水底呼声 -suitei kosei-

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  1−1  

人に懐かない猫に,懐かれたような気分だ.
みゆがどこへ行こうとも,少年はついて回る.
石造りの王城の廊下を歩き,ぴたっと歩みを止める.
少年も,みゆの真後ろで止まった.
「ウィル.」
みゆは,できるだけあきれた声を出して振り返る.
「ミユちゃん,何?」
黒色の瞳に楽しげな光を踊らせて,ウィルは問うた.
無邪気な子どもの顔をして,にこにこと返事を待っている.
「ついてこないで.」
「僕がそばにいるのは嫌?」
少年は首をかしげて,たずねる.
「嫌,というわけじゃないけど.」
みゆが答えると,背中からべったりと抱きつかれた.
「離してほしい.」
体に絡まった腕を,ほどこうとする.
くすくすと笑い声が,耳もとをくすぐる.
細い腕なのに,いつもほどけない.
もっとしっかりと閉じこめられた.
みゆは仕方なしに,背中の少年に体重を預ける.
この体温に,すっかりと慣れてしまっている.
出会ってから,まだ五日しかたっていないのに.
「ウィル,私が故郷へ帰ると分かっている?」
みゆはぼんやりと,視線を宙にさまよわせた.
ろうそくの炎がたゆたう,見慣れない景色.
「私が,」
この“世界”の住民ではないことを分かっている?
言葉はのどまで出かかって,消える.
みゆはうつむいて,異国の靴を履いた自分の足を見つめた.
柔らかく抱きしめられているのに,胸が締めつけられるように苦しい.
口にすることのできない理由は,分かっている.

***

にごった夜空に,ぽっかりと浮かぶ月を見ていた.
歩道橋の上で,しばし足を止めて.
ビルに囲まれたせまい空に,ただあるだけの月.
輝くでもなく,かげるでもなく.
存在するという仕事を,月は淡々とこなしている.
参考書や辞書の入った重いリュックを背負いなおして,みゆは歩き出した.
浪人生に,ぼぉっと月を眺めている暇はない.
いくら有名国立大を目指しているといっても,周囲の者たちの目は厳しかった.
仕方ないよね,姉さんは現役で合格したのだから.
みゆは歩道橋を降りて,街の雑踏の中へ沈みこむ.
なんとか同じ高校に入れたけれど,次は同じ大学…….
予備校から駅への帰り道,いつもと同じ道.
人ごみにもまれて感じる息苦しさも,いつものこと.
汚染された大気も,明るすぎる夜も.
みゆは前だけを向いて,歩く.
ただ,歩き続けていた.

***

「ウィル,」
男の目が,信じられないものでも見たように見開かれる.
その名は恐怖,追いつめられた者特有の顔.
「裏切っては駄目だよ.」
場違いに陽気な声がこたえる.
今夜は月がない.
やみに溶けて,黒衣の少年が笑っている.
「国王陛下はご立腹,黒猫の僕にいつものご命令をお下しになった.」
歌うようにさえずって,少年が一歩を踏み出す.
「ひっ,」
暗い王宮の中庭で,男は逃げ出した.
自分の子ども以上に年の離れた少年から.
数歩も走らないうちに,足もとの花壇につまずいて,前のめりに倒れる.
男はよつんばいになって,逃げた.
花壇に植えられている植物の葉や茎が,彼のひふを傷つける.
「なんで逃げるのだろう?」
少年は不思議そうにつぶやいた.
男は必死に逃げているのに,少年は追いかけない.
「逃げ切れるわけがないのに.」
くすりと笑んで,黒の瞳でひたと見つめる.
「この世界のことわりを知る者よ,神の名を冠する者よ,」
ゆっくりと,呪文を詠唱する.
「いやしき彼らは,御身の光に耐えられぬ.」
走る男の体から,真っ赤な血がほとばしる.
悲鳴もなく,男は崩れ落ちた.
静かな,色だけは鮮やかな殺人.
男は渡り廊下の近くで死んだ.
「あーあ,」
少年は,あくびをかみ殺す.
つまらない仕事がやっと終わったかのように.
「汚しちゃった.」
男の血は広く飛び散っており,床にも柱にもまだら模様ができていた.

