宇宙空間で君とドライブを

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  番外編「月面ドーム都市『浮舟』」  

 月面滞在三日目の朝、朝乃は自分のベッドで目をさました。とは言っても、昨日から朝乃のものになったベッドで、眠りは浅く途切れがちだった。
 ベッドは、三階の屋根裏部屋にある。夜に一度、朝乃はのどがかわいた。しかし二階で眠る功たちに遠慮して、一階のキッチンに行けなかった。
 天窓の外を見ると、空は明るい。今は何時だろう。この部屋には時計がないので、妙に心もとなかった。棚の上には、ピンク色のミニバラが咲いている。朝乃は窓に向かって、
「カーテンを閉めてください」
 と命令する。窓にロールカーテンが降りた。朝乃はパジャマから服に着替える。パジャマも服も、翠から借りていた。翠は今、マタニティ服を着ているから、普段の服を貸しても問題ないのだ。そして朝乃も翠も標準的な体型なので、サイズも支障ない。
 だが花柄のロングスカートは、朝乃の年齢に合わない。でも、ぜいたくは言えない。下着は新品を買ってもらっているのだから。朝乃は功たちの金銭的な負担を思うと、下着の購入は遠慮したかった。しかし下着の貸し借りは、朝乃も翠も嫌だったのだ。
 朝乃は着替えを終えて、少し緊張して一階に下りる。リビングでは翠がソファーに座って、テレビを観ていた。朝乃に気づくと、ぱっと明るい笑顔を見せる。
「おはよう。よく眠れた?」
 翠の声で、朝乃は気持ちが楽になった。さっきまで特に何かあったわけではないが、気分が落ちこんでいたのだ。翠のほほ笑みは、遠慮しなくていいと朝乃に伝えてくる。
「おはようございます。その、……あまり眠れませんでした」
 朝乃は正直に打ち明ける。翠は優しくしゃべる。
「大丈夫よ。あなたもちょっとずつ、月での暮らしに慣れていくから」
「はい。ありがとうございます」
 朝乃も笑った。ダイニングの方から、寝ぼけまなこの功がのっそりとやってくる。
「おはよう、朝乃」
「おはようございます」
 朝乃たちは、ダイニングテーブルで朝食のパンとバナナを食べた。功は自転車に乗って、会社に向かう。
 しばらくすると、家に警察がやってきた。朝乃はリビングで、刑事たちに誘拐未遂事件について話す。日本語の分かる刑事がひとりいたので、会話には困らなかった。また、信士から事件のてんまつを聞いていたので、適当なうそがつけた。刑事たちが家から去ると、
「散歩がてらスーパーに行きましょう」
 翠は朝乃に対して、気楽に笑う。
「はい」
 朝乃は、気合の入った返事をした。朝乃は功たちの役に立ちたかった。買いものだって、おなかの大きな翠に代わって、ひとりでやりたかった。翠は目を丸くすると、少しだけ笑った。
「そんな立派なスーパーじゃないわ」
 彼女は朝乃の気合を、カン違いしているようだ。ただ朝乃には不安があった。
「翠さん。今さらですが、大丈夫でしょうか?」
「何が?」
 翠が問う。彼女は結構、天真らんまんな感じだ。
「私はまた、誘拐されそうになるかもしれません」
 朝乃は自分より、巻きこまれる翠の方が心配だった。翠はちょっと考えて、腕組みをする。
「確かに、その可能性はあるわね。かといって、家にこもりきりは無理。私たちは人気のないところに行かないし、大丈夫よ」
 彼女はにっこりと笑う。朝乃はやはり不安だったが、翠の判断を信用することにした。それに功も昨夜の段階で、朝乃と翠だけの外出を容認している。だから大丈夫だろう。
「分かりました」
 そうと決まれば、朝乃の気持ちは浮き立つ。なんせ朝乃にとって、約二年ぶりの買いものだ。昔は普通にスーパーやコンビニに行っていたが、今では朝乃の孤児院は子どもは外出禁止だ。
 朝乃は玄関で、ドルーアが買ってくれたスニーカーをはく。目指すさきは、徒歩二十分程度の大型スーパーだ。
 住宅地を歩いていると、正面から誰かがやってきた。三十代から四十代ほどの、夫婦と思わしき男女が仲よく手をつないで歩いている。女性の方は朝乃たちと同じ、東アジア系の外見だ。彼女は翠に気づくと笑って、手を上げた。
「おはよう、翠。お買いもの?」
「えぇ。いつものスーパーまで」
 翠は笑顔で答える。会話は早口の月面英語だ。
「そう。気を付けて。ところで、その子は?」
「彼女は朝乃。昨日から、わが家に住んでいる」
 翠が朝乃を手で示す。自分の出番が来て、朝乃はどっきんとする。
「はじめまして。私の名前は村越朝乃だ」
 英語でしゃべるのは、まだ緊張する。昨夜朝乃は、功と翠から、できるだけ英会話を習った。ただ、それだけでは不十分だ。朝乃は、教科書や参考書がほしかった。
「はじめまして、私はキャサリンよ」
 キャサリンは優しくほほ笑み、手を差し出した。朝乃は彼女と握手を交わす。
「僕はアスランだ。よろしく」
 次に、男性の方、――アスランとも握手する。彼は中東系の顔立ちをしていた。
「キャサリンとアスランは、隣の家に住んでいるの。ふたりには子どもがいて、平日のこの時間帯は学校に通っている」
 翠が朝乃に、日本語で説明する。
「翠、朝乃は留学生なの?」
 キャサリンがたずねる。
「いいえ。朝乃ちゃんは弟と、日本から逃げてきた」
 キャサリンとアスランは目を丸くして、同情したように朝乃を見た。
「それは大変だったでしょう。子どもだけで、ここまで来たの?」
「はい。私は日本を去った、弟と一緒に。私たちは孤児だ」
 朝乃はどきどきしながら、うそをついた。このうそは昨日、功と翠と相談して作ったものだ。
「不運にも、私と弟は離れた。私は弟を探している。私は浮舟に着いた。しかし弟は、――私は彼がどこにいるのか知らない。私は翠の家に住んでいる。私は弟に会いたい」
 朝乃のたどたどしい英語を、キャサリンたちは真剣に聞いてくれる。うそをついているので、朝乃は申し訳ない気持ちになる。
「かわいそうに。何かこまったことがあったら、私たちのことも頼ってちょうだい。できるだけあなたの力になるわ」
「Thank you very much.」
 朝乃は心から礼を述べて、キャサリンたちと別れた。朝乃と翠は再び、スーパーに向かって歩いた。キャサリンたちとの距離ができてから、
「私はうまく、やれたでしょうか?」
 朝乃は不安に思って、翠にたずねる。
「もちろん」
 彼女は大きくうなずく。朝乃は安堵のため息をついた。
「キャサリンとアスランの顔と名前はおぼえてね。親切で頼りになる人たちだから」
「はい」
 まじめな顔の翠に、朝乃は返事した。確かにキャサリンたちは、とても親切そうだ。孤児で、さらに移民でもある朝乃に対して優しかった。前に功が「たいていの人は親切だ」と言ったが、そのとおりだった。近所づきあいの順調な滑り出しに、朝乃はほっとした。
 朝乃たちは住宅地から、大通りに出る。四車線の車道に、自転車専用道路に、歩道があった。人通りは、ほどほどに多い。
「バスも利用できるけれど、歩きましょう。私は、医者から散歩するように言われているの」
 翠はそう話して、朝乃たちは大通りに沿って歩いた。自転車で移動する人が多い。そんなに自転車は便利なのか。功と翠も自転車を持っていて、前庭に置いてある。朝乃がたずねると、翠が説明してくれた。
「月面都市は人口的に作られた街だから、坂道がほとんどないの。さらに基本的に、いつでも晴れ。だから自転車が便利で、みんな利用するの。たまにスケボーに乗っている人もいるわよ」
 今もドームの天井に、太陽や雲が映っている。夜になると暗くなり、星空が映る。月の姿は、ここが月なので映らないようだ。
「浮舟は日本の気候を基準に、一年間の温湿度を決めている。なぜなら浮舟は西暦2161年に、複数の日本企業が作った都市だから」
「え?」
 朝乃は驚いた。ぜんぜん知らなかったのだ。西暦2161年は、今から約六十年前だ。


