恋人は月でピアノを売っている

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  05 無重力対応アコースティックピアノ  

 仁史がもっとも愛する楽器は、ピアノだ。しかしアコースティックピアノは、その構造上、重力がなければ音がならない。つまり地球や月では演奏できるが、ほぼ無重力の宇宙ステーションや宇宙船では演奏できないのだ。
「はい! そうです! 世界初の、無重力で演奏できるアコースティックピアノです」
 製品開発サポート課の部屋中に大声が響きわたって、仁史はびくっと震えた。が、いつものことだと思い、苦笑するだけにとどめた。
 仁史の近くで、ひとりの男が机に座り、鼻息荒く電話している。彼の名前はトニオ。三十代の働きざかりで、体はクマのように大きい。製品開発二課にいたが、つい一か月前にサポート課にやってきた。
「俺をサポート課に異動させて、無重力対応アコースティックピアノの開発を続けさせてください」
 彼は深刻な顔をして、仁史に頼みこんだ。唐突な申し出に、仁史は目を丸くする。
「採算が合わないから、開発は中止なんて嫌です。あとちょっとで完成するのに。無重力ピアノは絶対に売れますから、――いや、俺が売りますから!」
 仁史はトニオの熱意におされて、彼の言うとおりにした。無重力ピアノは案外売れるのではないかと思ったからだ。いや、何も仕事がなくてヒマだったから、やったのかもしれない。また無重力ピアノが失敗しても、仁史がクビになるだけだから支障はない。
 そのトニオは電話が終わったらしく、うぉおおお! とおたけびを上げている。
「月の女神が俺にほほ笑んでいる。 音楽の女神たち ミューズ がウインクしている」
 かなりのうるささだが、仁史はすでに慣れたので気にしない。トニオの隣では、ヨンハがにこにこしている。彼は五十代の男性で、ある日いきなりサポート課に異動してきた。本人いわく、異動のためにいろいろ根回しをしたらしい。
 が、なぜ閑職のサポート課に来たのか、さっぱり分からない。いつも笑顔で人当たりはいいが、なぞの男でもある。
「仁史!」
 トニオが笑って、仁史を呼ぶ。
「無重力ピアノの買い手が見つかった」
「ええ?」
 仁史は驚いた。まさか本当に売れるとは思わなかった。無重力ピアノは価格が高い。そして電子ピアノやキーボードならば無重力でも弾けるので、アコースティックにこだわる必要もない。
「アムダリアリバー国際宇宙ステーションの中にある、コンサートホールだ。ピアノが完成したら、すぐに届けるように言われた」
「なるほど」
 仁史は納得した。コンサートホールならば、アコースティックにこだわるだろう。それに世界初の無重力ピアノだ。ホールの宣伝にもなる。
 今は地球や月の周回軌道上に、たくさんの宇宙ステーションがある。ちょっとした宇宙旅行でステーションに行く人たちもいれば、月や有重力スペースコロニーへ行く中継地として利用する人たちもいる。
 どこの宇宙ステーションも客を集めるために、いろいろなサービスを提供している。宇宙遊泳だったり、子ども向けの科学教室だったり、クラシックコンサートだったり。
「そこのホールで使ってもらえれば、無重力ピアノの宣伝にもなる。それに、大型の宇宙船、――豪華客船のコンサートホールでも売れるかもしれない」
 仁史は興奮してしゃべった。トニオは大きくうなずく。
「次はそこに営業してみる。アンジーがいいプロモーションムービーを作ってくれたから、またそれを利用する」
 トニオは、向かいの机に座る二十代の小柄な女性を指さした。
「アンジーの作ったアニメーションムービーは、すごく楽しそうでスタイリッシュなんだ。アコースティックでしか味わえない本物のよろこびを、とかキャッチコピーもかっこいいし」
 仁史は同意して、あいづちをうった。しかしアンジーはパソコンの画面を見て、キーボードをたたいたままで、
「うるさい、黙れ」
 と、不機嫌な顔でつぶやく。仁史もトニオも、アンジーの言動には慣れているので、
「アンジーのやつ、照れている」
「君が不意打ちでほめるからさ」
 と、笑った。アンジーは、もとは広報部にいた。だがいきなり仁史に会いに来て、にこりともせずに頼んだ。
「今の職場が合わない。愛想よくしろと言われたけれど、私は嫌なの。私は役に立つから、私の能力をいかして」
 仁史はさまざまなコネを使って、トニオと同じようにアンジーも異動させた。トニオ、アンジー、ヨンハがやってきて、サポート課は実質、無重力ピアノ開発課になった。
「無重力ピアノに買い手がついたぞ!」
 トニオは窓を開けて、外に向かってさけぶ。ちなみにここは一階なので、中庭で歓談している人たちが、ぎょっとしてこちらを向いた。仁史は上司として、すみませんという顔を彼らに向けた。
 中庭をはさんで向かいには、本社併設の研究所がある。研究所の二階の窓から、無重力ピアノの開発エンジニアたち、――トニオの仲間たちが顔を出した。
「やったな、トニオ!」
 彼らも喜び、遠慮なくさけぶ。
「今夜は飲みに行くぞ」
「元御曹司とアンジーも誘えよ」
「承知した! サポート課の全員を呼ぶぜ」
 トニオが返答したところで、
「トニオ。窓越しにさけばずに、メールか電話を使ってほしい」
 仁史は注意した。が、トニオの耳には届いていないようだ。
「トニオの口を、ワイヤーでぬいつけたい」
 アンジーはむすっとして、キーボードをたたき続ける。
「無重力ピアノがうまくいけば、仁史さんの社内での評価は上がります。後継者の座に返り咲くことも可能かもしれません」
 ヨンハがにこにこと笑う。サポート課は以前、元御曹司の追い出し部屋と陰口をたたかれていた。しかし今は、変人のそうくつと言われている。でも、それでいいや。仁史はサポート課のメンバーを見て、笑みを浮かべた。
「仁史さん、そろそろ時間ではありませんか?」
 仁史に一番近い机の、義則が声をかける。前までは、仁史と義則しかいない部屋だった。しかし今は、おもにトニオのせいで大変にぎやかだ。義則もうれしそうに見える。
「そうだ。菜苗さんを待たせるわけにはいかない」
 仁史はいそいそと、机から立ち上がった。そして、ゆるんでいたネクタイをしめなおす。母は菜苗に会いたいらしい。昔の友人が近所に引っ越してきたから、また一緒に遊びたいようだ。仁史は菜苗に迷惑だからと母をとめたが、母は聞かなかった。
 仕方なく菜苗にメールを送ると、快諾の返事がきた。菜苗に会える! と仁史は喜び、母のずうずうしさに感謝した。
「トニオ、ヨンハ、アンジー、僕はもう帰るよ。トニオ、せっかくだけど、また別の日に誘ってほしい。それじゃ」
 また月曜日に、と言おうとして、仁史は口をとめた。トニオもヨンハもアンジーも、興味しんしんでこちらを見ている。
「恋人だな!」
「いや、ちがう」
 トニオに対して、仁史は即座に否定する。
「なら、口説いている最中?」
「それは、その……」
 アンジーの質問に、たじたじになる。
「仁史さんに目をつけるとは、見る目のある女性ですね」
「そういうわけでは……」
 ヨンハのコメントには、腰が引ける。
「仁史さん、はやく部屋を出た方がいいですよ。もう菜苗さんは、一階のロビーで待っているのではありませんか?」
 義則が親切心で、仁史をうながす。しかしそれが決定打となった。
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