***

参考書を片手に,みゆは駅のホームに立っていた.
次の次に来る快速列車が,彼女の待ち人だ.
受験用の英文を目で追いながら,普通列車の到着を告げるアナウンスを聞き流す.
わざわざ分かっていることをしゃべられても,わずらわしいだけだ.
ふと英単語を頭に植えつけるのに飽きて,顔を上げる.
光が差していた.
空からみゆに向かって,一筋のまばゆい光が.
右手で軽く眼鏡のフレームに触れて,光を凝視する.
みゆのまわりを,人々は普通の顔をして行き過ぎる.
携帯電話をいじりながら,おしゃべりをしながら,ヘッドフォンで音楽を聴きながら.
これらの平常を乱して,悲鳴を上げられるものではない.
頭が変になったと思われる.
受験のストレスで,とか言われる.
妙に冷静な頭で,そう考える.
だから,じっと息を詰めて,見つめる.
何か異常な事態が起こっている,――おそらく,みゆにだけ.
常識では考えられない,天からのスポットライト.
目の錯覚だろうか.
しかし,どれだけまばたきをしても,光は消えない.
どんどんと大きくなる.
左手から参考書がすべり落ちる.
電車が,駅のホームに到着する.
光の中から,手が伸ばされる.
小学生くらいの子どもが,何かを指差す.
大きな手がみゆの腕をぎゅっとつかみ,そこでやっとみゆは悲鳴を上げた.

***

王国では毎年,異世界から妙齢の女性を召喚する.
何の承諾もなしに,無理やり連れてくるのだ.
泣きさけぶ者もいれば,怒り狂う者もいる.
誰もがパニックになる.
しかし今年の娘は,例年の女性たちとは様子がちがった.
冷めた漆黒の瞳で周囲を見回し,にらみつける.
「十日後に,故郷のチキュウへ帰そう.それまでは,この城に滞在してほしい.」
と,国王がほほ笑みかけても,疑わしげな視線を向けるだけだった.
「十日間も待てないわ.今すぐに帰して.」
臆することなく,まっすぐに見つめる弾劾の瞳.
「本当に帰してくれるの? 帰すならば,なぜ私をこの世界に連れてきたの?」
上辺だけの言葉ではなく,真実を求めて.
「説明してちょうだい.何の目的があって,私を召喚したの?」

***

仕事を終えたウィルは,王宮内の自室へ帰る途中だった.
庭と渡り廊下の清掃は,部下たちに任せている.
部下とはいっても,少年よりも一回りも二回りも年上だが,誰も文句を言わない.
少年の身分は,国王の黒猫.
国王から直接,命令を受ける立場である.
「眠いなぁ,」
深夜の仕事には,どうしても眠気が付きまとう.
昔,国王は少年に対して,子どもには眠る時間がたくさん必要と言ったくせに.
明かりのないやみの中を,少年は迷うことなく進む.
中庭の樹木にぶつかることなく,足もとの花壇につまずくことなく.
黒猫と呼ばれるのにふさわしく,足音はいっさい立てない.
だから,彼女に出会えた.

中庭の隅で,見知らぬ女性が肩を震わせて泣いていた.
声を押し殺して,流れる涙を乱暴にぬぐいながら.
ひとりで立つ彼女は,誰の助けも求めていない.

暗い水底で,息をのまれながら.

少年はわざと物音を立てた.
彼女は,びくっと震え上がる.
見つめ返す漆黒の瞳が,涙をたたえていたにもかかわらずに少年を射る.

呼ぶ声が聞こえた.
確かに,聞こえたのだ.
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