月(NASA)

「浮舟という名前も、日本の昔の小説である『源氏物語』のキャラクターから取られた」
 翠は言ったが、無教養な朝乃はタイトルぐらいしか源氏物語が分からなかった。
「浮舟完成当初は、日本出身者が人口の四分の一ほどを占めていた。つまりほとんど日本のようなものね。その後、何十年もかけて浮舟の人口は増えた」
 人が増えたぶん、日本出身者の割合は減った。
「でもこの五年くらいで、日本からの亡命者が増えた。私と功も、それね。今は人口の1パーセントほどが、日本からの移民らしい」
 もともと日本の月面都市なので、亡命しやすいという。よって日本人街(ジャパンタウン)があるのか、と朝乃は納得した。
「今の若い人たちは知らないけれど、浮舟20(トゥエンティ)という漫画が、私が子どものころ日本ではやってね」
 翠は懐かしそうに話す。
「アニメ化されて、社会現象にもなった。実写映画もすごくヒットした」
 月面都市の建設には、大勢の人たちが関わる。その人たちの中で、特に大きな働きをした二十人を浮舟20と呼ぶ。その実在の人物たちを扱った漫画だったのだ。
「浮舟20の影響で、子どもたちはみんな宇宙にあこがれていた。特に功は、将来は絶対に火星か木星に行くと思っていたらしい」
「なぜ翠さんたちは亡命したのですか?」
 聞いていいのか迷ったが、朝乃は聞いてみた。火星に行きたいのならば、日本に残り、戦争に勝つように国家に貢献すべきだろう。なのに、戦争をしていない浮舟に亡命してしまうとは。翠は虚をつかれたように黙った。やがて悲しげにほほ笑む。
「すみません」
 朝乃は謝罪した。聞いてはいけない質問だったのだ。翠は苦笑して、首を振る。
「今はまだ、うまく説明できないの」
 彼女は、自分の大きなおなかに目をやった。いとしむように、赤ん坊を見ている。子どもが産まれ大きくなったとき、翠はその子に話すのだろう。朝乃は静かに、翠と歩いた。
 大通りに面したスーパーが見えてきた。入り口は透明ガラスの自動ドアで、多くの人たちが出入りしている。入り口の右手には自転車置き場が、左手には駐車場がある。
 駐車場の方から、手提げバッグを持ったひとりの中年女性がやってくる。彼女は笑顔で、目をらんらんとさせていた。翠は、はっとわれに返る。
「アンナだわ。感傷に浸っている場合じゃない」
 すばやく朝乃にささやいた。アンナという名前に、朝乃はぎょっとする。昨夜、翠と功が話していた、近所で唯一注意しなければならないおばさんだ。
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