水底呼声 -suitei kosei-

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  9−6  

左の太ももに大きな傷を負ったウィルは,王城の客室に運びこまれた.
出血は止まったが,依然として顔色は青い.
まぶたは,かたく閉じている.
しかし夜になると,少年の顔は真っ赤になった.
足の傷による発熱のせいだ.
ウィルはうなされて,医者やメイドたちは懸命に看護を続ける.
薬をのませては吐かれ,それを何度も繰り返した.
ライクシードは汗をふいてやり,汗だくになった服を着替えさせる.
傷ややけどの跡の多い体にぎょっとしたが,ライクシード以外は誰も驚かなかった.
そうこうするうちに,夜が明けた.
少年の顔色はいくぶん,ましになっている.
朝日を浴びて,黒の瞳が開いた.
ライクシードは,ほっとする.
部屋には今,医者はおらず,ライクシードと一人のメイドだけがいた.
メイドは疲れきって,ベッドのそばの床で眠っている.
そんな室内の様子を,ウィルは目だけを動かして探った.
まだ血色の悪い顔に,落胆の気配が濃くなる.
少年の求める女性は,ここにはいないからだ.
次に少年は不快げに,まゆをひそめた.
「何か用,王子様?」
敵意丸出しの少年に,ライクシードは苦笑する.
兄のバウスならば,「ごあいさつだな,一晩中看病してやったのに.」と答えそうだ.
少年は起き上がろうと,身動きする.
だが顔をしかめて,断念した.
床で寝ていたメイドが,小さな声を漏らして体を起こす.
彼女は,ウィルが目覚めていることに気づくと,びくりと飛び上がるように震えた.
助けを求めるように,こちらを見てから,
「医者を呼びます.」
と早口で言って,部屋から出て行く.
視線を戻すと,少年が氷点下のまなざしで,ライクシードをにらんでいた.
少年と自分の関係を考えると,当然だった.
だがライクシードは,まくらもとで話しかける.
「ウィル,君の護衛をさせてくれないか?」
少年は無表情のまま,答えない.
答がないことで,ライクシードは自分の懸念が正しいことを知った.
王城は,ウィルにとって安全な場所ではない.
カイル,シャーリー,ほかにも誰か害意を持つ者がいるかもしれない.
そして今のウィルには,頼れる者がいない.
いたら,今,この場にいるはずだし,ライクシードの申し出を断るはずだ.
「ずっと,というわけじゃない.君が起きて,歩けるようになるまでだ.」
少年は,やはり無言だ.
「見返りは求めない.私が勝手に,君のそばにいる.」
ライクシードに守られることも,そばにいられることも,少年は嫌にちがいない.
屈辱ですら,あるかもしれない.
けれど…….
「ならば利用させてもらうよ,ライクシード.」
黒の瞳に,苛烈な光が宿る.
守ってもらうのではなく,利用する.
それが少年にとって,最大の譲歩だろう.
ライクシードは,どちらでも構わない.
おのれが最善だと思うことを,やるのみだ.

カリヴァニア王国について記述された本は今,王城の一室にある.
テーブルの上に置かれたそれらを,カイルは一冊ずつ手に取って確かめた.
確かに,大神殿にあった本だ.
カイルは神聖公国にいたときから,呪われた王国に関する本の存在を知っていた.
しかし,興味は抱かなかった.
神に呪われた魔物たちに関心を持つことは,道義に反することだった.
そのときは,自分が王国へ行くとは考えていなかった.
カリヴァニア王国は,想像とまったく異なる国だった.
神聖公国やほかの国と同じ,人の暮らす土地だった.
動植物も似たようなもので,魔物と言えるものはない.
気候も,人が住めないほどに,暑かったり寒かったりしない.
多少暑く,雨の日が多い程度のものだ.
洞くつを出たとたん魔物にかみ殺されることまで覚悟していたカイルは,ある意味,拍子抜けした.
いや,心のどこかで,腕の中の赤ん坊とともに殺されることを期待していた.
神の国からやってきたカイルたちは,逆にていねいに国王たちに迎え入れられた.
そしてドナートの口から聞かされた,王国の運命.
それは,信じられないものだった.
神が人を呪うなど,ありえるのか?
いや,“ありえない”ことは,ない.
カイルはそれを,痛感したばかりだった.
仲のよい姉弟だと思っていた,なのに…….
一番身近にいたのに,カイルは教え子たちの罪に気づけなかった.
ありえないことだった,気づくことができないほどに.
罪の子どもは,重かった.
どれだけ懐かれても,小さな手を伸ばされても.
殺してしまえば,よかった.
子どもを殺す機会は,いくらでもあった.
いや,カイルが手を下さなくても,病やけがで苦しむ幼子を見捨てるだけでよかった.
だが,神の血をひく聖女を失えるわけがない.
想像しただけで,血の気が引く.
いく世代にも渡り,守り育ててきた宝を手にかけるなど.
それでもやはり,殺すべきだった.
神の国を闇に落としておきながら,自己の存在を認め,幸せになってもいいなどと言い出す前に.
あの適当に選んだいけにえの娘が,黒猫を人間に変えた.
ウィルを裏切り者にし,故郷の神聖公国へ連れていった.
みゆに女性としての魅力があるとは思えなかったが,少年は彼女にひかれた.
長い黒髪,漆黒の瞳,きゃしゃな体つき.
みゆの外見は,ウィルの母親であるリアンに少しだけ似ていた.
母親の顔を知らないにもかかわらず,少年は彼女にリアンの影を見たのかもしれない.
だから,みゆは地球へ帰した.
世界のゆがみを,――カイル自身が作ったゆがみを直すだけで,彼女はもといた場所に戻った.
連れてくるよりも,押し戻す方が楽だ.
自然な状態に戻すだけなのだから.
だから彼女は,二度とこの世界へ来ない.
神を信じるカイルに,これ以上の苦痛を与えない.
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