恋人は月でピアノを売っている

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  04 政略結婚みたいなもの  

 父は、仁史と婚約しなければ会社がつぶれると、菜苗をおどした。実際に、そのおどしがどれだけ本当だったのか分からない。とにかく父は、菜苗が金持ちにみそめられたことを喜んでいた。
 子どもだった菜苗は、父に逆らえなかった。父は社内ではワンマン社長で、家庭内でもそうだった。
「私は婚約者の彼も、彼のお母様も好きだったけれど」
 それに仁史の家は豪邸で、ひろびろとしたリビングに最高級のTSUBAKIのグランドピアノが置いてあった。菜苗はそれを弾くのが好きだった。
「さすがに結婚は無理だった。彼は五才も年下の子どもで、そういう対象じゃなかった」
 加えて、親に強制されて結婚するなんて嫌だった。しかも、父が大喜びするような金持ちと。
 そして菜苗はいつも、同世代の男性に恋していた。けれど婚約中のため、常にあきらめるはめになった。合コンの誘いを断り、好きな男性から愛を告白されても断った。菜苗は影で、歯を食いしばり涙を流してきた。
「御曹司と婚約しているの!? すごいね、玉のこしじゃん」
 と、うらやましがる友人もいた。だが菜苗は笑顔を作りつつ、心の中にどす黒い感情が渦巻いた。そんな菜苗の事情を分かっていたのだろう、仁史はけっして自分の想いを口にしなかった。彼の態度から、菜苗にほれているのはよく分かったが。
「そしたら婚約者の彼が、――彼は仁史さんと言うのだけど、仁史さんが婚約を解消してくれたの。彼と結婚せずにすんで、本当によかった」
 仁史は菜苗を思いやって、婚約を破棄した。菜苗は彼に感謝して、やっと自由を取り戻した。
「で、その彼から来たメールなの」
「よりを戻そうって?」
 メイは菜苗に近づいて、心配そうに問いかける。菜苗は首を振った。
「私は婚約していたとき、彼のお母様と仲がよかったの。一緒にクッキーやケーキを焼いたりしていた」
 菜苗は母を、子どものころになくしている。だから、優しくてあたたかい仁史の母のそばが心地よかった。
「なのでお母様が、ひさびさに私に会いたいとおっしゃっているみたい。つまり家に遊びに来てほしいと」
 確かに菜苗も、仁史の母と会いたいが……。
「結局のところ、よりを戻しましょう、てことでしょう?」
 メイは言う。菜苗は、うーんと首をひねった。
「あのお母様はかなりの天然だったから、そういうことは考えてなさそう」
 仁史も仁史で、天然の気がある。仁史は宇宙港のホテルで、菜苗が泊まる部屋までスーツケースを運んだ。部屋まで入ってきた仁史に、菜苗は警戒した。菜苗は廊下に立ち、仁史が部屋から出てから、部屋に入った。
 が、仁史は何もしてこなかった。彼は純粋な親切心で、菜苗の荷物を運んだようだった。
「それに仁史さんも、婚約を解消してから三年もたっているし」
 新しい婚約者や恋人がいても、おかしくない。仁史自身はいい子で、いい学校に通っていたのだから。菜苗は気分が落ちこみそうになって、意識して顔を上げた。
「そもそも、よりを戻したかったら、普通はデートに誘うよね? お母様に会いに来てって意味不明だし」
 菜苗は少し、すねた気分で言う。メールが来たとき、菜苗の脳裏をよぎったのは、デートの誘いだった。月面都市を案内しますとか、おしゃれなバーでお酒を飲みませんかとか。まさか僕のママに会いに来てなんて、マザコンっぽい内容とは思わなかった。
「彼の家に行けば?」
 メイは菜苗に、ぐいっと顔を近づける。
「でも……」
 菜苗はためらう。
「慎重なのは菜苗の長所だけど、たまには無鉄砲も必要よ。行きたいと思っているから、迷っているのでしょ? いつもの菜苗なら、さくっと断るじゃない」
 菜苗は月に来てから、二人の男性にデートに誘われた。しかし迷わずに断った。けれど今回は、うじうじと悩んでいる。メイは、にこっと笑った。
「もしも仁史に恋人がいれば、私が高くておいしいケーキを買って、なぐさめてあげる」
 友人の気づかいに、菜苗の気持ちは楽になった。
「ありがとう」
 次にメイはまじめな表情になって、
「逆に、仁史がよりを戻したいと言うなら、どうするの?」
 菜苗は黙った。仁史との婚約が解消されてから、菜苗は三人の男性と付き合った。一人目は食事のマナーが仁史より悪く、一緒に食べるのが不快だった。
 二人目はすぐに胸や尻を触ってきて、怖くて嫌だった。仁史は、いっさいのちかん行為をしなかった。子どもだったせいもあるが、ものすごく初心だった。一緒にピアノの連弾をするだけで、顔を真っ赤にしていた。
 そして三人目はとてもいい人だったが、音楽の話題にうとかった。対して仁史は、ピアノもバイオリンも弾けた。音楽大学に通っていた菜苗よりも、いい耳を持っていた。
(私は誰と付き合っても、仁史さんと比べてしまう)
 菜苗の恋がうまくいかないのは、仁史のせいだ。きっと彼が、変に理想化されているのだろう。菜苗は、結婚はしたくなかったが、仁史には好感を持っていた。
 菜苗は仁史と向き合わなくてはならない。でないと、地球の重力にとらわれた月のように、仁史の周囲を回り続ける。
 だから菜苗は、月への移住を決めた。移住後落ち着いてから、仁史に連絡を取る予定だった。さらに月は好景気で、移民ラッシュが続いている。
 菜苗は、仁史とは無関係に移住を決めたというスタンスで、話を進めるつもりだった。だがそれらはすべて、父が仁史に連絡したせいで駄目になった。
「分からない」
 長く考えたすえに、菜苗は答えた。
「菜苗が頭でっかちに、悩んでいることだけは分かった」
 メイは苦笑した。
「これ以上は私と話しあっても意味ないよ。仁史に会いに行きな。でも念のため、護身用スタンガンを貸すから、持っていってね」
 菜苗はうなずいて、友人のアドバイスに従うことにした。
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