水底呼声 -suitei kosei-

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  6−4  

家の掃除をしていると,ふいに少年が「あれ?」と声を出した.
「どうしたの,ウィル?」
テーブルをふきながら,みゆはたずねる.
「んー,」
ほうきを持った少年は,首をかしげた.
「二階の窓からスミが帰ってきたのだけど,すぐに出て行った.」
「え?」
ふきんをテーブルの上に置いて,みゆは階段を登る.
スミの部屋に入ると,窓のそばに食料と手紙が置いてあった.
きのこや野菜などは,店で買ったものだろう.
手紙には,偵察の報告がそっけなく書かれている.
いつものスミならば,口頭で伝えるのに.
そして三人で昼食をとればいいのに,なぜか少年は再び出かけてしまった.
みゆは書面に目を走らせる.
使者の名前は柏原翔と白井百合であり,みゆの知り合いだと記されていた.
しかし,
「カシハラ? シライ?」
誰だっけ?
友人ではない,――そもそも友人はほとんどいなかった.
高校の同級生だろうか? いや,そうではない.ならば予備校の,
「あ!」
みゆはやっと,二人の名前に思い至った.
「予備校のクラスメイトだ! 難関国公立大文系コースSの.」
「ヨビコー? ナンカン?」
何,それ? といった少年の表情に,みゆはくすくすと笑った.
「京都大学志望で,特待生だけのS(スペシャル)クラス.」
みゆは姉と同じ,法学部を目指していた.
駅のホームから,この世界に飛ばされるまでは.
「柏原君と白井さんも,カイルさんに連れて来られたのかしら?」
少年はうなずく.
「召喚魔法を使えるのは,師匠だけだよ.」
「いつ呼ばれたの?」
みゆがこの世界に来たのは,地球時間での八月四日のことだ.
今は,九月中旬あたりだろう.
「ミユちゃんが神聖公国に行った後だよ.」
洞くつをくぐったのは,八月末だ.
ならば翔と百合は,みゆが失踪した後のことを知っている.
もしかしたら両親が,予備校に来たのかもしれない.
みゆを探しているのかもしれない.
期待がわき起こると同時に,落胆に塗りつぶされた.
けれど望みを捨てきれず,思考がぐるぐると回りだす.
みゆは意識して,それを止めた.
「どうしたの?」
黒の少年が,心配そうに見つめている.
「嫌いな人たちなの?」
「まさか.」
親を嫌う子どもがいるわけがない,と思った後で,会話のずれに気づく.
少年は,翔と百合がみゆにとって不都合な人物なのか問うているのだ.
みゆは苦笑する.
「ほとんど話したことがないから.」
翔とも,百合とも.
だから,どんな顔をしているのか忘れてしまった.
たとえ会ったとしても,思い出せる自信がない.
「今は,スミ君の方が気になる.」
少年は顔も見せずに,家から出て行った.
「心配なら,首根っこを捕まえて,連れ戻そうか?」
窓の外に目をやって,ウィルは言う.
黒の瞳は,スミの姿をとらえているのだろう.
「ううん.無理に連れ戻さなくていい.」
みゆは首を振った.
「でも夜になっても帰らなかったら,二人でスミ君を迎えに行こう.」

お昼どきの街を,若草色の髪の少年は一人で歩いていた.
噴水のある広場に行くと,食欲を刺激するにおいが周辺の屋台から漂ってくる.
どの屋台も繁盛しているようで,客が大勢入っていた.
友人同士であったり,家族であったり,皆楽しそうに食べている.
人ごみにもまれて,スミはそれをぼんやりと眺めた.
家に帰れば,みゆは笑顔で迎えてくれるし,ウィルは食事を用意してくれる.
恋人がいるかぎり,黒猫が作るのは手間をかけたおいしい料理だ.
それに,スミの心にとげを刺すルアンはいなくなった.
なのに,帰ろうと思わない.
どれでもいいから屋台に入ろうと,さまよっていると,
「あ,すみません.」
同じ年ごろの少年とぶつかった.
「ごめんなさい.」
少年にしては高い声が応じる.
そしてスミを置いて,さっさと行ってしまった.
だぼだぼの服に,大きな帽子をかぶっている.
「え?」
なぜ,こんな場所にいるのか.
あきらかに不自然な変装で,少女はふらふらと屋台を見て回る.
茶色の帽子はもっさりとふくれて,長い髪を入れているのだろう.
帽子と服の間からのぞく首は細く,白い.
昨日,大神殿に乗りこんだときのみゆの姿に似ていた.
いや,私も男装すれば正体がばれないと,まねをしたのかもしれない.
スミは少女を追いかけた.
見つけた以上,放っておけない.
ぽんと少女の肩をたたいて,小さな声でささやく.
「何をやっているんだ,セシリア.逆に目立っているぞ.」
少女はびくりと震えて,振り返った.
「誰?」
初めて間近で見た少女の瞳は,驚くほどに青い.
少年は思わず,息をのんだ.
「俺は,首都神殿の調理場で働いているスミ.」
少女は大きな瞳で,じっと見つめる.
「こんな街中にいていいのか? しかも一人だろ.」
あまりにも凝視するので,居心地が悪い.
「あなたこそ,ここにいていいの?」
少女は聞き返してきた.
「今,首都神殿は,新しい聖女を迎えるために大いそがしでしょう? 」
答えるとボロが出そうなので,スミはちがう話題を振る.
「俺のことはいいから.お忍びで,どこかへ行く途中なのか?」
なら送るよと続けると,少女は困った笑顔になった.
「ありがとう.でも予定があるわけじゃないの.」
先ほどまで少女は,人ごみの中を流されるようにして歩いていた.
少女にぶつかる前の,スミと同じように.
「それよりスミは,私を首都神殿に帰さなくていいの?」
「そういうことは俺の仕事じゃないし.」
あさっての方を見て言う.
「俺も仕事をさぼっている最中だし,セシリアだって息抜きがしたいだけだろ?」
少女はためらった後で,「うん.」とうなずいた.
「日が落ちるころには帰るつもりだし,誰だって一人になりたいときはあるよな.」
だから今は隠れ家に帰らないのだと,少年は自分に対して言い訳をした.
すると少女の瞳から,ぽろりと涙が落ちる.
ぎょっとするスミの前で,涙がどんどんと流れていく.
「私,そんなことを言われたのは初めてだわ.」
「そ,そう?」
スミだって,目の前で女性に泣かれるのは初めてだ.
さすがに動転する.
「同じ年ごろの人としゃべるのも,初めてよ.」
どうやら相当に箱入り娘らしい.
少女は,ごしごしと目をぬぐった.
「ごめんなさい,泣いてしまって.昨日からいろいろなことがあって,疲れているみたい.」
涙を止めると,少女はにこっとほほ笑む.
「夕方には首都神殿に帰るわ.見逃してくれて,ありがとう.」
じゃぁねと背中を向けて,歩き出す.
少女の腕を,少年はとっさに捕まえた.
振り返る,涙をたたえた青の瞳.
光るものが,なめらかなほおを伝って落ちる.
そのとき,ぐぅぅぅと間抜けな音が,スミとセシリアの腹から鳴った.
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