異国の少女(改訂版)


薄暗い部屋だった,床の大理石が白色に輝いている.
「さぁ,ミドリ……,」
王城の地下室で,少年の真摯な紫紺の瞳が少女を促がす.
どんどんと眩しくなる光に目を細めながら,少女は光の中心に立つ少年の方へと歩みを進める.
「手を…….」
差し伸べられた手を取って,これが最初で最後の触れ合いだと少女は涙を流した.

次に気が付いたとき,少女は緩やかな坂を下っていた.
つと足をとめ,周りを見回す.
道の左右には常緑樹の街路樹,坂の下には駅と商店街の町並みが見える.
ここは,……日本.
見慣れているはずの,どこにでもある故郷の情景.

そう,少女は帰ってきたのだ,こっちの世界に.
あの,中世ヨーロッパの面影を映すあっちの世界から.
この道は通っていた中学校から家へと帰る道だ,そう気づくが早いか,少女は駆け出していた.

父は,母は,妹はどうなったのだろうか?
少女は1000日間も,あっちの世界に囚われていたのだ.
「ミドリ,」
聞き慣れないイントネーションで少女の名を呼ぶ少年の声.
少女は漆黒の髪を揺らし,痛む胸に足を取られないようにがむしゃらに走った.

少女の家は,少女の記憶するところにあった.
チャイムを押し,堪えきれずにドアを叩く.
「お父さん! お父さん!」
道行く人々が奇異な視線を寄越してくる,少女は構わずにドアを叩き続けた.
「お父さ,」
「水鳥(みどり)……?」
ドアを開いた父は,記憶の中よりも痩せていた.

「いったい今までどこにいたんだ? ……その,服装はなんだ? 何をしていたんだ?」
父は,3年ぶりに帰ってきた奇妙な服装をした娘を問い詰めた.
玄関先に立ったままで,少女は質問に質問を返す.
「お父さん,お母さんと萌葱(もえぎ)は?」
軽く眉をひそめ,父はすぐに諦めたような淡い笑みを口元につけた.
「あぁ,結局離婚したよ.萌葱はお母さんの方へついていった.」
予想できていた答えに,少女の瞳が悲しげに曇る.
「そうだ,それよりお母さんに電話しなさい,九州の実家にいるから.」
一呼吸置いてから,娘に家に上がるように招いた.
「話はそれからにしよう…….」

久しぶりに聞いた母の声はヒステリックなものだった.
どこにいたのか,何をしていたのか,何を考えているのか,これからどうするのか…….
「あなた,中学校はどうするの? いったい3年間も何をやっていたの? 本来なら萌葱と同じく高校生のはずなのに……,」
完全に社会からドロップアウトしてしまった娘に,頭を抱えてため息を吐く.
その息遣いが電話越しに,少女にはよく聞こえた.

妻と電話をする娘の背中を眺めながら,父は言い知れない不安な気持ちになっていた.
ここにいるこの少女は本当に自分の娘なのだろうか…….
知らない,このように大人びた少女など知らない.
いや,少女の着ている変な服装のせいだ,ずいぶんと雰囲気が違ってみえるのは.
まるで最近はやりのファンタジー映画の登場人物のようだ.
いや,服だけではなく,髪飾りもペンダントも履いていた靴までも,これでは中世ヨーロッパの姫君ではないか!

電話を切った少女が振り返る,彼は思わず娘に対して構えてしまった.
「水鳥,私は…….」
少女の瞳が哀しみに彩られる.
決定的な亀裂を,その漆黒の瞳に映して.
「お父さん,私,信じられないかもしれないけど…….」
何よりも理解しえないもの,受け入れがたいもの.

……私は3年間,異世界にいたの.
少女はぐっと言葉を飲み込んだ.
もう言葉にならない,父親の硬い表情を見ただけで.

少年の瞳は,そばにいてほしいといつも少女に訴えてかけていた.
少年がその想いを口にすることは決してなかったが,少女には分かった.
なぜなら少女も同じ気持ちだったからだ.

「水鳥!」
父親の声を背に受けて,少女は家を飛び出した.
「待ちなさい!」
逃げるように振り切るように,息が切れても走り続ける.
自分はどこへ行きたいのか,どこへ帰りたいのか.
駅へと向かう自身の足が問いかけてくる.

駆け込んだ商店街では,すれ違う人々が不思議そうな顔を少女に向ける.
中にはあからさまにじろじろと眺めてくるものも居る.
あまりの居心地の悪さに少女がショウウインドウで自分の姿を確認すれば,それもそのはず,この日本では水鳥はまるで異国の少女だ.
まったく風景と溶け合わない.

「ミドリ,約束の1000日目だ.」
悲しいのか安堵しているのか,少年の紺色の眼は揺らめいていた.
「君を故郷に帰すよ.」
けれど精一杯落ち着いた声で,優しく笑みをつくる.

日本に帰ってきたのは,家族が恋しかったからではなかった.
そのことに少女は気づいてしまった.
少年が望むから,帰ってきたのだ.
少年が故郷で安楽な一生を送ってほしいと望んだから,少年と別れたのだ.

「私……,」
ガラスに映るのは,異国の少女.
立つべき場所はここではない.
雨に濡れる赤茶けた町並み,砂の舞う果てしない砂漠.
荘厳な城,王の間に続く長い廊下,一人で歩く孤独な王子.
その,夕闇の色をした瞳……,

「父上はこの戦争が終わったら,私とミドリを殺すだろう.」
ならば,決して離れない.
「私たちは武勲を立てすぎたのだ,父王が不快に思うのもしかたない…….」
私も一緒に逝く,ずっと二人で戦ってきたのだから.
私があなたを守るから…….

そのときの少年の悲しい笑顔を一生忘れない.

「ガロード!」
少女は力の限り叫んだ.
「ガロード! ガロード!」
まるで少年に許しを請うかのように.

あなたに,逢いたい……!

けれど応えてくれるはずなどない.
少女は故郷へと帰ってきてしまったのだから.
「水鳥…….」
ふと眼を上げると,困惑しきった父親の顔.
「こんな街中で,」
いったい何をやっているのだ,と.

「しあわせに生きてくれ,それだけでいい.」

少年が願わなかったら,きっと家には帰らなかった.
「ごめんなさい,お父さん……!」
泣きじゃくる少女に,彼は手を差し出そうとした.
娘なのだ,たとえ見知らぬ顔をしていても,この少女は彼の娘なのだ.

その,刹那.
白い光が,アスファルトの地面から現れる.
「なんだ,これは!?」
考えの及ばない超常現象に父の足は一歩,二歩と下がる,少女から離れてゆく.
驚き,おびえる人々のざわめきが耳に届く.
しかし少女は,彼の娘はその光の中心へと向かっていくではないか!?
「水鳥!」
呼び止める声は,悲鳴じみたものになる.
「ごめんなさい,お父さん.」
泣き笑いの顔で,娘は振り返る.
決別の涙をひとつだけ落とし,背を見せて彼の手の届かないところへといく.

「水鳥,行くな!」
光の向こうには小さな人影.
それは遠慮がちな視線を送ってくる少年の姿をしていた.
「さようなら…….」
少女がその手を取った瞬間,光が世界を漂白する.

やがて光は消え,少女も消えた…….

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||「心の瞳」第一章「異国の王子」||


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