水底呼声』番外編

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  僕のことは嫌いにならないでね  

携帯電話のバッテリーは,三日で切れた.
みゆは,暗い液晶画面をぼんやりと眺める.
もともと電波は入っていなかった.
だからバッテリーが切れたからといって,不安になる必要はない.
けれど,なぜか心もとなかった.
みゆは携帯を,ぱたんと折りたたむ.
そこまで使用していたわけではないが,やはりしっくりと右手になじむ.
高校二年生のときに親に購入してもらい,それ以来二年ほど持ち歩いているものだ.
気分を変えたくて,顔を上げる.
大きな窓から見える空は,青く美しい.
こんな澄みきった空は,大気の汚染された日本ではお目にかかれない.
「ここは,どこ?」
「君にとっては異世界の,王国だよ.」
答える声が,真後ろから聞こえた.
「ウィル.」
振り返ると,黒髪黒衣の少年がすぐそばに立っている.
みゆに気づかせずに,いつの間にか背後に近づいていたらしい.
心臓に悪い出来事だが,みゆはそれに慣れつつあった.
「どうして,いつも足音がしないの?」
少年はおかしそうに,くすくすと笑う.
年は十六才以上らしいのだが,笑うと少し幼くなる.
「僕は,国王陛下の黒猫だから.」
「答になっていないわ.それに勝手に,部屋に入ってこないで.」
ここは一応,みゆのために用意された客室である.
ドアをノックしてから,入室すべきだ.
みゆは少年から一歩離れて,携帯をスカートのポケットに入れた.
少年の視線が追いかける.
無視してもよかったが,みゆは携帯を取り出した.
「これは携帯電話よ.」
携帯をかぱっと開いて,差し出す.
日本ではありふれた,折りたたみ式携帯電話だ.
ストラップはつけていない,着メロは去年,――2005年の流行曲のままだった.
少年は携帯を,興味しんしんで受け取る.
「軽いや.」
もっと重いものだと思ったのだろう,素直に驚いている.
「てかてかしている.」
携帯は,光沢のある青色をしている.
冷たく,表面だけで輝いているような色だ.
「何の道具なの? ミユちゃんは昨日もこれを見ていたよね.」
そして先ほどと同じく,背後から少年が近寄ってきた.
「遠くにいる人と話したり,」
メールやインターネットは,どう説明すればいいのか?
この世界には,電話も電気も,水道もガスもない.
あるのは,ろうそく,暖炉,井戸,馬車,そして魔法.
「手紙を送ったり,情報を集めたり,いろいろなことができる道具.」
少年は,携帯を開けたり閉じたりして遊ぶ.
「大事なもの?」
「あまり大事じゃない.」
「そうだと思った.」
少年はくすりと笑む.
なぜ? とたずねようとして,みゆはやめた.
大事なものなど何ひとつない.
姉がなくなった瞬間から,世界は水底に沈み,息すらできない.
それを,少年は分かっているように思えた.
おとといの夜に出会ったばかりなのだが.
「なぜ私を,この世界に召喚したの?」
少年の笑みが深くなる.
「秘密.」
「なぜ十日間も城に滞在しないといけないの? 日本へ帰すのならば,すぐに帰せばいいのに.」
十日間の失踪は,みゆの経歴に傷をつける.
ただでさえ大学受験に失敗し,浪人しているのに.
「それも秘密.」
「秘密だらけね.」
みゆはあきれた.
「ミユちゃんは,この城の大切なお客様だから.」
「そうは思えないわ.」
城の中に閉じこめているくせに,何を言う.
大切な客だと主張するのならば,せめて城下街ぐらい観光させればいいのに.
「皆,君を歓迎しているよ.」
どうもウィルのせりふは,うそっぽい.
だが,みゆが賓客扱いなのは確かだった.
立派な個室が与えられ,食事も豪華だ.
「私,うそつきは嫌いなの.」
携帯を返してもらいながら,つぶやく.
つぶやいた後で,妙なことを言ったなと思う.
みゆに嫌われようが好かれようが,ウィルにはどうでもいいことだ.
「僕は,うそはつかないよ.」
にっこりと,少年が無邪気な笑みを見せる.
みゆは意表をつかれたが,負けじとほほ笑んだ.
「でも,隠しごとはしているでしょう?」
「うん.」
正直に答えられて,今度こそ言葉に困った.
確かに,うそはついていない.
「だから僕のことは,嫌いにならないでね.」
冗談なのか本気なのか.
少年の笑顔に,みゆは返事をしなかった.
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水底呼声』の番外編「携帯電話」を,初見の人用に書き直したものです.

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