水底呼声 -suitei kosei-

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  7−6  

ウィルが出発してから,みゆは家の戸じまりを再度,確認した.
一階の窓と玄関,二階の窓,かぎはちゃんとかけている.
窓のカーテンも,しっかりと閉めていた.
今日も貧民街には,ライクシードたちがいるらしい.
油断はできなかった.
みゆはダイニングテーブルに戻り,静かにいすを引いて腰かけた.
今ごろ,スミはどうしているのか.
痛い目にあっていないか,おなかをすかせていないか.
早く,帰ってきてほしい.
みゆはテーブルにひじをついて,顔をうずめた.
そうして,ただ待っていると,家の中は本当にしんとしている.
外の音が,――話し声がかすかに流れてきた.
もしや今,ライクシードと翔が,家の前を通っているのだろうか.
みゆは顔を上げて,耳をすませた.
すると突然,
「出て行け!」
どなり声に,びっくりする.
「邪魔なんだよ.」
「女を探すのなら,――ほら,あそこの店にでも行って,買えばいい!」
男たちの下品な笑い声が続いた.
みゆは,いすから立ち上がる.
外の通りは,どんな騒ぎになっているのか.
ライクシードと翔の声は,聞こえてこない.
みゆは玄関の隣にある窓に行きかけて,立ち止まった.
階段で,二階へ上がる.
通りに面した部屋に入り,窓のカーテンを開けた.
下の通りでは,ライクシードと翔が,六,七人ほどの男たちに囲まれている.
ライクシードが翔を,背中でかばっていた.
いや,男たちと言い争う翔を押しとどめているのだ.
どこからわいて出るのか,通りにはどんどん人が増えて,薄汚いやじを飛ばす.
前にスミが,みゆにしゃべったせりふを思い出す.
王子たちが捜索を続ければ,街の住民たちとのいさかいは増える一方だ.
ライクシードは翔の肩を抱いて,強引に立ち去らせようとする.
王子の背中に,一人の男が何かものを投げつけた.
だが彼は我慢強く,振り返らない.
翔を守りながら,男たちの輪から抜け出そうとする.
そのとき,みゆは気づいた.
はす向かいの家の二階の窓に,一人の女がいる.
彼女は,階下の王子たちに向かって,包丁を投げ落とそうとねらっている.
そしてライクシードも翔も,頭上はまったくの無防備だ.
みゆは窓を開いて,叫んだ.
「やめなさい!」
包丁を持った女は,ぎくりと顔をこわばらせて,さっと窓から隠れる.
上方を振り仰ぐライクシード.
彼と目が合う前に,みゆは窓から逃げ出した!
階段を駆け下りて,一階へ.
すでに玄関の扉は,乱暴にたたかれている.
扉のそばにある窓から,翔の声が漏れている.
カーテンを開けると,すぐそばにいるにちがいない.
みゆは,反対側の壁に走った.
窓を開けて身を乗り出そうとすると,ガラスの割れる音が背後に響く.
振り返ると,カーテンの下に,窓ガラスの破片が散らばっていた.
カーテンがふわりと揺れる,外側から窓が開いて.
銀髪の王子が窓枠を乗り越えて,家の中に入った.
片腕から血がしたたり落ち,表情は厳しく,大またで近づいてくる.
男の体が実物以上に大きく感じられて,みゆは腰が抜けるほどに恐怖した.
窓から逃げようとするが,足が震えてうまくいかない.
そうこうするうちに,背中から肩をつかまれた.
「きゃぁあ!」
悲鳴を上げて,頭を抱えてしゃがみこむ.
「ミユ,」
困ったようなライクシードの声が降ってきた.
顔を上げると,
「そんなに怖がらないでくれ.」
情けない調子で頼まれる.
「ごめんなさい.」
謝罪の言葉が,口をついて出た.
彼の顔が,とても悲しそうだったから.
みゆは壁にすがりついて,立ち上がった.
王子の肩越しに,翔がこちらを眺めている.
彼はけげんそうに,まゆ根を寄せた.
「古藤さん?」
百合と同じく,彼のこともみゆは覚えていた.
京大に合格することだけを目的に生きる,冷めた黒の瞳.
自分と同類だと,予備校で思っていた.
けれど今,みゆと翔は決定的にちがった.
彼はジーンズをはいて,腕には時計をはめている.
いつでも日本に帰れる姿であり,この世界では浮いていた.
対してみゆは,眼鏡しか日本のものはない.
変わってしまったのだ.
髪の長さよりも,――外見よりも,心のあり方が.
ウィルと出会い,さまざまな経験を得て,みゆは自覚のないままに自分を変化させた.
翔と百合が,みゆを疑うのは当然だった.
みゆは彼に話しかけようとしたが,
「ミユ,教えてほしい.」
ライクシードが先に,口を開く.
壁に寄りかかるみゆに,体を近づけて.
「君はなぜ,この国へ来たんだ?」
苦しげに細められた青の瞳を,みゆは真正面から見つめ返した.
彼と初めて会ったときと,同じように.
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