水底呼声 -suitei kosei-

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  8−9  

みゆたちは馬車に乗りこんで,大神殿を後にした.
キースが一人で手を振って,またほかの門番たちに怒られている.
「妙な兵士がいるものだな.」
馬車の中で,バウスがあきれている.
みゆはキースに,
「あんたなんか首にしてやる!」
とどなったことがあるが,今はおしゃべりのために解雇されないか心配だった.
しかし,そんな彼のことは置いておいて,
「白井さんは元気だった?」
神の塔から出てきた百合について,向かいの席に座っている翔にたずねる.
すると彼は「うん,まぁ…….」とあいまいな返事をした.
みゆは続きを待ったが,翔は言いづらそうにうつむいている.
代わりに,バウスが口を開いた.
「残念だが,まったく元気ではなかった.」
はっきりと言う.
「彼女は,故郷のニホンへ帰りたいそうだ.」
日本へ?
「なぜですか?」
みゆは問う.
前回百合に会ったとき,彼女から帰郷の意思は感じられなかった.
彼女は聖女であることに満足していた.
「分からない.」
翔の声は暗い.
「大神殿が嫌になったのか,里心がついたのか.」
肩は落ち,視線は,ひざの上で組んでいる両手に落ちている.
「塔の中が,……思った以上に不思議な世界で,異常な体験をしたらしい.」
みゆはまゆを寄せた.
「手術台っぽいというか,……宇宙人にさらわれたような具合で,」
彼は言葉に詰まり,困っている.
「その塔の結果である,腹の中の子どもが怖いらしい.」
バウスが続きを引き取った.
「ラート・ユリは錯乱していた.」
みゆは不安になる.
いったい,百合に何が起こったのだ.
「どうする? ミユちゃん.」
隣の席のウィルが,顔をのぞきこむ.
「いつもの道から会いに行く?」
ルアンの部屋へ続く,隠し通路を利用して.
「君は会いに行かない方がいい.」
バウスがきっぱりと言った.
「彼女の望みは,子どもを降ろし故郷へ帰ることだ.」
降ろすという言葉の響きに,みゆはぞくりと震えた.
「君は協力できないだろう?」
苦々しげな王子の問いかけに,みゆはおじけづく.
胎内の子どもを引き出すという行為は,想像するだけで恐ろしいものだった.
「どうしたの?」
ウィルが心配そうに,肩を抱き寄せる.
「何を怖がっているの?」
バウスは重いため息を吐いた.
「当たり前の話だが,聖女の子殺しは神殿が許さない.」
百合が身ごもっている子どもは,次代の聖女.
神聖公国にとって,もっとも大切な命.
「赤ん坊は産んでもらう,絶対に.無事に出産した後ならば,どこにでも帰ればいい.」
言い捨てるような調子のせりふに,みゆはりつ然とした.
その言いぐさは,あまりにも百合に対して思いやりがない.
神聖公国の都合のみで,王子は考えている.
けれど,反論できない.
百合は神の塔に入ることを承知の上で,聖女になると決めた.
強制されたわけではなく,みずからの意思で.
でも,それでも,
「ミユ,」
バウスの顔は疲れていた.
「それは無理だ.」
自分の思考を読まれて,ぎくりとした.
「ラート・ユリを大神殿から連れ出して,故郷へ帰したとしても,子どもはどうする?」
妊娠はなかったことにできないぞ,と淡々と話す.
「堕胎など君は嫌だろう,ラートが強く望んでも.俺だって,見過ごすことはできない.」
言葉はたやすく,みゆを追いつめた.
「ならば故郷へ帰り,子どもを育てるのか? いや,彼女は子どもをほうっておくのかもしれない.」
自分の考えをすべて先回りされて.
「母親が皆,わが子を愛するとはかぎらない.」
何も答えられず,みゆは苦しげにあえいだ.
「子どもをどうする? 誰かが世話をしないと,赤ん坊はすぐに死ぬぞ.それとも君が面倒をみ,」
「黙れ!」
怒気をはらんだウィルの声に,バウスは口を閉ざした.
力なく,すまないと謝る.
「言いすぎた.――だが,真実だ.」
みゆは馬車に酔ったようにふらふらになり,黒の少年に支えられていた.
今さら,どうすることもできない.
子どもができたのだから産んで育ててくれと,百合に頼むしか.
命の重みに,つぶされそうだった.
「古藤さん,」
遠慮がちに,翔が声をかけてきた.
「多分,百合は,……ちょっと気が立っているだけじゃないかな.」
無理やりに笑ってみせる.
「そのうち落ちつくと思うよ.妊娠中ってそういうものなんだろ? つわりでしんどいんだよ.」
「それに大神殿には,身重の聖女を助けるために大勢の医師がいる.」
バウスは,自身に言い聞かせているように見えた.
「彼らに任せておけばいい.大神殿ほど,妊婦にとって安全な場所はない.」
みゆは,ゆるゆるとうなずく.
神の塔が,今まで以上におぞましく思えた.
百合に子どもを授けた神に対しても,恐怖を覚えた.
得体の知れない,彼女のおなかの中にいる子どもも怖かった.
重苦しい沈黙が,馬車の中に降りる.
誰も,口を開く気になれない.
みゆは恋人の体にもたれかかり,目をつぶった.
悪い夢の中にいるようだ.
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