水底呼声 -suitei kosei-

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  予告編  

「私の名前は,古藤みゆ.」
眼鏡の奥の瞳が,少年を見据える.
「今夜,この世界につれて来られた日本人よ.」
声は落ち着いていたが,黒の瞳がかすかに不安そうに揺れる.
「名前があるんだ…….」
ウィルは,口の中だけでつぶやく.
みゆはじろじろと,少年の姿を観察していた.
「チキュウの人と,事前に会うのは初めてだ.」
大きく一歩を踏みこんで,近づく.
「年は?」
彼女が眉根を寄せる.
血のにおいに気づいたのかもしれない.



「どこへ行くのですか?」
廊下の薄闇の中で,一人の少年が立っている.
みゆが答えると,若草色の髪の少年はますます悲しそうな顔になった.
同情してくれているのだろう.
明日には離れ離れになる,みゆとウィルに.
「場所を知っている?」
みゆの問いかけに,少年は瞳を伏せた.
ふっと表情が消える.
仮面になる.
存在まで希薄になったようで,みゆはとまどった.
「俺が案内します,黒猫の部屋まで.」
少年は早口に言い,くるりと背中を向ける.
「ついて来てください.」



「魔法は血で使うのだよ.」
花びらをつまむみゆの手を,ウィルは両手で包みこむ.
「ミユちゃんは異世界の人だから,僕と同じ魔法は使えない.」
そっと両手を開くと,白いチョウが飛び立つ.
チョウはすぐに,雪のように日ざしに溶けた.
「けれど君には,君にしか使えない魔法がある.」
甘いささやきは,恋人同士の睦言そのもの.
「どんな魔法?」
悪酔いしそうな感覚に,みゆは少しずつ慣らされている.
「秘密だよ.」
くすり,と少年は笑った.



国王は黙って,みゆの顔を見つめ返した.
艶のある黒色の長い髪,眼鏡の奥のきついまなざし.
やせすぎな体は骨ばって,枯れた木の枝のような腕の細さだ.
そのような細腕で,何ができるのか.
だが彼女の瞳には,けっして飼い慣らされない意思の強さがある.
「国王陛下,聞いてもよろしいでしょうか?」
言葉づかいはていねいでも,漆黒の瞳がそれを裏切っている.
「なぜ毎年,地球の女性を呼び寄せるのですか?」
冷静を装いながら,苛烈な気性を持つ異世界の娘.



月の光に見守られて,一人の男が赤ん坊を抱いて森の中を走っている.
「私はこの子に名を与えない.私はこの子に愛を与えない.」
呪いの言葉をつぶやきながら,しかし大切に産まれたばかりの赤ん坊を抱いている.
愛すべきか,呪うべきか,決めかねている.
しばらくすると男は足を止めて,眼前の大きな洞くつを見上げた.
「神よ.私は今,あなたと決別する.」
男が洞くつに足を踏み入れたとき,赤ん坊が大きな声で泣き出した.



赤い血の海に,長い黒髪が散らばる.
衣服から出ている細い手足は,日の光を浴びたことのない者のように白い.
むせ返るような血のにおいに酔ってしまいそうだ.
魔法陣の縁に立っている少年は,ただぼう然と恋人の死体を眺めている.
昨日まで愛をささやいていた恋人の死体を.

暗い水底で,息をのまれながら.

呼ぶ声が聞こえた.
確かに,聞こえたのだ.
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