リオノスの翼　―少女とモフオンの物語―

　　２−５　　

　無数の手が伸びてくる。瞳は逃げたが、手は瞳を捕まえて、長い髪を切り、制服のスカートにはさみを入れた。
　――助けて、誰か助けて！
　必死にさけぶ。前方に、また多くの手が現れた。手は、派手なガラの筒を持っている。家庭用の打ち上げ花火だ。瞳はぞっとした。火柱が立つ、火の玉が飛んでくる。熱い、痛い！　煙が立ちこめて、瞳の視界を奪う。
　――お願い、やめて。許して！
　頭を抱えて、土下座して請うた。三度、たくさんの手が現れる。手は、携帯電話やスマートフォンを持っていた。地面をはいずり回る瞳を、笑いながら撮影する。
　――なんてみっともない、汚いやつ。
　――この写真を、クラスのみんなにメールで送ろう。この動画をネットに上げよう。
　逃げれば逃げるほど、抵抗すればするほど、泣けば泣くほどに彼らは喜んだ。瞳はクラスメイトたちに囲まれて、けられなぐられ、髪や服をひっぱられた。もう悲鳴すら出せない。亀のように丸まって耐える。
　けれどわき腹をけられて、ひっくり返された。四方八方から手で押さえられて、大の字にされる。
　――おい、この女を犯そうぜ。
　ひとりの男子生徒が唇をゆがませて、ズボンを脱ぎ始める。瞳はついに、恐怖心から理性を失った。獣みたいにわめき、がむしゃらに逃げる。だが捕らえられて、スカートをまくり上げられた。
　――助けて助けて助けて助けて助けて！
　くるったように絶叫する。あぁ、あんな犬を助けるのではなかった。
「瞳、瞳……」
　夕暮れの空から声が降ってくる。
「瞳、起きるんだ！」
　はっと目を覚ました。険しい表情のシフォンがいる。彼の肩ごしに、サラが心配そうに見下ろしている。心を落ちつかせる、深い群青の瞳。
　ぺろりと腕をなめられた。視線をやると、サラの子どもたちが鼻さきをくっつけている。きゅうと鳴いて、大丈夫か？　とたずねた。子どもたちのそばには、明るいランタン、――シフォンのものだろう、があった。
　サラの巣穴でシフォンに抱かれて、瞳はゆっくりと上体を起こす。今夜も、悪夢を見たのだ。寝汗をびっしりとかいて、気持ち悪い。
「かわいそうに、怖い夢だったのだね」
　シフォンの体のあたたかさに、瞳はわっと泣き出した。すがりついて、声を上げて泣き続ける。体の傷は、すっかりといえていた。不ぞろいになった髪は、切りそろえてもらった。
　靴はどこかで落としたらしいが、セーラー服は洗濯してもらった。けれどそでを通す気になれず、集落の人々からお下がりの服をもらった。シルバニアファミリーのようにレトロなデザインだったが、不満はなかった。
　今の瞳には、うれうことはない。しかし、ひとつだけ不安に思うことがあった。
「私は、処女ですよね？」
　シフォンの体がこわばった。瞳は息を詰めて、返事を待つ。
「君の体に性行為のあとは見られなかった、とガトー先生はおっしゃった」
　彼はかたい声で告げる。その事実は、想像以上に瞳をほっとさせた。全身から力が抜けて、シフォンに預ける。
「すまない、瞳。先生もショコラさんも、君にどう伝えるべきか迷って」
「いえ。ガトー先生は、私の体はもどどおりになったと話してくれました」
　彼はあいまいな言い方で大丈夫と伝え、瞳は何も聞かずにうなずいた。だが瞳は性に関してはあやふやな知識しかなく、自分が逃げられたのか確信が持てなかった。そしてガトーに問いただすのも怖かった。シフォンが瞳を、ぎゅっと強く抱きしめる。
「たとえ君がそういった暴力を受けたとしても、はじることも引け目に感じることもない。君は悪くない。君を侮辱する者がいたら、僕がけっして許さない」
　彼の心臓の音が、耳に響くようだ。彼は、瞳を傷つけたクラスメイトたちに怒っていた。温和なシフォンが怒りに染まることを、瞳は悲しまなくてはならないのに、今はありがたかった。
　守られている、分かってもらえているという安心感がある。彼の体温に包まれて、心地よく両目を閉じた。が、ふと疑問に思う。瞳はシフォンの腕の中で、顔を上げた。
「なぜこんな真夜中に、ここにいるのですか？」
　集落の小屋で、もしくは村はずれの自宅で眠っているはずなのに。シフォンは瞳を離して、バツの悪い表情になった。
「突然、不安になって」
　シフォンのせりふに、瞳は首をかしげる。
「昼間はああ言ったけれど、十六才の女の子である君を野宿させているわけで、危険じゃないかと」
　彼はしどろもどろ、しゃべった。
「でも私には」
　瞳の反論を聞く前に、彼は情けなさそうに笑った。
「そう、君にはサラがいる。何があっても平気だ。山に入ってからそう考え至ったけれど、つい来てしまったんだ」
　シフォンはがっくりと肩を落とす。瞳は、リオノスと眠るために何度も巣穴に入ったというシフォンの話を思い出した。そうだ！　と妙案がひらめく。
「私と一緒に寝ませんか？」
　なんてすばらしいアイディアだろう。瞳は喜んだ。
「え？　なぜ？」
　シフォンの口もとは引きつる。
「今なら、リオノスと一緒に眠れますよ」
　瞳は寝そべっているサラに抱きついて、毛皮にほおずりする。サラは多少あきれた目をしたが、許してくれそうだ。瞳は笑顔で、シフォンを手招きした。彼は迷ったすえに近づく。苦しげな笑みを浮かべた。
「この国では、『八才よりは男女、枕を並べず』と言って……。僕は一応、男」
　シフォンはうわっとさけんで、前のめりに倒れる。サラの胴体にしがみつく形になった。彼の背中に、サラの子どもたちが前足をのせている。得意げに前足を動かして、ふみふみをした。子どもたちは、シフォンと寝床をともにしたいようだ。瞳はうれしくなった。
　シフォンが体をあお向けると、子どもたちは彼のほおやあごをべろべろとなめる。瞳は彼に身を寄せて、寝転んだ。瞳と子どもたちにくっつかれて、シフォンはため息を吐く。
「無邪気さは罪だ」
　困った声に、瞳は不安になった。
「ご迷惑でしたか？」
　大人になった今は、リオノスと眠りたいと思わないのかもしれない。
「いいや！」
　いきなり激しく、彼は否定した。瞳の肩を抱き寄せる。
「まったく迷惑じゃない。むしろ今からやめられた方が嫌だ。子どものころの夢がかなってうれしいよ」
　本当にうれしい、と完全に棒読みだった。瞳はいぶかしんだが、サラの白い翼が覆いかぶさる。夜更かしはやめて、眠りなさいの合図だった。瞳は、すとんと眠りに落ちる。今夜はもう、怖い夢は見ない。もしも見ても、彼が助けてくれる。