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  パスタに落ちて  

寝室のダブルベッドにもぐりこむと,ラルフは澄香(すみか)に向かって,こっちにおいでと両手を広げた.
にこにこと,満面の笑みを浮かべている.
澄香は,立ちつくした.
すると彼は,灰色がかった青色の瞳を大きく開いて,しゅんと肩を落とした.
顔をうつむけて,悲しんでいる.
しかし何を考えたのか,唐突に寝間着のシャツを脱いだ.
鍛えているらしい上半身の筋肉を見せて,どうだ! とアピールする.
澄香はぽかんと口を開けたが,放心している場合ではないと説得を始めた.
「落ち着いてちょうだい,ラルフ.さっきから何をやっているの?」
彼はぐしゅんと,くしゃみをする.
やはり寒かったのだろう.
「それは僕のせりふだよ,澄香.なぜベッドに来ない?」
シャツを着て,すねたように唇をとがらせる.
「ベッドをともにするなんて,契約書にはないじゃない.」
澄香は冷静に反論する.
ラルフと澄香は今日,結婚した.
だが,愛を交して結ばれたわけではない.
「この結婚はあなたが,あなたのおじい様の遺産を相続するためにしたものよね?」
つまり,便宜上のものである.
ラルフはにこっと笑んで,もちろんと答えた.
「僕の一族は,結婚しないと一人前だと認めないのだよ.」
彼は,一見するとただの売れない小説家だが,実は大金持ちの一族の一員である.
親族には,愛を忘れた青年実業家だの,復讐を誓ったプレイボーイだの,強引な砂漠のシークだのがいる.
ちなみに澄香は,ごく普通の二十七才の日本人である.
同期の中で一番英語ができるという理由で,ここニューヨークにあるアメリカ支社で働いている.
ラルフとの出会いは,いつもランチを食べるお気に入りのレストランが同じなのである.
「いい,ラルフ?」
幼子に言い聞かせるように,優しく話しかけた.
「この結婚は偽装のもので,私たちは仮面夫婦.あなたが遺産を相続すれば,速やかに離婚する.」
だからベッドを別にするのは当然であると説く.
しかしラルフは首を振って,ため息を吐いた.
「澄香.君は魅力的な女性だけど,物事を固く考えすぎるきらいがある.」
あなたみたいに柔らかくて,ふにゃふにゃなのよりはマシだと思った.
「結婚しているのにベッドで愛し合わないなんて,ありえない!」
彼はこげ茶色の髪をかきむしって,騒ぎ始める.
「紙切れ一枚だけの薄っぺらい間柄でも,温もりを与え合うことはできるはずだ!」
ラルフと澄香の契約書は十枚以上あり,なかなかのボリュームだったのだが.
とりあえずここは突っこまない方が無難だと,澄香は判断した.
「でも,ラルフ.私はあなたのように,気軽にセックスを楽しめない.」
男性と付き合ったことさえないのよ,と情に訴える.
ラルフは,意外そうに目をまばたいた.
「そうだったのか.君は経験豊かで,男をまどわす罪な女性に見えたけれど,実は純情だったのか.」
さらりと相当に失礼なことを言って,ベッドから降りる.
てくてくてくと歩いて,寝室から出て行った.
ここは二人の新居のマンションで,隣室はリビングである.
ソファーがあるので,彼はそこで眠るつもりなのかもしれない.
つまり澄香が処女なので,気を使ってくれたのだ.
だが,嫌な予感がする.
澄香はそぉっと扉を開いて,隣室をのぞいた.
するとラルフは,やったー! とガッツポーズをしている.
喜びに打ち震えて,もう一度こぶしを突き上げてから,ひゃっほーいと小躍りした.
澄香は口もとをひきつらせて,心の底からドン引きする.
静かに扉を閉めて,がちゃりとかぎをかけた.
さすがに気がついたのか,だだだっとラルフが扉に駆け寄る音がする.
「澄香,君を決して後悔させない.すばらしい夜にすると約束するから,朝まで僕と楽しもう!」
「絶対に嫌!」
一瞬のためらいもなく断った.
「しばらく内緒にして,劇的なタイミングで告白するつもりだったけれど,――実は君を愛しているんだ!」
「信じられない!」
ベッドへ誘うための口説き文句にしか思えない.
しかも,劇的なタイミング?
これだから小説家は手に負えない.
「君だって僕を愛している! だから偽装とはいえ,結婚してくれたのだろう?」
ぎくりとした.
が,大声で言い返す.
「うぬぼれないでよ,このお調子者のお坊ちゃま! 結婚しないと遺産が相続できないって,いつの時代の話よ!」
すると扉の向こうは,しんとなった.
さすがに,言いすぎたのだろうか.
それに最後の方は興奮して,英語ではなく日本語でしゃべったのかもしれない.
澄香は,どうしようと悩んだ.
彼を愛している.
けれど,いきなり貞操を失う事態は避けたい.
いや,すでに結婚したので,純潔を守る必要はないのだが.
さらに,日本にいる両親も結婚を祝福して,――より正確に記述すれば,ラルフがハンサムなので母がはしゃいでいるのだ.
ちなみに父は,過剰なスキンシップをする彼に腰が引けていた.
そんな陽気で明るいラルフの沈黙は,澄香を不安にさせる.
食べていたソフトクリームを落として,泣いている男の子の姿が脳裏に浮かぶ.
とてもかわいそうで,よしよしと頭をなでて,なぐさめたくなる.
「ごめんなさい,ラルフ.」
澄香は扉を開いて,謝罪した.
「私が悪かったわ.言いすぎ,」
ところがそこに立っていたのは,にんまりと笑う大人の男.
「大丈夫.夜は長いのだよ,澄香.」
がしっと澄香の肩を抱いて,白いベッドを目指す.
「あぁ,君は焼きたてのピザのように,おいしそうだ.」
微妙なたとえだと,後悔しても後の祭.
昼食のパスタごと皿を落として,頭を抱える彼に声をかけたときから,結末は決まっていた.
ハンカチを差し出す澄香に,天使が降りてきたとラルフがつぶやいて.
ハッピーエンドは,お約束.
うその結婚が,本当になるのもお約束.
十枚以上ある契約書をびりびりと破いて,二人の甘い夜はこんな風に始まった.
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