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  名前のない王国  

彼は,私たちのアイドルだった.
ストリートミュージシャンで,顔がほどほどによくて,歌がうまくて,人気があって.
毎週末に,大きな駅前の,一番目立つ歩道橋の階段近くで路上ライブをしていた.
周囲にはいつも三十人ほどの人が集まって,取り巻きの女性グループもいた.
かけ合いの歌なんて,そばを行き過ぎる背広姿のおじさんたちが嫌な顔をするほどに,盛り上がった.
だから,アイドル.
でもテレビ画面越しに見ることしかできない芸能人よりは近くて,運がよければ握手してもらえた.
彼は,日常と非日常,現実と夢のはざ間に立っていた.

「ねぇねぇ,あれ.」
「マジで!? ここにいるの珍しくない?」
「うん,珍しいよ.しかも今日,水曜だし.」
友だちの指さす方を見ると,地下鉄の駅へ降りる階段のそばに,彼が座っていた.
小さないすに腰かけて,アコースティックギターをかき鳴らしている.
足元には,空のギターケースと,自主制作のCDアルバム.
そして彼の周りには,誰も人がいなかった.
街を歩く人たちは彼の正体を知らずに素通りしたり,階段を下り地下道へ吸いこまれていく.
「話しかけるチャンス?」
「え? でも…….」
「今なら,アリーナで聴けるよ.」
「取り巻きのお姉さんたちもいないし.」
一人が駆けだそうとすると,私たちの行動は速かった.
小走りで彼のもとへ向かい,彼を囲んで,ちょこんと腰を下ろす.
彼は突然現れた女子高生の集団に,驚いたように目をみはらせた.
すぐに,にこりとほほ笑んでくれる.
「今日はあまり歌う気はないのだけど.」
「ええーーっ!」
「なんでですかぁ?」
一斉にブーイング.
彼はギターを抱えたままで,ほがらかに笑った.
「一曲だけね.」
そして歌いだす.
アコースティックギターの音色だけで,朗々とした歌声が彼の口から流れだした.
遠く離れた恋人を想う歌.
彼の定番の歌だ.
高校を卒業した今でも,口ずさめる.
大きな川がゆったりと流れるようなメロディ,ただ「いつまでも愛している」と伝えるメッセージ.
なんて優しい,とても彼らしい歌.
曲が終わると,私たちは手が痛くなるほどに拍手を送った.
私たちは学生で,ギターケースにお金を入れたりCDを買ったりできなかった代わりに,拍手だけはいつもちゃんとした.
そして私たちの後ろからも,ぽつぽつと拍手が起こっている.
振り返ると,五,六人の男女が足を止めていた.
仕事帰りのOLさんたち,大学生ぐらいのカップル,なぜかえらく年配の男性までいる.
私たちは,自慢したい気分になった.
ここにいる彼は,ものすごい人物なのだよと.
気をよくしたのか,彼はギターをジャンジャンと鳴らす.
次は,ちょっと前にはやった女性シンガーソングライターの歌だ.
原曲はアップテンポで激しい曲なのに,彼はとても丁寧にバラードのように歌いあげる.
「男性の声でもいいわね.」
OLの二人組みが,うっとりとした調子でささやきあった.
彼が歌い終わると,さっきよりも大きな拍手が起こる.
あきらかに,観客が増えていた.
彼はどこで歌っても,人をひきつけて,呼びこむのだ.
ありがとう,ありがとう! と言って,彼はいすから立ち上がり,キャップ帽を脱ぐ.
再びいすに座り,ポロロロロンと弦を鳴らした.
けれど,なかなか歌いださない.
まるで一人で,ギターの練習をしているようだった.
せっかく集まったお客さんたちが,徐々に引いていく.
そう言えば彼は,「今日はあまり歌う気はない」と言っていた.
少しずつ,日が暮れてくる.
しばらくたつと,彼はまだ残っている私たちに,少しだけ苦笑した.
「四年前まで,俺も高校生だったんだ.」
ギターを弾きながら,懐かしそうに語りだす.
「けれどドロップアウトしてしまった.」
私たちは,普段の路上ライブでは聞けない話に耳を傾けた.
「今でも,親には申し訳ないと思っている.」
彼は高校を中退したらしい.
けれどタバコを吸い,酒を飲み,荒れている彼の姿は想像できなかった.
もしくは,家の中で引きこもる姿も.
「俺は落ちて,落ちて,落ちていって,」
まるで不思議の国のアリスのように,とつぶやく.
「この世界からも落っこちた.」
いつの間にか,彼の語りは歌になっていた.

そこは不思議な世界で,希望が光となって輝き,絶望が闇となってうごめく.
空も山も川も美しいのに,それらを示す名前がなかった.
言葉のない王国は,すべてがゆらぎ,しっかりとした形を持たなかった.
喜びを表すために笑うしかなく,悲しみを表すために泣くしかない.
人々はみな歌い,合唱しているようだった.
俺は歌うのも,素直に感情を表に出すことも下手で,何も伝えることができなかった.
好きだったあの人に呼びかけることさえ.

