水底呼声 -suitei kosei-

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  11−16  

百合はソファーの上でひざを抱えて,ライクシードの立ち去った扉を見つめていた.
不安になってたまらなくなったとき,扉が開いて,彼が帰ってくる.
百合は,ほっとした.
彼に捨てられたら,居場所がなくなる.
わが子,――桜と離れた今,百合には存在する意味がなかった.
「古藤さんの彼氏って,かっこよくなったのね.」
意識して,ちがうことを考える.
「二年前に会ったときは,もっと幼い感じがしたわ.」
百合はウィルに,一度しか会ったことがない.
神の塔に入る前に,大神殿の地下にあるルアンの部屋で顔を合わせたのだ.
ウィルは,みゆの恋人だと思うには,びっくりするほどに子どもだった.
百合ならば恥ずかしくて,彼が恋人だと友人たちに紹介できない.
けれど,二年前も今も,みゆを大切にしていた.
まなざしや態度から,黒髪の少年が彼女の恋人だとすぐに分かった.
いや,ウィルだけではなく,あの場にいた全員が,みゆの味方だった.
百合が虚勢を張らなくてはならないほどに,みゆは周囲から愛されていた.
みゆの性格が,予備校にいたときとは見ちがえるほどに明るくなったのは,そのためだ.
なぜ自分には何もなくて,彼女にはすべてがあるのか.
「あの二人は,ずっと付き合い続けるのかしら.」
結婚し,子どもを産み育てる.
彼らならば,百合には不可能だった暖かな家庭が築けるのかもしれない.
ライクシードは答えずに,机に戻った.
家族への手紙の続きを書き始める.
みゆが神聖公国へ行くときに,届けてもらうつもりらしい.
彼の背中は,百合との会話を拒絶していた.
なぜ,といぶかしんだ瞬間に,百合は悟る.
みゆとウィルのキスシーンに遭遇したときには分からなかったのに,今回は気づいた.
ライクシードの態度が妙なことに,そして三人の間に微妙な空気が流れていることに.
あぁ,彼のそばにも居場所はないのだ.
百合の心は冷えていく.
しかし百合には,ライクシードが必要だった.
なぜなら彼は,桜を知らない.
ライクシードのそばにいれば,わが子のことを思い出さずにすむ.
あまり成功していないとはいえ,ルアンのそばにいるよりマシだった.
そして,みゆは百合を責める.
子どものもとへ戻らなくていいの? と眼鏡の奥の瞳が常に問いかけている.
だからライクシードのそばにいて,彼にすがりたい.
彼の心が誰に向いていようとかまわない.
単なる同情でも,彼は親切にしてくれる.
彼だけは手放したくなかった.

みゆはウィルに連れられて,城から出てウィルの家に帰った.
エーヌを呼び出して,三人でルアンの泊まっている宿へ向かう.
宿の一階の食堂がなかなか美味だったので,そこでルアンも交えて夕食を取るつもりなのだ.
ルアンとエーヌは初対面だったが,自己紹介はほとんど必要なかった.
二人とも,たがいの名前をウィルから聞いていたからだ.
みゆたちは暖かな食卓を囲んで,たわいのない話をする.
「ミユさんを探しているときに,ウィルがよく口にしていました.」
テーブルの上に置かれているろうそくの明かりを浴びて,エーヌがほほ笑んだ.
「父がいれば,すごく頼りになったのに,と.」
ルアンはこれ以上はないほどに照れて,手にしていたスプーンを落とす.
ちなみにウィルは,ばつが悪そうに口をへの字にしていた.
次に話題がカイルのことになると,しんみりとした雰囲気になる.
エーヌもまた,彼とは親しかったらしい.
食事が終わり,ウィルの家へ帰ろうとすると,エーヌに止められた.
「ウィル,ミユさんと宿屋に泊まりなさい.」
宿の玄関先に立って,エーヌは厳しくたしなめる.
「なんで?」
ウィルが首をかしげると,彼女はあきれた顔をした.
「大切な女性を,元娼館に泊まらせるつもり?」
「分かった.――ミユちゃん,宿の部屋を取ろう.」
彼は了解したが,みゆは納得できない.
「私は気にしないです.」
エーヌは首を振った.
「私が気にするのよ.」
彼女は優しく笑って,ひとりで帰ろうとする.
夜道は危ないからと,ウィルがあわてて追いかけた.
みゆはルアンとともに,宿に戻る.
いつかウィルが,大切な女性は簡単に抱いてはいけないとエーヌに教わったと言った.
彼女は,こんな風にして何度も,みゆを守ったのではないかと思う.
みゆの知らないところで,みゆがウィルと出会う前から…….
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