階段と塔の姫　　

階段には，嫌な思い出がある．
その階段に，僕は今も苦しめられている．
ぜいぜいとあえぎながら，一歩一歩，螺旋階段を上っていく．
高い高い，天まで届く石の塔．
塔の内部は，ほぼすべてが最上階の部屋へ続く階段だ．
長い，長すぎる……．
右手に持っている蝋燭が，だいぶ小さくなっている．
僕は汗だくだ，どれだけ上ったのだろう．
膝が笑い出した，明日は確実に筋肉痛だ．
もう駄目だ，これ以上は上れない，と嘆いたところで出口が現れた．
「はぁー，やっと着いた．」
ドアを開いて，僕はため息を吐いた．
部屋の中には，姫が一人きりで居た．

姫は紺色のドレスを着ている．
髪をきっちりと結い上げて，化粧はしていない．
姫は無表情に，僕の方を見つめた．
「姫，あなたを助けに参りました．」
すると姫は，ゆるゆると首を振る．
「必要ありません．」
姫は，この塔の中に閉じ込められている．
「必要ないことは無いでしょう．外に出ませんか？」
悪い国王や悪い魔女たちが，姫を閉じ込めたのだ．

「嫌です．」
無表情のままで，姫はきっぱりと言い切った．
「帰ってください．」
強情だなぁ，と僕は呆れる．
「お父上とお母上が心配なさっていますよ．」
彼女の表情が，ほんの少しだけ揺れた．
「妹姫も泣いていらっしゃいました．」
ぐらぐら，ぐらぐらと揺れる．
よし，このまま押せば，姫を塔の外へ連れ出せる．
「あなたは，あなたのご家族のためにも自分を大切にすべきです．」
「嫌です．」
姫は，同じ台詞を再び言った．
しかし今度は無表情ではない，はっきりと嫌悪の感情が浮かんでいる．
「帰ってください，今すぐ．」
敵意のバリアを張って，姫は自分自身を守っている．

これは，出直すべきだろうか．
「また参ります．」
僕は部屋から出て行こうとした．
ドアを開くと，階段．
冷たい石の階段が，暗い口を開けて僕を待つ．
――怖い．
僕は立ち竦んだ．
この階段は，あの階段ではないのに……．
僕はここから一歩も動けない．
「……どうしたの？」
姫が初めて，優しい声を出した．
「何でもありません．」
声が震えている．
姫は僕のそばまで，やって来る．
そして僕の腕を掴んで，強引に階段から離した．

姫のガラス玉の瞳が，僕を見つめる．
その瞳に映った問いに，僕は答えた．
「僕はあなたの仲間です．」
姫は瞳を逸らして，戸惑った．
彼女は初めて，自分の同類を見つけたのかもしれない．
僕は僕を救ってくれた人々の顔を思い浮かべて，勇気を奮い立たせる．
「僕と一緒に，がんばりませんか？」
「嫌よ！」
姫は叫んだ．
姫の両手首から，どろりとした血液が溢れ出す．
とろとろと流れ，彼女の白い腕を真っ赤に染める．
「高田綾香さん！」
僕は彼女の両手を握る．
逃がさない，あちらの世界へは行かせない！
「あなたは，まだ死んでいない！」
はっと瞳を見開いて，彼女は口をわななかせた．
「わ，私，死に，損なった……？」
彼女のブレザーの制服が，血に濡れる．
どす黒い，元は赤であった命の色．
僕は知っている，自分の血の色を．
階段から転げ落ちる，いや，違う．
僕は，クラスメイトたちに突き落とされた！

「ひっ……！」
早朝，渡辺裕二は目が覚めた．
笑い声が聞こえたような気がして，ベッドのそばに置いてある竹刀や金属バッドを掴む．
辺りを見回し，見慣れた本棚や机を発見してから，武器を手放した．
ゆっくりと長い息を吐く．
ここは裕二の自室である，学校ではない．
鼓動はまだ速かったが，少しずつ心が落ち着いてきた．
そっとベッドから起き上がる．
部屋はまだ薄暗いが，窓のカーテンが明るくなっている．
ちょうど朝日が昇る時間に，目が覚めたらしい．
じゃっと音を立てて，カーテンを開く．
すると遠慮がちに，部屋のドアをノックする音が響いた．
「裕二，裕二……，」
母の声だ，不安に満ちている．
あの日から，母もほんの少しの物音で目覚めるようになってしまった．
裕二は出来るだけ優しい笑顔を作ってから，ドアを開ける．
裕二の無事な姿を見て，母はほっと胸を撫で下ろした．
「……母さん，」
裕二は霞みかかった夢の内容を，思い出そうとした．
「今日も，市民病院へ連れて行ってくれないか？」
昨日，裕二は母とともに，高田綾香の見舞いに行った．
綾香は裕二が通っていた高校の生徒であり，五日前に両手首を切った．
「彼女は強情だけど，毎日見舞いに行けば目を覚ましてくれるかもしれない．」
彼女の自殺の原因は，いじめではないと学校側は発表した．
裕二の階段からの転落が，事故として処理されたように．
あの日のことを思うと，今でも父は涙を流しながら怒り狂う．
――息子は学校で，殺されかけたのだぞ！

けれど裕二は，そんなことはどうでもいいと思っている．
本当に大事なのは，大切なのは，
「彼女も早く目覚めてくれるといいわね．」
母は，さめざめと泣き出した．
生きていてくれてありがとう，裕二が目覚めたとき，母はそう言った．

だから，高田綾香さん．
あなたも早く，目覚めてください．
窓から朝日が静かに差し込んでくる．
在学中は顔も名前も知らなかったけれど，今は彼女を救いたいと思う．
頼りなく弱い光だけど，強引に連れ出せるほどに強くないけれど．
僕は階段を上って，あなたに会いに行く．
日の光に目を細めながら，裕二はふと妙案を思いついた．
今日は自分が今，通っているフリースクールの学校案内のパンフレットでも持っていくか，と．