇王坊のこの忍法は、小さな村なら、村人達を一気に皆殺しにさせる力を持っているのだ。
下手をすれば、一国を滅ぼしかねない、まさしく『覇王』であった。
「…しかし、さすがの儂も、ここから出るには、時間がかかりそうじゃ。まあ、あの六人なら大丈夫だろう。もしもの事があっても、火炎坊がいるわえ」
老人は肩を揺らして笑い、この空洞から離れた。
そこに天膳の死体が残った。
……なんたる事だ。
伊賀の精鋭と、重鎮薬師寺天膳は、根来忍法僧七人相手に、一人も倒せぬまま、土蛇と、薬師寺天膳を失ったのだ!
※
その頃、根来の先に伊賀に向かった四人は、伊賀の五人のいる場所に近付きつつあった。
その背後から火炎坊と大蛇坊が追いかけ、そして遅れて、筑摩小四郎が追ってくる。
覇王坊は暫く迷宮の様な地下道を迷うであろう。
若い伊賀忍者達と、摩訶不思議なる根来忍法僧達の壮絶な忍法合戦は、始まったばかりだ。
( 続く )