唐突に始まったおとぎ話に,私たちは反応に困った.
「新曲ですか?」
私はたずねる.
彼は,いいやと否定した.
「たまに歌うけれど,あまり評判はよくない.」
かすかに笑う.
確かに,こんなよく分からない歌よりも,身近で共感できるラブソングの方がいい.
彼は笑みを浮かべたままで,再び歌った.

水辺に住む女.
長い髪を小川の流れに任せ,水晶の瞳を閉じる.
褐色の肌は瑞々しく,指の先は冷たく,水滴を弾く.
近寄らせても触れさせてくれず,捕まえればすり抜ける.
愛していたのに,今でも愛しているのに,届かない.
せめてもう一度,逢いたいのに.
その深い透き通った瞳をのぞきこみ,愛を歌って聴かせたい.

後半のメロディは聞き覚えがあった.
彼の別の曲の一部だ.
けれど前半は,初めて聞く.
彼の歌は,――どのミュージシャンでもそうなのだけど,失恋の歌が多かった.
切々とした歌声だったので,私たちは無言になる.
あたりも暗くなってきた.
「名前がないから,彼女を呼ぶためには歌うしかないんだ.」
彼はぼそりと言葉を落とす.
「でも,もう疲れた.歌いたくない.」
いい加減,あきらめたい,と力なく言った.
「路上で歌うのも,やめようと考えているんだ.」
「あの,」
友だちの一人が,遠慮がちに声をかける.
「メジャーデビューの話が来ていると聞いたのですが.」
取り巻きの女性たちが自慢げに話しているのを,私も聞いたことがある.
「ただのうわさだよ.」
彼はほほ笑んだけれど,うそをついているようにも見えた.
「俺程度の歌い手じゃ,どこにも行けないし,誰も迎えに来ない.」
疲れ果てたアイドルの上に,ぽつりと空から雨が降ってくる.
本降りにはならなさそうな雰囲気だったけれど,私たちは立ち上がった.
私たちのアイドルがアイドルではなくなって,立ち上がるきっかけがほしかっただけかもしれない.
「できれば,歌い続けてください.」
「私たち,あなたの歌が好きですから.」
「また,いつもの場所でのライブを待ってます.」
友だちは口々に,はげましの言葉を送る.
私も彼に声をかけたくて,けれど何を言っていいのか分からなかった.
彼がいきなり,遠くなった.
手が届かないどころか,手が伸ばせない場所まで行ってしまった.
私たちは逃げるように,惜しむように,彼のもとから立ち去る.
地下鉄の駅へ続く階段から,JRの駅へ向かった.
「もったいないよね.」
「人気あるのに.」
「でも彼程度なら,日本中にいっぱいいるのかもしれない.」
「そんなことないよ!」
突然に,私たちの背中を,ギターの乱暴な音が打つ.
続いて,彼の泣き叫ぶような声.
いつまでお前を待てばいい,これ以上は無理だとなじっている.
感情むき出しの,愛というよりはエゴの歌.
ただ逢いたいと,そばにいさせてほしいと願っている.
欲望のままに,本能からの叫びで.
男性を感じさせる歌には,いっさいの優しさがなかった.
私たちは急に怖くなる.
その当時の私たちにとって,恋とはただ優しくて,甘くて,切ないものだったから.
彼のように,魂を振りしぼるような,生きるか死ぬかの瀬戸際での叫びではなかったから.
「帰ろう.」
「だいぶ遅くなっちゃった.」
「親,心配してるよね.」
私たちはカバンの中から定期券を取り出して,そそくさと改札口を通った.
ぷつりと,彼の声がとぎれる.
けれど移り気な私たちは,もう別の話題に夢中になって,振り返らなかった.

今でも思う.
あのとき振り返れば,どんな光景が見られたのだろうか.
あれ以来,彼の姿は消えた.
彼が宣言したとおり,路上ライブはやめたのだろう.
たくさんいたファンの人たちも,取り巻きの女性たちでさえ,ちりぢりに消えていった.
私たちの熱も,あっという間に冷めた.
ただひとつだけ,不思議なことがある.
彼の名前が思い出せない.
あんなにも夢中になったアイドルだったのに.
私も友だちもみんな,覚えてないのだ.
歌は,今でも歌えるのに.
せめて,彼の自主制作のCDを買えばよかったのかもしれない.
そうすれば,名前が印字されていただろうに.
いや,買わなくて正解だった,とも思う.
会社に勤めるようになった今でも,利用する大きな駅.
大勢の人たちが行きかう街の中.
歩道橋の階段のそばで歌っていた人.
誰にでも優しくて,ほがらかな笑顔を見せる人だった.
彼は名前を捨てて,不思議な王国へ旅立った.
子どもだった私たちに恋の激しさを見せて,水晶の瞳の恋人に逢いに行ったのだ.
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