リオノスの翼　―少女とモフオンの物語―

　　２−４　　

研究小屋に入ると，シフォンはソファーで，もくもくと本を読みふけっていた．
そばのローテーブルには四，五冊の書物が積まれている．
皮の袋やひももあるので，おそらくこれらが届いたものだろう．
瞳が扉のところから声をかけると，彼は顔を上げた．
眼鏡の奥にある深緑の目が，優しくほほ笑む．
「はやかったね．ガトー先生の用事はもう終わったのかい？」
瞳は返答に困った．
瞳はガトーたちと話し，さらにビターたちとも油を売っていた．
しかし新しい本を読んでいたシフォンには，短く感じたのだろう．
瞳はあいまいにうなずいてから，聞いた．
「本棚の整理をするのですよね？」
「あぁ．」
シフォンは，手にしていた本にしおりを挟む．
ローテーブルに置いてから，本棚へ向かった．
本棚は，壁一面にある．
天井から床まで，右端から左端まで，ぎっしりと本が詰まっている．
すべて洋書であり，アルファベットに似た文字が印字されている．
「僕のひいおじいさん，おじいさん，父さん，おばさん，僕．みんなで集めた資料だからね．」
シフォンは誇らしげに笑った．
彼の父親と祖父には，瞳は二，三度ほど保護区で会ったことがある．
「あまり読まないものを地下の倉庫へ持っていこう．それから，」
あれとあれとあれを入れ替えて，ついでにあの図鑑は，辞典は……，とつぶやく．
「最後に，空いた場所に新しい本を入れよう．」
瞳は，はいと返事をした．
シフォンは部屋の隅から，木製の踏み台を持ってくる．
台に乗って，天井近くの本を二冊ずつ抜き取った．
瞳は本を受け取り，ある程度の量になると，壁際の長机の上に置く．
机の上には，万年筆らしいもの，インクつぼ，きなり色の紙，青銅の文鎮があった．
パソコンやプリンターなどの機械類は見当たらない．
壁にはポスターと地図が飾られている．
大剣を掲げた男の人がリオノスに乗って，騎馬の軍団を率いて草原を走っている．
地図はどこの地方のものか分からないが，多分ヨーロッパかロシアだ．
作業は順調に進んだが，あるときシフォンは何かに気づいて，踏み台を降りてきた．
「どうした，瞳？　さっきから様子がおかしい．」
まゆを寄せて，心配げな表情だ．
瞳はぎくりとして，目をそらす．
「何があった？　教えてくれないか．」
腰を落として，問いかける．
が，瞳は答えることができなかった．
シフォンに対する気持ちが，ガトーの一言で変わった．
いや，ちがう．
変わったのではなくて，見ないふりをしていた．
幼い子どもになって，本当の年齢を忘れていた．
けれど周囲はちゃんと，瞳を十六才として扱っていた．
いつか大人になる存在として．
「何でもないです．私は大丈夫です．」
瞳は笑顔を作る．
が，シフォンは信じていないようだった．
「僕には言いづらいことかい？」
肯定すべきか，否定すべきか．
彼は瞳を，何才の少女として認識しているのだろう．
もしかしたら彼だけは，十才くらいの子ども扱いかもしれない．
そう言えば前に，「僕は三人兄弟の末っ子だから，弟か妹がほしかった．」と告白された．
彼は考えこんで瞳を見つめていたが，やがてゆっくりと立ち上がる．
瞳の手を引き，ソファーに座らせた．
そして自身は隣に腰かけ，瞳の両手を包み込む．
「僕の子どものころの話を聞いてほしい．」
唐突な話題に，瞳は目をぱちくりさせる．
「僕は，父や祖父の仕事がら，小さいときから保護区に通っていた．」
二人の兄とともに，父親たちの職場に遊びに行っていたのだ．
山では，シフォンたちはリオノスの子どもたちと，転がり回って遊んだ．
そんな彼の夢は，空を飛ぶリオノスを見ることと，夜にリオノスと眠ることだった．
「リオノスって飛ぶのですか？」
話の途中だが，瞳は驚いて質問する．
リオノスは，鶏のように翼があっても飛べないものだと思っていた．
「僕は見たことはないけれど，昔は飛んでいたらしい．」
瞳は，日本でサラに助けられたときの，虹色に輝く翼を思い出した．
「それで僕は，空飛ぶリオノスは無理でも，リオノスと寝ることはできるだろうと，」
夜に枕と毛布を持って，何度も巣穴に入りこんだ．
しかしリオノスは，すぐに起きて逃げたり，はたまたシフォンを巣穴から追い出した．
彼の夢は，一度も実現しなかったのだ．
「今，考えれば当然だけどね．」
シフォンは笑う．
「いくらリオノスが人に慣れた幻獣でも，人の前で無防備に眠るわけがないよ．」
「そうなのですか？」
瞳には意外だった．
「君は例外だよ．」
シフォンは，力をこめて言う．
「君はサラの保護下に入り，ほかのリオノスからも仲間と認められている．」
僕がどれだけ君をうらやんでいるか，分かるかい？　といたずらっぽくたずねる．
「だから今は，サラの子どもでいたらいい．あせらなくても，そのうち君は大人になる．」
彼は瞳の手をそっと離した．
「巣立ちのときを迎えたら，サラは容赦なく君を巣穴から追い出す．それまでの間，この特別なリオノスとの関係を楽しめばいいよ．」
「ありがとうございます．」
瞳は礼を述べる．
話の意図が理解できたからだ．
集落で夜を過ごせなくても，――人間らしい生活ができなくても，心苦しく思う必要はない．
きっと大丈夫になるから，と彼は伝えているのだ．
「さぁ，本棚の整理を再開しよう．」
「はい．」
瞳とシフォンは笑いあって，ソファーから立ち上がった．